第9話「本能と理性の境界」
外では再び雨が降り始めていた。
雨音がかき消す部屋の中で、二人の呼吸音だけが重く響いている。
ヴァレリウスは、自分のシャツを掴んで離さないノアの手を見つめ、苦しげな表情を浮かべていた。
医師を呼びに行くべきだ。抑制剤を手に入れ、この熱を冷ますべきだ。それが正しい騎士の振る舞いだ。
だが、目の前の少年は、本能のままに救いを求めている。
アルファである自分のフェロモンだけが、今の彼を楽にできる唯一の解毒剤だと、体が理解しているのだ。
「ノア、私を見てくれ」
ヴァレリウスは、汗に濡れたノアの前髪をかき上げた。
琥珀色の瞳はトロンと濁り、焦点が定まっていない。発情の熱に浮かされ、正常な判断力を失っている。
それでも、ノアはヴァレリウスの名前を呼び続けていた。
「ヴァレリウス様……あつい、くるしい……」
「わかっている。今、楽にしてやる」
もう、離れられない。
ヴァレリウスは覚悟を決めた。これ以上ノアを苦しめることはできない。そして何より、自分自身がこの芳醇な香りを前にして、これ以上耐えることができなかった。
彼はゆっくりと、覆いかぶさるようにしてノアを抱きしめた。
重なる体温。
ノアの体がビクリと跳ねるが、逃げようとはしない。むしろ、強く求めていた水を与えられた花のように、ヴァレリウスの胸に顔を擦り寄せてくる。
「っ……!」
ヴァレリウスは喉奥から漏れそうになる獣の唸り声を必死に呑み込んだ。
自身のアルファフェロモンを解放する。
森の冷気と鋼鉄の重厚さを孕んだ香りが、爆発的に広がり、ノアの甘い香りを包み込んでいく。
それは支配であり、守護だった。
他の誰にも触れさせないという、強烈なマーキング。
「あ、ぁ……んっ……」
ノアの口から、安堵とも快楽ともつかない甘い吐息が漏れた。
体内で暴れ回っていた熱が、ヴァレリウスの匂いに包まれることで、急速に鎮静化していくのを感じる。
苦しみが引いていく代わりに、別の何かが満ちてくる。
安心感。幸福感。
そして、この強い腕の中に閉じ込められていたいという、根源的な欲求。
「ノア、噛まない。まだ、噛まないから……」
ヴァレリウスは、うわ言のように繰り返しながら、ノアの首筋に顔を埋めた。
うなじの薄い皮膚の下で、脈打つ血管が見える。そこに牙を突き立てて番の契約を結んでしまいたい衝動と、必死に戦っていた。
まだ早い。合意のない契約はしたくない。
だから、唇を押し当てるだけにとどめる。
熱い肌に、何度も何度もキスを落とす。吸い上げるように、愛しむように。
ノアは抵抗することなく、ヴァレリウスの銀色の髪に指を絡めた。
「ヴァレリウス様……いい匂い……好き……」
無意識のつぶやき。
それが決定打だった。
ヴァレリウスの理性の堰が崩壊する音がした。
彼はノアをきつく抱きしめ直し、その唇をふさいだ。
言葉を封じ、息を奪い、全てを自分の色に染め上げるような、深く情熱的な口づけ。
ノアの頭の中が真っ白になる。
世界が溶けていく。
怖いと思っていたアルファの力が、今はただひたすらに心地よかった。
長い、長い口づけの後、二人は荒い息を吐きながら額を合わせた。
至近距離で見つめ合う瞳。
そこにはもう、迷いも恐怖もなかった。あるのは、互いを求め合う切実な熱だけだ。
「……今日は、このまま眠ろう」
ヴァレリウスの声は、情欲で少しかすれていたが、どこまでも優しかった。
「朝まで離さない。誰にも渡さない」
「はい……俺も、離れません」
ノアは、ヴァレリウスの首に腕を回し、その胸に顔を埋めた。
鼓動がシンクロしていく。
二つの魂が、ようやくあるべき場所を見つけた夜だった。
雨はいつの間にか上がり、雲の切れ間から覗く月光が、ベッドの上で絡み合う二つの影を、祝福するように照らしていた。
まだ完全な番の契約は交わしていない。
けれど、二人の間には、それ以上に強固で解けることのない絆が結ばれていた。
本能と理性の境界を超えた先で、彼らは初めて「愛」という感情の正体に触れたのだった。




