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氷鉄の騎士団長に拾われたスラムのオメガは、無自覚な溺愛に溶かされる  作者: 水凪しおん


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第6話「月夜の誓い」

 その夜、ノアは夢を見ていた。


 暗く、よどんだ路地の夢だ。


 雨が降っている。泥水が足元を流れ、腐敗臭が鼻をつく。


 影から伸びる無数の手が、ノアの服を掴み、引きずり倒そうとする。


『オメガだ、オメガがいるぞ』


『いい匂いだ』


『俺たちのものだ』


 男たちの卑しい笑い声が反響する。逃げようとしても足が動かない。声を出そうとしても喉が張り付いて音が出ない。


 誰か。誰か助けて。


 ミントの匂い袋が引きちぎられる。甘いフェロモンが溢れ出し、獣たちが一斉に襲いかかってくる。


「いやぁぁぁっ!」


 絶叫と共に、ノアは跳ね起きた。


 全身が汗でびっしょりと濡れている。心臓が痛いほど脈打ち、呼吸が過呼吸気味にヒューヒューと鳴る。


 暗闇の中、ここがどこかわからずパニックに陥りかけたその時。


 バタン! と激しくドアが開いた。


 廊下の明かりを背に、ヴァレリウスが飛び込んでくる。


「ノア!」


 彼は寝間着姿で、裸足だった。恐らく、ノアの悲鳴を聞いて飛び起きてきたのだろう。


 ベッドに駆け寄り、震えるノアを迷わず抱きしめる。


 強い力だった。


 骨が軋むほど強く、けれど、それ以上に深い安心感をもたらす抱擁。


「大丈夫だ。私はここにいる。誰もいない。夢だ」


 耳元で繰り返される低い声。


 ヴァレリウスの手が、汗ばんだ背中を何度も何度も撫で下ろす。


 その温もりに触れ、ノアの呼吸が少しずつ整っていく。


 森の香り。冷たく静かな、ヴァレリウスの匂い。


 それが現実へのくさびとなり、悪夢を追い払ってくれた。


「はぁ、はぁ……ヴァレ、リウス様……」


「そうだ。私だ。怖くない」


 しばらくして、ノアの震えが収まると、ヴァレリウスは少しだけ体を離した。だが、腕はノアの腰に回されたままだ。


 月明かりが窓から差し込み、二人の顔を青白く照らし出している。


 ヴァレリウスの銀色の瞳には、痛々しいほどの心配の色が宿っていた。


「……怖い夢を見たのか」


「はい……昔の、夢を」


 ノアはうつむいた。


「俺、やっぱりオメガなんです。どんなに隠しても、どんなに綺麗な服を着せてもらっても……あそこでの記憶が、消えない。いつかまた、あの中に引き戻されるんじゃないかって……」


 吐露された弱音。


 ずっと胸の奥に秘めていた恐怖を、初めて言葉にした。


 もし、これで彼が失望したらどうしよう。やはりオメガは面倒で弱い生き物だと、見捨てられたら。


 しかし、ヴァレリウスの反応は違った。


 彼はノアの顎を指先ですくい上げ、強引に目を合わせた。


「ノア、よく聞け」


 その声は、騎士団長としての号令のように厳格で、それでいて祈りのように真摯だった。


「お前がオメガであることは、お前の弱点ではない。そして、お前を過去に引き戻す者など、この私が一人残らず排除する」


「……」


「私の剣は、国のためだけにあるのではない。今、この瞬間から、お前を守るためにあると誓おう」


 それは、実質的な騎士の誓いだった。


 主君に捧げるような、絶対的な忠誠と守護の誓い。


 ノアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


 悲しいからではない。あまりにも満たされて、感情が許容量を超えてしまったからだ。


「どうして……どうして、俺なんかに」


「わからないか?」


 ヴァレリウスは苦笑した。


 そして、今までためらっていた最後の一線を越えるように、顔を近づけた。


 鼻先が触れ合う距離。


 お互いの吐息が混ざり合う。


「お前が泣くと、私の胸が張り裂けそうになる。お前が笑うと、世界が輝いて見える。……理屈ではないのだ」


 それは、無骨な騎士なりの、精一杯の愛の告白だった。


 運命の番という言葉を知らなくても、魂が惹かれ合っていることは、今の二人には明白だった。


 ヴァレリウスは、涙で濡れたノアの目元に、そっと口づけを落とした。


 唇の熱さが、まぶたに染みる。


「もう寝なさい。朝まで、そばにいる」


 ヴァレリウスはベッドの脇に椅子を引き寄せようとしたが、ノアが彼の袖を掴んだ。


「……いかないで」


「?」


「隣に、いてください。……あなたの匂いがないと、怖いんです」


 真っ赤になりながら訴えるノアに、ヴァレリウスは一瞬固まり、それから深く頷いた。


「わかった。失礼する」


 彼はベッドに入り込み、ノアを抱き寄せるようにして横になった。


 広いベッドが、二人には狭く、そして心地よかった。


 背中に感じるヴァレリウスの体温と、安定した鼓動のリズム。それに包まれながら、ノアは二度目の眠りに落ちていった。今度は、悪夢を見ることはなかった。


 月だけが、寄り添う二人の影を静かに見守っていた。


 運命の歯車が、確かに噛み合った夜だった。

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