番外編「ある日の甘い朝食」
ある休日の朝、厨房は異様な緊張感に包まれていた。
料理長をはじめとする使用人たちが、壁際に一列に並び、固唾を飲んで作業台を見守っている。
その中心にいるのは、エプロンをつけたヴァレリウスだ。
彼は手にしたナイフを、まるで伝説の魔剣でも扱うかのように慎重に構えていた。
その視線の先にあるのは――桃だ。
「……よし」
気合いの声とともに、ヴァレリウスがナイフを入れる。
だが、力の加減が強すぎたのか、桃は無惨にもグシャリと潰れてしまった。果汁が飛び散り、ヴァレリウスの頬にかかる。
「……ッ」
「だ、旦那様! もっと力を抜いてください! 敵の首を跳ねるのとはわけが違います!」
「わかっている。だが、この果物は柔らかすぎる」
ヴァレリウスは眉間に深いしわを刻み、真剣に悩んでいる。
事の発端は、ノアが昨晩ポツリとつぶやいた「甘い桃が食べてみたい」という一言だった。
愛する番の願いを叶えるべく、ヴァレリウスは早朝から市場へ走り、最高級の桃を仕入れてきたのだ。そして、自分の手で剥いて食べさせたいと言い出したのである。
だが、剣技では王国最強の彼も、果物ナイフの扱いには苦戦していた。
「あの……ヴァレリウス様?」
入り口から、おずおずとした声がかかる。
ノアが起きてきたのだ。エプロン姿で果汁まみれになっているヴァレリウスを見て、目を丸くしている。
「何をしているんですか?」
「ノア……いや、これはだな」
ヴァレリウスは慌てて潰れた桃を隠そうとしたが、手遅れだった。
ノアは状況を察し、プッと吹き出した。
これまで遠慮がちに微笑むことはあっても、声を上げて笑うことはなかったノアが、お腹を抱えて笑っている。
「ふふ、あはは! すごい顔になってますよ、ヴァレリウス様」
「笑い事ではない。お前に美味いものを食わせようと必死なのだ」
「ごめんなさい。でも、嬉しいです」
ノアは笑い涙を拭うと、ヴァレリウスのそばへ歩み寄り、ハンカチで彼の頬の果汁を拭った。
そして、残りの桃とナイフを受け取る。
「俺がやります。ヴァレリウス様は、見ていてください」
ノアの手つきは鮮やかだった。スルスルと皮が剥かれ、綺麗な形に切り分けられていく。
ヴァレリウスは感心したように、いや、もはや崇拝に近い眼差しでそれを見つめていた。
「すごいな。お前は魔法使いか」
「ただの皮むきですよ」
皿に盛られた桃を、ノアはフォークで刺し、ヴァレリウスの口元へ差し出した。
「はい。味見してください」
「む……私が先に食べるわけには」
「いいから。二人の共同作業ってことで」
ノアが悪戯っぽく微笑む。その笑顔の破壊力に、ヴァレリウスは完敗した。
観念して口を開け、桃を頬張る。
甘い。
だが、それ以上に胸がいっぱいになる味だった。
「……美味い」
「よかった。じゃあ、一緒に食べましょう」
朝日が差し込む厨房で、最強の騎士と健気なオメガが、一つの皿を囲んで朝食をとる。
使用人たちは、あまりの尊さに拝むような姿勢でそっと部屋を出て行った。
平和で、甘やかな朝の一コマだった。




