第10話「氷鉄の融解」
小鳥のさえずりが、朝の訪れを告げていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、ベッドの上でまどろむ二人を照らし出す。
ノアは重いまぶたを持ち上げた。昨晩の熱と興奮が嘘のように、体は軽く、頭は澄み渡っていた。
視界に入ってきたのは、白いシャツの胸元だ。
見上げると、すぐそばにヴァレリウスの寝顔があった。
あの「氷鉄の騎士」と恐れられる男が、今はまるで少年のように無防備な顔で眠っている。銀色の髪が枕に散らばり、長いまつげが頬に影を落としていた。
『……夢じゃ、ないんだ』
ノアはそっと自分の胸に手を当てた。
あんなに苦しかった発情の熱が、彼の腕の中で眠っただけで綺麗に引いている。アルファのフェロモンが、暴走しかけたオメガの本能を完全に鎮めてくれたのだ。
そして、まだ首筋に痛みはない。
彼は昨夜、ギリギリのところで踏みとどまってくれた。契約の牙を突き立てず、ただ優しく抱きしめることを選んでくれたのだ。
その事実に、胸が熱くなる。
ノアがそっと指先でヴァレリウスの頬に触れようとした時、銀色の睫毛が震え、その瞳がゆっくりと開かれた。
「……おはよう」
寝起きの掠れた声。
朝の光に透ける銀の瞳が、優しくノアを映す。
「体調は、どうだ」
「はい。おかげさまで……すっかり、楽になりました」
「そうか。よかった」
ヴァレリウスは安堵の息をつき、愛おしそうにノアの髪を撫でた。その手つきは、硝子細工に触れるように繊細だ。
「昨夜は、すまなかった。強引だったかもしれない」
「いいえ! ヴァレリウス様がいてくれなかったら、俺はどうなっていたか……」
ノアは首を振る。
ヴァレリウスは体を起こし、真剣な眼差しでノアを見つめた。
「ノア。改めて言わせてくれ」
彼は姿勢を正し、騎士が主君に誓うときのように片膝を立てる形になった。ベッドの上だというのに、その姿はどこまでも凛々(りり)しい。
「私は、お前を番にしたい。だが、それは本能に流されてすることではないと思っている」
「え……?」
「お前が心から私を受け入れ、私の隣で生きることを望んでくれるまで、私は待つ。牙を立てるのは、その時だ」
それは、求婚に近い宣言だった。
ただ守るだけではない。対等なパートナーとして、心を求めているのだと。
ノアの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
スラムで泥にまみれ、誰にも望まれず生きてきた自分が、こんなにも大切に想われている。
「俺で、いいんですか……? 何も持たない、俺で」
「お前がいい。お前でなければ、駄目なんだ」
ヴァレリウスはためらいなく言い切ると、ノアの手を取り、その甲に口づけを落とした。
「お前は私が溶かしてしまった、ただ一人の愛しい存在だ」
その言葉に、ノアは泣き笑いのような表情を浮かべ、ヴァレリウスの首に抱きついた。
氷鉄の騎士と呼ばれた男の心は、春の日差しを浴びた雪のように、静かに、しかし確実に溶けていた。
その日の午後、屋敷の使用人たちは奇妙な光景を目撃することになる。
常に眉間にしわを寄せ、厳格な空気をまとっていたはずの主人が、鼻歌交じりに庭の花を摘んでいる姿を。
そして、その花束を真っ赤になって受け取る少年の姿を。
屋敷中が、温かな春の空気に包まれていた。




