第4話「近づく距離と小さな波紋」
屋敷での生活が始まってから一週間が経とうとしていた。
ノアの体調は完全に回復し、頬には健康的な血色が戻っていた。痩せこけていた体つきも、栄養価の高い食事のおかげで少しずつふっくらとしてきている。
だが、体の回復に反比例するように、ノアの心の中には小さな波紋が広がり続けていた。
それは、このあまりにも満たされた生活に対する罪悪感と、いつか終わってしまうことへの不安だった。
午後、ノアは図書室にいた。
天井まで届く本棚には、革張りの分厚い本がぎっしりと並んでいる。紙とインク、そして古い埃の匂いが混ざり合った独特の香りが、この部屋には漂っていた。静かで、時間が止まったような空間だ。
ノアは窓際の大きな肘掛け椅子に深く座り込み、一冊の本を膝に広げていた。
文字は読める。スラムの教会で、シスターが見よう見まねで教えてくれたからだ。ただ、ここに並ぶ本のような難解な単語や言い回しには慣れていない。
指先で文字をたどりながら、何度も同じ行を行ったり来たりする。
「……難しいな」
小さく息を吐いたとき、重厚な扉が開く音がした。
ノアが顔を上げると、ヴァレリウスが入ってくるところだった。まだ日が落ちる前だというのに、もう帰ってきたのか。
彼は騎士団の制服の上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくり上げていた。鍛え上げられた前腕の筋肉が露わになり、ノアは思わず目を逸らす。
「ここにいたのか」
「あ、はい。勝手に入ってすみません。すぐに出ます」
ノアが慌てて本を閉じようとすると、ヴァレリウスはそれを手で制した。
彼は迷いのない足取りでノアのそばまで歩み寄ると、向かい側のソファではなく、ノアが座っている椅子のすぐ隣、サイドテーブルの縁に腰を下ろした。
距離が近い。
ヴァレリウスから立ち上る、冷涼な森のような香りが強くなる。アルファ特有のフェロモンだ。本来なら恐怖で縮み上がるはずのその匂いに、ノアの本能はなぜか安らぎを覚えてしまう。そのことが、たまらなく恥ずかしかった。
「何を読んでいる?」
「えっと……大陸の、歴史の本です。でも、知らない言葉が多くて」
「そうか」
ヴァレリウスはノアの手元にある本を覗き込んだ。彼の銀色の髪が、さらりとノアの頬をかすめる。
心臓が大きな音を立てた。
ヴァレリウスは気づいているのかいないのか、長い指でページの一節を指し示した。
「ここは、建国の歴史について書かれている。古い言葉だから読みづらいだろう。『礎』と読む。土台という意味だ」
「いしずえ……」
「そうだ。国を作るための土台。……私にとっては、お前がそうなりつつあるがな」
最後の一言は、あまりに自然に、そして小声で紡がれたため、ノアの耳には半分ほどしか届かなかった。
「え? 何か言いましたか?」
「いや。……読むのを手伝おう」
ヴァレリウスは、そう言うとノアの持っている本の端を支えるように手を添えた。
まるで子供に読み聞かせをする父親のような、あるいはもっと親密な恋人のような距離感だ。
彼の大きな手が、ノアの指先に触れる。
熱い。
ヴァレリウスの体温はいつも高かった。氷鉄の騎士などと呼ばれているのが信じられないほどに、その肌は熱を帯びている。
「ここからここまで、読んでみろ」
「は、はい……『王は剣を取り、荒野を切り拓いた。その背中には、多くの民が続き……』」
ノアがたどたどしく読み上げるのを、ヴァレリウスは目を細めて聞いていた。
その眼差しは、歴史書の内容などどうでもいいと言わんばかりに、ただひたすらにノアの横顔に注がれている。長いまつげの震え、唇の動き、呼吸のリズム。そのすべてを網膜に焼き付けようとするかのように。
不意に、ヴァレリウスの手が動いた。
本から離れたその手が、ノアの耳にかかっていた髪を、そっと背中へ流したのだ。
指先が、うなじに触れる。
ビクリとノアの肩が跳ねた。
オメガにとって、うなじは急所であり、もっとも無防備な場所だ。そこをアルファに触れられるということは、服従か、求愛か、そのどちらかを意味する。
「あ……」
「……すまない。髪が、邪魔そうだったから」
ヴァレリウスは慌てて手を引っ込めた。その表情には、明らかな動揺が見て取れる。
彼は自分の軽率な行動を恥じるように、拳を握りしめた。
けれど、ノアは逃げ出さなかった。
怖くなかったのだ。
彼の指先には、支配欲や加虐心といった負の感情は一切含まれていなかった。ただ純粋に、触れたいという、不器用で切実な願いだけが伝わってきた。
「ヴァレリウス様」
「なんだ」
「……温かい手ですね」
ノアがぽつりと言うと、ヴァレリウスは目を見開いた。
そして、まるで生まれて初めて褒められた少年のような、照れくささと喜びが入り混じった複雑な表情を浮かべる。耳の先が少し赤くなっているのが、銀髪の隙間から見えた。
「お前がそう言うなら、そうなのだろう」
ヴァレリウスは咳払いをし、再び本へと視線を戻した。
だが、その口元は緩んでいた。
図書室の窓から差し込む夕日が、二人の影を長く伸ばし、やがて一つに重ねていく。
静寂の中で、ページをめくる音だけが響いていた。
それは、ノアが生まれて初めて知る「平穏」という名の時間だった。
***
夜、ノアが自室に戻った後、ヴァレリウスは一人で執務室にいた。
机の上には未決裁の書類が山積みになっているが、手は止まったままだ。
彼は自分の右手をじっと見つめていた。
昼間、ノアのうなじに触れた感触が、まだ指先に残っている。柔らかく、温かく、そして微かに甘い匂いがした肌。
思い出すだけで、腹の奥が熱くなる。
これが「番」というものなのだろうか。
理屈ではない。本能が、あの華奢な少年を求めてやまないのだ。
守りたい。閉じ込めたい。自分だけのものにしたい。
そんな暗い欲望が湧き上がるのを、理性で必死に押さえ込む。
ノアはまだ怯えている。スラムでの過酷な生活が、彼の心に深い傷を残していることは明白だ。無理に距離を詰めれば、彼は壊れてしまうかもしれない。
焦ってはならない。
ヴァレリウスは深く息を吸い込み、自分を戒めるようにつぶやいた。
「……まずは、安心させることだ。私のそばが、世界で一番安全な場所だと」
彼はペンを取り直し、書類に向かった。
その筆致は、いつもより力強く、そして速かった。早く仕事を終わらせて、明日の朝もノアと顔を合わせる時間を作らなければならないからだ。




