第2章 冷静沈着に対応する乙女
アルバイン公爵令嬢であるエメランダに抱き締められた少女。
彼女の名前はアイラ=ハラン。
アイラは自分の名前をたいそう気に入っていた。
平民の名前みたいだと周りから嫌味を言われ、馬鹿にされたりもするが平然とそれを聞き流していた。
彼女からしたら、愛称で呼び合うくらいなら、最初から無駄に長い名前なんていらないと思っていたからだ。
セカンドネームもしかりだ。
名前には言霊が宿るという。いくつも名前があったら、生きる上で信念がぶれそうで怖いと思った。
その場その場で違うことを平気で口にする信用ならない大人達は、大概長ったらしい名前を持っていた。
彼女が一番嫌っていたとある夫婦も、まさにそれに該当していた。
「ヒュンバルト=ブレイントン=ウルフレットシュレーゲルスタイン」と、「アレクサンドラ=キャンベル=ウルフレットシュレーゲルスタイン」
(あの夫婦の名前を正式に言える人間が一体何人いたのかしらん。
少なくとも二人の馬鹿な息子と娘も自分の両親の名前をちゃんと言えなかったわ。
その馬鹿な子供も親同様長ったらしい名前を持っていたが、「ルオー」「キティ」と家族で呼び合っていたのだから、それが正式名称でいいじゃないの!
絶対にやつらは契約書に名前を書くときに、正式な自分の名前を綴れないに違いない。
学園に入学しても、きっと落第すると思うわ。
だって、あそこはずいぶんとお堅い学校らしくて、テストの氏名欄に正式な名を記入しないと点数がもらえないそうだから。
よしんば名前が間違っていなくても、そもそも記名に時間がかかったら問題を解く時間を大幅にロスして、きっとろくな点を取れなくなるわ。試験のときって焦るだろうし。
なんたってあの二人、ただでさえ頭が悪い上に勉強嫌いなのだから)
……とアイラは思っていた。
まあ、その彼女の予想は一部当たっていたが、実際は杞憂に終わった。
ウルフレットシュレーゲルスタイン夫妻は詐欺で逮捕され、騙し取ったお金の返済の為に鉱山へ送られた。
そのため、残された彼らの子供は平民となって奉公に出て、学園に入ることはなかったからだ。
おそらく、名前も短いものに変えられたことだろう。その方が彼らにとっても良いことだったろう。
親と同じ誤りをしなくて済むはずだから。
この詐欺事件、当初最大の被害に遭ったのはアイラの家だった。
ウルフレットシュレーゲルスタイン男爵夫妻は、あちらこちらから高額な金品を購入して夜逃げしてしまった。
その結果、債権者達は夫妻の連帯保証人になっていたハラン子爵家にどっと押し寄せたのだから。
ハラン夫妻は金策に駆け回った後、万策尽きて、嫡男のロードにこう頼んだ。
「王太子殿下や公爵令息様に、返済期限の延長、あるいは銀行から金を借りられるように口添えして欲しいと、お前からお願いしてくれないか。
このままじゃ、我が家は爵位を返上しなくてはならない」
アイラの兄のロードはとても優秀で、学園では生徒会のメンバーであり、高貴な方々とも親しくしてもらっていたのだ。
しかし、両親からそう言われて、兄は顔を顰めた。
友人をあてにし、利用するような真似をしては、信頼を損ねてしまう。
兄は友人を大切に思っていて、彼らを使って出世しようとか、利用しようなどとは露とも思っていなかったのだ。
それくらいはまだ十二歳のアイラにもわかった。
だから両親の頼みに応じようとしない兄に向ってこう訊ねた。
「お兄様、仮にお金を借りられたとして、返済は可能なのですか?」
「僕の代ではとても無理だろうな。利子の返済だけでも相当な額になるだろうし」
「そんな借金持ちのところにお嫁さんなんて来ないでしょうから、お兄様の子供が返済するのも不可能な話ですよね?
それなら無駄に借金を増やすよりも、さっさと今あるこの屋敷と領地を手放して爵位も返上した方がよいのではないですか?」
「そうだな。その方が真っ当な人生を送れそうだな。
お前一人くらいなら、僕が面倒をみられるだろうし。
いくら平民になって出世ができなくなったとしても、上級官吏試験に合格しているからなんとかなるだろう。
父上と母上はいい大人なのだから自分達でなんとかするだろうしね。
そもそもこの事態は自分達が引き起こしたのだからな。
もちろん溺愛してくれたお祖母様のことも、ちゃんと自分達で世話するだろうし」
兄が妹に向かってこう答えると、両親は喫驚した。
「爵位を返上なんて、なんてことを言うのだ。我が家は子爵家とはいえ、古い歴史のある名家なのだぞ」
「そうよ。平民になるなんてとんでもないわ!
それに私達とは別に暮らす気なの? 血の繋がった親や祖母を見捨てるつもりなの?
私達はそんな冷たい人間に育てたつもりはないわ!」
「そうは言ってもお金が返済できなければ、どのみち財産は没収されて、爵位を取り上げられますよ。
そもそもこうなったのは、お二人のせいですしね。
あの男爵家とは付き合わない方がいいと、散々忠告していたのに、それを聞き入れなかったのですから。
幼なじみだから信用できる人間ですって?
そんな平和ボケなことを言っていて大丈夫なのかと心配していたのですが、まさか連帯保証人にまでなっているとは思ってもいませんでしたよ」
「まあ! お兄様も忠告されていたのですか!
私もです。だって、お茶会やパーティーで、あの二人の悪い評判が流れていたのですもの。
その話をしたらお父様達は、人は妬みで嘘の噂を流すものだから、そんなことを真に受けては駄目だって、ちっとも聞いてくださらなくて。
私は別に噂を丸呑みしてきたわけじゃないのに。
だって私、いつもあの兄弟に物を盗まれ、壊されていたのですもの。
平気で嘘を吐き、人の物を盗むような人間になったのは、親が似たようなことをしていたからに決まっているじゃないですか!
もうあの家族とは付き合いたくないと言ったのに、幼なじみの一家を悪く言うなんてなんて心が卑しいと、反対にお母様に叱られたのですよ!」
そんな過去の己の愚かな事実を子供達に突き付けられ、両親は反論できずにただ頭を抱えてしばらく唸っていた。
しかし、一緒に息子を説得してもらおうとでも思ったのか、彼らは娘に迎って猫なで声でこう言った。
「ねえ、アイラ、あなただって本当は平民になんてなりたくはないでしょう?
可愛いドレスなんて着られなくなるし、美味しいお菓子も食べられなくなるのよ?
それにあなたは勉強が好きなのに、将来学園にも通えなくなるわ」
「そうだ。ろくな結婚もできないだろうし」
しかし、アイラは両親が思っている通り頭が良くて勉強好きだったので、すぐさまこう答えた。
「私なら学園の入学試験にお兄様同様にトップで合格できるだろう、と家庭教師の先生に太鼓判を押していただいています。
ですので、平民になっても特待生になれる奨学金もいただけると思いますので、ご心配には及びません。
学園内では決まったお手伝いをすれば、お小遣いを手に入れられる制度もあるそうですし。
それにお菓子など、そもそも生きる上でどうしても必要というわけではありません。
大人になって自分で稼げるようになったら食べます。
そんなことより、なまじ貴族令嬢のままでいる方が、お金目的で無理矢理に嫁がせられそうで怖いです。
ロリコンとか変な趣向のおじさんや、おじいさんと結婚するくらいなら一生独身の方がずっといいです」
「そんな娘を売るような真似をするわけないだろう!」
「そうよ。大切な娘にそんな結婚させるわけがないでしょう!」
「でも、支度金も準備できなきないのに、どうして良縁が望めるのですか?
子供の私だって無理だってわかりますよ」
悪気はないのだろうが、あまりにも世間知らずの親に、ロードはため息を付きながらこう言った。
「借金を抱えた我が家が領主のままでは、領民が不幸になるだけです。
ですから、領地は新たに国から任命していただいた領主に委ねた方がいいです。
僕が殿下にお願いすることがあるすれば、簡単に騙されて借金を作るような考え無しでなどではない、立派な領主を見つけて欲しい、ということぐらいですよ」
兄のこの言葉にアイラは大きく頷いたのだった。
しかし、その後もアイラは子爵令嬢のままだった。
それはなぜかというと……




