第5話「騎士団の訪問者」
その日は朝から雨が降っていた。
あの日と同じような、重く冷たい雨だ。
ノアは窓の外を眺めながら、自分が拾われた日のことを思い出していた。まだ一週間しか経っていないのに、あの泥にまみれた生活が遠い昔のことのように思える。
その時、玄関ホールの方から騒がしい声が聞こえてきた。
「団長! ヴァレリウス団長はおられますか!」
切羽詰まった男の声だ。
ノアは好奇心と不安に駆られ、部屋を出て階段の踊り場から下を覗き込んだ。
玄関ホールには、水浸しのレインコートを着た若い騎士が立っていた。息を切らせており、ただ事ではない様子だ。
執事が対応しているが、騎士の勢いに押されている。
「至急の報告があります! 国境付近での魔獣の動きについて、決済をいただかないと……!」
「し、しかし、旦那様は今、朝食を……」
そこへ、食堂の扉が開き、ヴァレリウスが現れた。
今日は非番の予定だったらしく、リラックスしたシャツ姿だ。だが、その瞳は鋭く光っている。
「騒がしいぞ、サイラス」
「団長! 申し訳ありません、ですが緊急で……」
若い騎士――副官のサイラスは、上官の姿を見て背筋を伸ばしたが、すぐに視線がさまよい、階段の上にいるノアに気づいた。
目が合った瞬間、サイラスの表情が凍りつく。
同時に、ノアも身をすくませた。
サイラスからも、微かだがアルファの匂いがする。ヴァレリウスほど強力ではないが、それでもオメガであるノアを威圧するには十分な強さだった。
本能的な恐怖がよみがえる。
ノアは後ずさり、手すりの陰に隠れようとした。
「……その少年は?」
サイラスが不審そうに顔をしかめる。
公爵家であり、騎士団長でもあるヴァレリウスの屋敷に、平民らしき少年がいる。しかも使用人の服ではなく、上等な服を着て。
不審に思うのも無理はない。
サイラスの視線には、無遠慮な探求心が含まれていた。
その視線がノアを射抜くより早く、ヴァレリウスが動いた。
彼は音もなくサイラスと階段の間に割って入り、自身の体でノアを隠すように立ちはだかったのだ。
「私の客だ」
低い声。
だが、そこに含まれる圧力は、先ほどまでの比ではなかった。
部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの殺気。
サイラスは息を呑み、思わず一歩下がった。
長年仕えてきた上官だが、こんな表情は見たことがない。まるで、縄張りを荒らされた獣が牙をむいているようだ。
「きゃ、客……ですか? 失礼しました。使用人か何かかと……」
「使用人ではない。そして、彼をジロジロと見るな」
「はっ、はい!」
サイラスは直立不動で敬礼した。冷や汗が止まらない。
ヴァレリウスは階段の上を振り返り、怯えるノアを見上げると、瞬時に表情を和らげた。その変わり身の早さに、サイラスは目を白黒させる。
「ノア、部屋に戻っていなさい。すぐに行く」
「……はい」
ノアは逃げるように廊下の奥へと走った。
背中越しに、ヴァレリウスとサイラスの会話が聞こえてくる。
「書類を渡せ。ここで見る」
「あ、はい。……あの、団長。まさかとは思いますが、あの子は……」
「余計な詮索はするな、サイラス。お前の舌が軽いことは知っているが、この屋敷のことに関しては沈黙を守れ。……さもなくば」
「わ、わかっております! 何も見ていません! 何も聞いていません!」
騎士たちの足音が遠ざかっていく。
ノアは自室に飛び込み、ドアに背中を預けて座り込んだ。
心臓が早鐘を打っている。
怖かった。
見知らぬアルファの視線、値踏みされるような空気。それらが、かつてスラムで味わった恐怖を呼び起こさせる。
けれど、それ以上に鮮烈だったのは、ヴァレリウスの背中だった。
あの広い背中が、世界から自分を遮断してくれた。
誰にも見せない、触れさせないという、絶対的な守護の意思。
『俺を守ってくれた……』
胸の奥が熱くなる。
それは恐怖とは違う、もっと甘く、切ない痛みだった。
自分は彼にとって、ただの「拾った可哀想な子」ではないのだろうか。あんなに必死になって、部下に対してさえ敵意を向けてまで守るほどの価値が、自分にあるのだろうか。
期待してはいけない。
そう思うのに、止まらない。
ノアは膝を抱え、自分の身体に残る微かなミントの香りを嗅いだ。
いや、今はもうミントだけではない。
自分でも気づかないうちに、自身の匂いがヴァレリウスの匂いと混ざり合い、変化し始めていた。
それは、彼がこの屋敷に、そしてヴァレリウスという存在に染まりつつある証拠だった。
***
一時間後、サイラスを追い返したヴァレリウスが部屋にやってきた。
彼はドアをノックし、控えめに入ってきた。
手には、温かいミルクが入ったマグカップが握られている。
「……怖がらせてすまなかった」
第一声は謝罪だった。
ヴァレリウスはベッドの端に座り、ノアにマグカップを手渡す。
「あいつは悪い奴ではないのだが、デリカシーがない。二度と、お前の前に不用意に通さないように言いつけておく」
「いえ、そんな……俺のせいで、部下の方と揉めないでください」
「揉めてなどいない。教育だ」
ヴァレリウスは真顔で言った。本気だ。
彼はノアの顔色をうかがうように見つめ、ためらいがちに手を伸ばした。
大きな手が、ノアの頬に触れる。
指の腹で、こわばった筋肉をほぐすように優しく撫でる。
「お前は、誰の目も気にする必要はない。堂々としていればいい」
「でも……俺はスラム出身の、ただの孤児ですから」
「それがどうした」
ヴァレリウスは鼻で笑った。
「出自など関係ない。私が選んだ。それが全てだ」
その言葉は、どんな甘い言葉よりも力強く、ノアの不安を打ち砕いた。
私が選んだ。
その響きが、ノアの心に深く突き刺さる。
ノアは思わず、頬に添えられたヴァレリウスの手に自分の手を重ねた。
ヴァレリウスの手がピクリと震える。
見上げると、彼は驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと、本当にゆっくりと、嬉しそうに目を細めた。




