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氷鉄の騎士団長に拾われたスラムのオメガは、無自覚な溺愛に溶かされる  作者: 水凪しおん


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第3話「騎士団長の過保護」

 三日もすると、ノアの熱はすっかり下がり、体調は回復していた。


 これほど快適な寝床と栄養満点の食事があれば、回復しないほうが難しい。


 だが、体調が良くなると同時に、ノアの中に新たな焦りが生まれた。


 ただ飯を食らい続けるわけにはいかない。


 いつ追い出されるかわからない状況で、少しでも役に立って自分の価値を示さなければ、という強迫観念が彼を突き動かした。


 早朝、まだ日が昇りきらない薄暗い時間。


 ノアは与えられた服――上質な綿のシャツとズボンに身を包み、そっと部屋を抜け出した。


 広い屋敷の中を迷いながら進み、厨房らしき場所を見つける。


 すでに数人の使用人が働き始めていた。


「あの、おはようございます」


 ノアが声をかけると、ふくよかな女性料理長が驚いて振り返った。


「あら、お客様! こんな時間になんですか? お腹が空きましたか?」


「いえ、違います。俺、何か手伝わせてください。掃除でも、皿洗いでも、なんでもしますから」


 必死に頭を下げるノアに、料理長たちは顔を見合わせて困惑した。


「そんな、旦那様が連れてこられた大切なお客様に、お仕事をさせるわけには……」


「お願いします! じっとしているのは苦手なんです。働かせてください」


 ノアのあまりの剣幕に、料理長は折れた。


「じゃあ……ジャガイモの皮むきをお願いできるかしら? 座ってできる仕事だし」


「はい! ありがとうございます!」


 ノアは椅子に座り、山積みのジャガイモと格闘し始めた。


 スラムでは生きるために何でもやった。手先は器用な方だ。皮むきくらい、お手の物だった。


 一心不乱に手を動かしていると、厨房の入り口がにわかに騒がしくなった。


 冷ややかな空気が流れ込んでくる。


「……ここで何をしている」


 地を這うような低い声。


 ノアがビクリとして振り返ると、そこには眉間に深いしわを刻んだヴァレリウスが立っていた。


 騎士団の制服をきっちりと着込み、腰には剣。これから出仕するところなのだろう。その姿は威厳に満ちていて、ただ立っているだけで空気が張り詰める。


 料理長や他の使用人たちが、慌てて整列し頭を下げた。


「だ、旦那様! これはその、お客様がどうしてもと……」


「俺が頼んだんです!」


 ノアは慌てて立ち上がり、かばうように前に出た。手にはまだピーラーとジャガイモが握られている。


「ただで置いてもらうわけにはいきません。働かせてください」


「必要ないと言ったはずだ」


 ヴァレリウスは大股でノアに近づくと、その手からピーラーを取り上げた。乱暴ではないが、拒絶の意思は明確だった。


「お前の手は、こんなことをするためにあるんじゃない」


「でも……っ!」


「まだ病み上がりだ。倒れでもしたらどうする」


 ヴァレリウスの言葉は正論だったが、その口調は厳しかった。


 ノアは唇を噛む。やはり、迷惑なのだろうか。自分のようなスラム育ちがチョロチョロするのは目障りなのかもしれない。


 うつむくノアの様子に、ヴァレリウスはハッとしたように口元を緩めた。


 彼は大きなため息をつき、膝をついてノアの手を取った。


 冷水で作業していたせいで、ノアの指先は赤くかじかんでいる。


 ヴァレリウスは自分の両手でその小さな手を包み込み、温めるようにさすった。


「冷たくなっている……」


 その声は、先ほどまでの厳しさが嘘のように沈痛だった。


 まるで世界の大罪を目の当たりにしたかのような嘆きように、周囲の使用人たちがポカンと口を開けている。


 あの「氷鉄の騎士」が、少年の手を温めている? しかも、あんなに悲痛な表情で?


「ヴァレリウス様……?」


「すまない、言い方がきつかったか。怒っているわけではないのだ」


 ヴァレリウスはノアの手を握ったまま、困ったように眉を下げた。


「ただ、お前が傷つくのが嫌なだけだ。指先に小さな切り傷ひとつでもできたらと思うと、気が気じゃない」


「え、あ、はい……?」


 ジャガイモの皮むきで怪我をするほど軟弱ではないつもりだが、ヴァレリウスの目があまりに真剣なので、何も言えなくなる。


「部屋に戻って休んでいてくれ。夜には、お前の好きな菓子を買って帰るから」


「こ、子供じゃないです!」


「そうか。では、本はどうだ? 図書室は好きに使っていい」


 ヴァレリウスは、ノアの手が十分に温まったのを確認すると、ようやく満足したように立ち上がった。


「マーサ、彼に温かいミルクを。蜂蜜を多めに入れて」


「はい、かしこまりました」


(旦那様、そんな甘党でしたっけ?)


 料理長の心の声など全く知らず、ヴァレリウスは名残惜しそうにノアをちらりと見て、仕事へと向かった。


 厨房に残されたのは、呆然とするノアと、ニヤニヤと笑いを堪える使用人たちだった。


「……愛されてますねえ、お客様」


「ち、違います! あれは、ペットを心配する飼い主みたいなもので……」


「さあ、どうでしょうねえ」


 料理長は楽しそうに笑いながら、ミルクを温め始めた。


 ノアは赤くなった顔を両手で隠す。


 あの厳格な騎士団長が、自分の指先が冷えているだけであんなにうろたえるなんて。


 不器用すぎる優しさが、じわじわと胸に染み込んでくる。


 同時に、自分の中で育ちつつある感情に気づき、ノアは小さく首を振った。


『勘違いするな。彼は雲の上の人だ。俺みたいなのが、ほだされていい相手じゃない』


 そう自分に言い聞かせても、包まれた手の温もりは、いつまでも消えずに残っていた。


 ***


 その日の午後、騎士団の詰め所で、ヴァレリウスは副官に妙な質問をしていた。


「おい、オメガというのは、一体何をすれば喜ぶんだ?」


「……は? 団長、熱でもあるんですか?」


 副官は書類を落としそうになった。


 書類仕事の手を止め、真顔で悩む上司の姿は、部下たちにとって新たな伝説の幕開けとなるのだった。

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