第7話「街への外出と忍び寄る影」
穏やかな日差しが差し込む朝、ノアは鏡の前で自身の姿をまじまじと見つめていた。
あてがわれた外出用の服は、柔らかい亜麻色のシャツに、深緑色のベスト、そして動きやすい革のブーツだ。スラムで着ていたボロ布とは雲泥の差で、まるで別人のように見える。
けれど、中身は変わっていない。怯えた目をした、ただのオメガのままだ。
「……似合っているか?」
背後から声をかけられ、ノアはビクリと肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには私服姿のヴァレリウスが立っていた。いつもの騎士団の制服ではなく、仕立ての良い濃紺のジャケットに黒のトラウザーズという装いだ。飾り気はないが、鍛え抜かれた肉体が服の上からでもわかり、ただならぬ威圧感と色気を放っている。
ノアは思わず見惚れ、慌てて視線を伏せた。
「は、はい。もったいないくらいです」
「そうか。……なら、行くぞ」
今日は、ヴァレリウスが「気分転換に街へ出る」と言い出したのだ。
本来なら使用人に買い物を頼めば済むことなのに、彼自身がノアを連れ出すことにこだわったらしい。
屋敷の馬車は使わず、徒歩で王都の大通りへと向かう。
石畳の道を行き交う人々、呼び込みの声、香ばしい屋台の匂い。
ノアにとって、これほど明るく賑やかな場所を歩くのは初めてだった。スラムは常に薄暗く、腐臭と暴力の気配に満ちていたからだ。
きょろきょろと辺りを見回すノアの様子に、隣を歩くヴァレリウスが口元を緩める。
「はぐれるなよ」
「あっ、はい!」
ヴァレリウスは自然な動作で、ノアの手を握った。
大きな手だ。硬くて、温かい。
すれ違う人々が、見目麗しい大男と可愛らしい少年の組み合わせに視線を送ってくるが、ヴァレリウスの放つ冷ややかな威圧感に気圧され、誰も声をかけてこない。
ノアは少しだけ誇らしい気持ちになった。
この最強の騎士に守られているという事実が、胸を温かくする。
二人は市場を抜け、広場へ出た。
露店の一角で、甘い砂糖菓子の匂いが漂ってくる。
ノアの視線が釘付けになったのを、ヴァレリウスは見逃さなかった。
「あれが食べたいのか?」
「えっ、いえ、そんな……贅沢です」
「遠慮するな。一つください」
ヴァレリウスは店主に硬貨を渡し、真っ赤な果実を飴でコーティングした菓子を受け取った。それを無造作にノアへ差し出す。
ノアは恐縮しながらも受け取り、一口かじった。
カリッという音とともに、濃厚な甘酸っぱさが口の中に広がる。
「……おいしい」
「そうか。ならよかった」
ヴァレリウスは満足げに頷き、自身は何も買わずにノアが食べる様子を眺めていた。
その視線があまりにも優しく、ノアは恥ずかしくなってうつむく。
幸せだった。
こんな時間が、永遠に続けばいいのに。
だが、光があれば影も落ちる。
人混みの中で、ふとノアの背筋に冷たいものが走った。
視線だ。
ヴァレリウスの向ける温かい眼差しとは違う、粘りつくような、不快な視線。
ノアはハッとして周囲を見渡した。
少し離れた路地の入り口に、薄汚れた数人の男たちがたむろしている。彼らの目は明らかにノアを捉え、ニヤニヤと卑しい笑みを浮かべていた。
『まさか、スラムの連中……?』
血の気が引く。
ノアがスラムから消えたという噂を聞きつけ、探しに来たのだろうか。それとも、単にオメガの匂いを嗅ぎつけたゴロツキか。
恐怖で足がすくむ。
その時、ヴァレリウスがふと足を止めた。彼はノアの異変に気づいたのではなく、もっと直接的な「害意」を察知したようだった。
「……そこで待っていろ」
ヴァレリウスは短く告げると、ノアを人通りのある表通りに残し、男たちのいる路地へと向かった。
ノアは止めようとしたが、声が出なかった。
ヴァレリウスの背中からは、先ほどまでの穏やかさが嘘のように消え失せ、戦場で敵を倒す時のような、凍てつく殺気が立ち上っていた。
男たちが何かを言いかける間もなかった。
ヴァレリウスは何も言わず、ただ路地の入り口に立ち、銀色の瞳で彼らを一目見ただけだ。
それだけで、空気が変わった。
強者だけが放つ、絶対的な捕食者の気配。
男たちの顔色が青ざめ、膝が震え出すのが遠目にもわかった。一人が悲鳴のような声を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。
ヴァレリウスは深追いもせず、静かに引き返して戻ってきた。
ノアの前まで来ると、その表情は再び穏やかなものに戻る。だが、握られた手の力は、先ほどよりも強くなっていた。
「行こうか。もう用はない」
「ヴァレリウス様……あの人たちは……」
「虫けらだ。気にするな」
そう言って、ヴァレリウスはノアの肩を抱き寄せた。
その腕は、所有権を主張するように強固で、排他的だった。
周囲の人々が何事かと見ているが、ヴァレリウスは気にしない。
ただ、ノアの耳元で低くつぶやいた。
「お前を害する者は、誰であれ許さない。……たとえ国王であってもな」
その言葉の重みに、ノアは震えた。
それは安堵の震えであり、同時に、この人が自分のために修羅になることを厭わないという事実への、恐れにも似た感情だった。
市場の賑わいが戻る中、二人は寄り添うようにして屋敷への帰路についた。




