カップラーメン・ワンダー
日が沈んで、上弦の月が今まさに天高く昇ろうとしている東京。歓楽街からあふれる光は、夜空をくすませ、星は月だけが見えていた。
9月の夜にもなろうかというのに、日中の猛暑を携えたその空気は、大人たちを冷たいビール・ハイボールの席へと急がせた。
仕事帰りのサラリーマンが飲み屋に大挙して押しよせる中、その男は今日も会社で残業に追われていた。定時で上がった事などもう記憶にない。若い頃の夢?・・・あったっけなぁ。
男は時の流れに人生を委ねているだけの、言ってみればどこにでもいる中年だった。
残業を終えると、いや、きりがないから残りは明日に延ばして今日は帰宅する事にした。来る日も来る日も残業を延ばして、明日の始業は昨日の仕事から。というルーティンにもう限界だった。
「っしゃませー」
いつものコンビニの、気の抜けた店員のいらっしゃいませ。昼間の活気ある店の雰囲気とは正反対の、夜の沈んだ雰囲気が、夢を捨て残業をこなすだけになり果てた男を誘うようだった。類は友を呼ぶというやつか。新発売のカップラーメンと惣菜と第3のビールを買い込む。
扉のすき間から、1匹のてんとう虫が入ってきて店の中で飛び回る。店員がつかまえて殺しそうにしていたが、このてんとう虫が、世の中に迷った自分と重なってしまった。
「あ、俺がつかまえるから」
と、男は店員に言って、てんとう虫を手に取り、店の外に逃がしてやった。そして家路につく。
ーガチャ。
家のドアを開けると、西日が射したであろう部屋の空気は不快感で充満していた。当然ながら独身であり、部屋を涼しくして、奥さん子供が温かいご飯を作ってくれるなどということはない。
「ふぅ」ため息をつく。
ーピッ。クーラーをオンにする。 ウィィィン・・・
ービリリッ カップラーメンのビニールをはがす。惣菜は少しの間だけ冷蔵庫で冷やしておく。
ープシュ 第3のビールのプルタブを開け、ぐびりといく。
「ぷはぁ!たまんねぇなー!あーうめぇ!」
・・・と、叫ぶことができたらどんなにいいだろう。俺は今日何をしてきた?会社でいやな仕事をして、残業では終わらないから明日に先延ばしにして、誰とも飲みにも行けずに、命をつなぐためだけにカップラーメンを食べようとしているだけじゃないか。
大した稼ぎもなく、社会の小さな小さな歯車になっているだけ。小さな小さな歯車は、小さな歯車によって支配され、小さな歯車は、大きな歯車によって支配され、大きな歯車は、より大きな歯車によって支配されている。
男は自分を、社会に巣くう、ただの寄生虫としか思えなかった。
「これが、負け組か、ははは」
かみ殺すように声を絞り出す。しかしこれが現実。メンタリスト達は「人生は思った通りにしかならない」なんてことを言っているが、全力で否定したかった。こんな人生、誰が望んだものか。
「ふざけるな!!世の中まちがってんだろ!!俺が何をした、なんであいつらだけがいい思いをしてんだ!なんでこんな目に合わなきゃなんねーんだよ!!」
さっきのかみ殺した声とは裏腹に男が叫んだ。自分でも不思議だった。いつもはそんな事全く思わないのに、今日の心は糸の切れた凧のように、ただ怒りの流れに従ってその声帯を震わせていた。
ードンッドンッドンッ!
壁を叩く音がする。隣人だ。そりゃそうだ、こんな時間に薄っぺらい板1枚で隔てられた壁の向こうで叫ばれちゃオチオチ寝てもいられない。このまま殴り合いの喧嘩でもしたら少しは気が晴れるかとも思ったが、そんな事より腹が減っていた。男は我に返った。
「はぁ、はぁ・・・カップラーメンでも食うか」
新発売の「バリ叶ヌードル」。どうやらとんこつラーメンの麺の固さ「バリカタ」に準えたものらしい。味は普通のしょうゆ系なのに。蓋の端っこには「あなたの願い、叶うかも?」などと書かれており、傍らには浦島太郎の乙姫様を彷彿とさせる安っぽいイラスト。うさん臭さ抜群である。しかし、男は追い詰められていたのだろう、無意識に「叶」という文字に惹かれて買っていたのだ。大体、こういうラーメンを食った後に出てくる感想は「やっぱり王道の製品がうまい」なのである。最早このラーメンには期待薄であった。
やかんを火にかけ、カップラーメンの蓋を半分開ける、かやく、スープを取り出す。かやくは入れたが、スープは後入れ方式。一瞬で確認した。手慣れたもんだ、毎日のようにやっている。
沸騰したやかんを手に取り、カップに注ぐ。もうもうと湯気が立ち込めてきた。その時である。
「あなたの即席な願い、叶えて差し上げましょう」
女の声がする。誰だ?あたりを振り向いた、しかし誰もいない。いや違う、もっと、もっと近い所から声がする。
湯気だ、湯気の向こうに、蓋に描いてあった乙姫もどきのイラストと同じ奴がいる!
「あなたは、今私の事を乙姫もどきと思いましたね?失礼ですね、乙姫そのものです」
「え!?」
バレている。乙姫は、男の心を見透かしていた。しかし突然湯気の向こうに現れて、男に語りかける。これは現実なのか?疲れからの幻覚なのか?
「私のいう事に従えば、あなたの即席な願いは叶えてあげます」
もう一度乙姫が言った。
「従います従います!ですから、俺をもっと大金持ちの勝ち組にしてください」
「ダメです、私は即席の乙姫です。叶えられるのは、もっと現実的で簡単な即席の願いだけです」
「・・・即席の願い、パッと思いついたのは、明日に延ばした残業が消える事とか」
「それは叶えられるでしょう、よし、その願い、叶えて差し上げます」
「で、乙姫様の、いう事に従うって何」
男は聞く、叶えられるものが簡単な即席なら、従う事が大それた事であってはならない。
「簡単です、表記通りに調理して食べる事です」
「え?そんな事いつもやってるぞ、大体、スープは後入れ方式なんて一瞬で確認済だ、わはは」
「じゃあ簡単ですね、お願いします・・・フフフ」
乙姫様は、そういって湯気から消えていった。と、同時にお湯を入れ終わって蓋をした。あとは待つだけだ。
「ちくしょう、残業のしすぎで変な夢でも見てんのか、早く食って早く寝よ」
男はそう呟いた。しかし、明日に延ばした残業分が消えたらどんなに楽だろう。そんな淡い思いもあった。
1分後。男は思う。
カップラーメンは表記通り守って食べられるのに、仕事は時間内に終わらない。そんな事を考えていた。自分はまじめにやっている、思えば子供の頃も校則を守って、優等生ではないけどヤンキーでもない。目立ちはしないが迷惑をかけた覚えはない。そんな人間だった気がする。
言ってみれば個性がないまま育って社会に放り出されて、嫌とは言えない性格だから仕事を押し付けられて、貧乏くじばっかり引かされてきた。それでも文句を言わず働いているのに、誰も褒めてくれない。
2分後。尚も思う。
同僚はもう結婚して子供がいるやつも多い。決して既婚者がいいわけではないけれど、結婚しないのと、結婚できないのとでは意味が180度違う。男は後者だ。可もなく不可もなく生きてきたせいで、誰からも嫌われる事もないが好かれる事もなかった。自分の選んできた道に後悔した。いや、選んできたんじゃない、選ばされてきた道だから後悔しているんだ。
バリ叶ラーメン、人をおちょくるような名前だけど、こんな身近な所に、何か自分の夢を叶えるような、そんな道しるべが落ちているもんだなと思う。男は気づかなかっただけだ。幸せなんて、きっとどこにでもあるし、今この瞬間、出来上がるまでの時間が幸せに違いない。
お、そうこうしているうちに3分たつ。表記通り食べれば願いが(即席の)叶う、らしい。
きっちり3分後、ラーメンを食べ始めた。結構うまいじゃないか、うさん臭いなどと思った自分を恥じた。王道の製品に引けをとらないぞ。食べ終えた男は感謝の気持ちを込めて「ごちそうさま」と言った。
翌日。
「おい!亀田!昨日の残業分、まだ終わってねーぞ、クライアントにプレゼンまであと1時間だ!早くしろ!!」
上司の怒号が飛ぶ。残業、終わってなかった。騙された。いや、きっと幻覚だったんだ。よくよく考えなくても、湯気の向こうに乙姫様なんて小学生の妄想だ。そんなことに期待を抱いていた亀田はバカだと痛感した。
「すみません!今すぐやります!くそっ」
亀田はポットの前に立ち、コーヒーを淹れながら謝っていた。するとそのポットの湯気から声がする。昨日の乙姫様だ、もどきとは思わない事にする。
「ははは、亀田さん、表記通りっていいましたよ。ちゃんと見ました?あのラーメン、熱湯4分ですの」
「・・・え?」
迂闊だった、当たり前のように3分だと思っていた。
「でも、亀田さん、昨日美味しそうに食べていたからちょっとだけ、願い叶えますね」
と、言って乙姫様はまた湯気に消えていった。あの乙姫、コーヒーの湯気でも出てくるらしい。
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「亀田、今回のプレゼン、最高だったぞ!起死回生だ!多分契約は取れる。よし、今日は残業なし、俺のおごりで飲みに行こう」
「え?本当ですか?やった、ありがとうございます!」
上司が珍しく上機嫌で酒をおごるというから、亀田はびっくりした。定時上がりで酒なんて何年ぶりだろうか、気持ちがはやる。
ふと見ると、じーーっと、亀田以外の部下の目線が上司にささっている。
「わかったよ、お前らも残業なし、飲みに行こう!」
「ヤッホーー!」
「さすが上司の鏡!」
「我らの亀ちゃん!永遠の友!」
ーお前ら俺をそんな風に思ったことないだろ。という思いが、亀田の胸に去来した。
男の名前は亀田 助太郎といった。
大都会の、ちょっとした恩返しの物語。