第2話「陽だまりと困惑」
目覚めは、ゆっくりとした浮上だった。
いつもなら、寒さと体の痛みで強制的に起こされる朝だ。板張りの床の硬さや、隙間風の冷たさが当たり前だった。
だが、今日は違う。
背中を包み込んでいるのは、雲のように柔らかい感触。頬に触れているのは、滑らかな絹の肌触り。
そして、部屋中を満たす温かい空気。
ノアは、恐る恐る目を開けた。
高い天井。精巧な彫刻が施された柱。窓にかかる厚手のベルベットのカーテン。
見たこともないほど豪華な部屋だった。
『ここは……天国、なのか?』
ぼんやりとした思考のまま、身体を起こそうとする。
節々の痛みは引いていたが、まだだるさが残っていた。清潔な夜着に着替えさせられていることに気づき、ノアは慌てて自分の胸元を探る。
ない。
お守りの匂い袋がない。
血の気が引いた。あれがないと、自分がオメガであることが隠せない。いや、ここまで親切にされたということは、すでに着替えの際にバレているのではないか。
心臓がドクンと跳ねる。
その時、重厚な扉がノックもなく開かれた。
「……起きたか」
現れたのは、昨夜の男だった。
雨の中の武装した姿とは違い、今は襟の詰まった白いシャツに黒いズボンというラフな格好だ。しかし、その圧倒的な体格と、内側から滲み出る威圧感は変わらない。
ヴァレリウス・グレイヴ。
ノアは反射的にシーツをかき集め、ベッドの隅へと後ずさった。
警戒心剥き出しの小動物のような反応に、ヴァレリウスは一瞬、傷ついたような顔をした。だが、すぐに無表情に戻り、お盆を持って部屋に入ってくる。
「怯える必要はない。ここは私の屋敷だ。誰もお前を害する者はいない」
言葉数は少ないが、声のトーンは努めて柔らかく抑えられているようだった。
ヴァレリウスはベッドの脇にある小さなテーブルにお盆を置いた。湯気を立てるスープと、焼きたてのパン。香ばしい匂いがノアの空っぽの胃袋を刺激する。
グウ、と情けない音が部屋に響いた。
ノアは真っ赤になって下を向く。
ふと、頭上から小さな吐息が聞こえた。見上げると、ヴァレリウスが口元を手で覆い、視線を逸らしている。
笑ったのだろうか?
いや、この厳格そうな男が笑うはずがない。ノアはそう思い直す。
「食べろ。身体を治すには栄養が必要だ」
「あ……ありがとう、ございます……」
ノアは震える手でスプーンを手に取った。
一口、スープを口に運ぶ。野菜と肉の旨みが溶け込んだ、優しい味だった。温かさが喉を通り、胃に落ちていく。
涙が出そうになった。
こんなに温かい食事を摂ったのは、いつぶりだろうか。
夢中でスプーンを動かしていると、視線を感じた。
ヴァレリウスが、少し離れた椅子に座り、じっとこちらを見ている。監視されているようで居心地が悪い。
だが、その眼差しは「監視」と呼ぶにはあまりに穏やかで、熱っぽかった。
まるで、宝物を鑑賞するかのような。あるいは、迷い込んできた珍しい鳥を観察するかのような。
「あの……」
「なんだ」
「俺の服……とか、あの袋、は」
「服は処分した。ボロ布同然だったからな。袋は……そこにある」
ヴァレリウスが顎で示したサイドテーブルの上に、見慣れた麻袋が置いてあった。洗濯され、きれいになっている。
中身は空だった。
「中に入っていたハーブは、毒消しにもなるが、常用すれば体を壊す。捨てさせてもらった」
「そ、そんな……! あれがないと、俺は……」
匂いが。オメガであることが。
ノアが青ざめるのを見て、ヴァレリウスは静かに立ち上がり、ベッドサイドへ歩み寄った。
威圧感に、ノアは言葉を飲み込む。
だが、ヴァレリウスはノアを責めるでもなく、ベッドの縁に膝をついて視線の高さを合わせた。
「お前はオメガだ」
「ッ……!」
「それを隠す必要が、この屋敷にあると思うか?」
真っすぐな問いかけだった。
銀色の瞳が、ノアの琥珀色の瞳を捉えて離さない。
「私の屋敷の使用人は全員ベータだ。それに、私のフェロモンがあれば、お前の匂いが外に漏れることはない。……他のアルファになど、嗅がせるものか」
最後の言葉は、低く唸るような独り言だった。
ノアは意味がよく理解できずに瞬きをする。
ヴァレリウスは、自分の発言の熱量に気づいたのか、コホンと咳払いをして姿勢を正した。
「とにかく、隠す必要はない。怯える必要もない。お前が望むなら、好きなだけここにいていい」
「……どうして? 俺なんか拾って、何の得が」
「得など考えていない」
即答だった。
ヴァレリウスは、不器用そうに大きな手を伸ばし、ノアの頭にポンと置いた。撫でるというよりは、ただ置いただけのような触れ方。
けれど、そこから伝わる体温は、驚くほど優しかった。
「拾ったのではない。私が、連れ帰りたかったのだ」
その言葉の意味を、ノアはまだ知らなかった。
この最強の騎士団長にとって、運命の番との出会いがどれほどの衝撃であり、彼の中の何かを劇的に変えてしまったのかを。
ただ、頭上の大きな手の重みだけが、現実の救いとしてそこにあった。
***
ヴァレリウスが部屋を出た後、ノアは再びベッドに倒れ込んだ。
心臓がうるさい。
あの銀色の瞳に見つめられたとき、背筋がゾクゾクした。それは恐怖だけではない、何か別の――もっと本能的なうずきだった。
オメガとしての本能が、彼を「安全な場所」だと認識し始めている。
それが怖かった。
信じて、裏切られるのが怖い。
スラムでの生活は、ノアに人を疑うことを骨の髄まで叩き込んだ。甘い言葉には裏がある。タダより高いものはない。
けれど。
あの不器用な手つき。
真っすぐな瞳。
ノアは布団を頭までかぶり、自身の胸元をぎゅっと掴んだ。
彼の匂いが、まだ微かに残っている気がした。




