愛情
世間はもう夏休みになっていた。あたしは学校を辞めたのかどうか、自分でもさっぱりわからなかったけれど、夏休みになってもバイトは続けていた。
叔父と一緒に楽器屋さんに行って、念願のギターを買った。叔父は楽器屋さんのお兄さんにあれやこれやと交渉をしてくれて、サービスでつけてくれるストラップとシールド、それにチューナーのグレードが良くなった。そのほかにエフェクターだのミニアンプだのといった機材関連を、叔父がぜんぶ買ってくれた。
叔父の家は市営住宅だったから、大きな音は出せなかったけど、叔父の自慢の重低音ヘッドフォンでエレキギターはライブのときのような音を鳴らした。
あたしはついに、自分のための武器を手に入れた。
ある日、パパとママが叔父の家に来た。あたしにそろそろ帰ってこいという話をしに。
神妙な顔で登場したパパとママだったけど、叔父が晩酌にパパを付き合わせてパパはあっという間に上機嫌になった。叔父とパパが居間で楽しく飲んでいる間に、あたしとママはダイニングのキッチンテーブルに移動した。
あたしに向かい合うように座ったママは、あたしの今後についてあれこれ聞いてきた。いや、あたしの意見を聞いたんじゃなくって、自分の意見を言いそれに従うかどうかを聞いたのだった。
二学期から学校へ行きなさいってこと。バイトはこの際だから認めてあげるけど、学校を優先しなさいってこと。暴走族あがりで中卒で工事現場で働いているような男とは別れなさいってこと――
入学してすぐ、二ヶ月も学校に行かず夏休みになったあたしが、二学期からどんな顔で学校に行けばいいのかなんて考えていないママの言葉は、あたしの心を揺さぶらなかった。
それに、自分だって高校のときに板金屋だったパパに恋をして、収入もたいしたことなく、生活も安定しないままに結婚して、パパはいまだに酔っ払えば外でケンカして帰ってくるような男だっていうのに、暴走族あがりでブルーカラーだからって理由だけで、別れなさいなどと言ってしまえることでも、あたしの心は揺れなかった。
でもあたしがもし、なにか言い返せば、ママがなにを言うのかはわかっていた。『あなたのことを思って言っているのよ』と、『いつまでも叔父さんに迷惑はかけられないのよ』だ。
ママが思っているのは、あたしのことじゃないってのはわかっていた。そりゃまったく思ってないなんてことはないだろうけど、ママにとって重要なのがあたし自身のことじゃなく、自分自身への体裁や嫉妬や怒りだってのはわかっていた。
ママは叔父と叔母があまり好きじゃなかった。
あたしは赤ん坊の頃、叔父の家で育ったようなもんだった。ママはあたしを産んだあとすぐにまた妊娠して、妹を産んでいる。だから、妹を妊娠している間、体調が思わしくないときなどは、あたしは叔父の家に預けられていた。妹の出産前後は二週間ほど叔父の家に預けられたらしい。それっきりあたしは叔父に愛され、妹が産まれママが家に戻ってきたあとも、叔父は毎日のように会社帰りにうちへ寄り、あたしを連れて家に帰るようになった。叔父の家に泊まった翌日は、叔母とそれにおばあちゃんも一緒にデパートに行ったり公園に行ったりして夕方に家に帰り、そしてまた叔父があたしを迎えに来る、そんな毎日だった。
幼稚園になってもそれは変わらず、昼間におばあちゃんたちとお出かけすることがなくなっただけで、ほとんど毎日叔父が迎えにきていた。
そして、おばあちゃんも叔母も、それに叔父も、あたしにはなんでも買ってくれた。洋服もおもちゃもお菓子も、なんでも。
あたしが家に帰ると、ママはいつもとっても機嫌が悪かった。あたしがおもちゃや洋服をたくさん持って帰ってくるのが気に食わなかったのだ。ママはいつも、妹にはなにもないのかと言い、あなただけいつも良くしてもらってずるいわねと、女のヒガミ丸出しな顔で言っていた。ママは、叔父たちがあたしを自分から奪って、自分が金銭的な理由であたしや妹にしてあげられないことを叔父たちがしていて、そしてあたしが叔父たちにとってもなついていることが気に入らなかったのだ。
あたしはそんなママの気持ちを子どもながらに良くわかっていたし、ママの心の痛みはものすごく伝わってきていたけど、だけどあたしはママを好きになれなかった。
ママが叔父たちに会うときは、家のなかであたしに対して見せるヒガミ丸出しの嫌な顔や嫌味たっぷりの口調は微塵も出さずに、ニコニコと心にもないお世辞を言い、叔父たちを喜ばせていた。そんなんだから叔父はまたあたしを迎えに来るんだって、あたしにはわかっていたけど、ママがわかっていたのかはわからない。
だいたいにして、計画的だったのか若さゆえの無計画だったのかは知らないけれど、自分たちが立て続けに子どもを作り、あたしを叔父に預けたのがそもそものはじまりなわけだから、逆恨みもいいところだ。
叔父に子どもができてから、叔母があたしの世話ばかりしていられなくなったこともあり、泊まりに行くことは減ったけれど、それでも叔父はあたしを愛してくれた。自分の息子はそっちのけで、休みの日にはあたしを連れて遊びに行ってくれたし、あたしも従姉弟ができたことで、叔父の家に行くのが今まで以上に楽しくなった。
男女の差というのがあるのかもしれないけど、それを差し引いても叔父はあからさまに息子よりもあたしを可愛がっていた。叔母はいまでも当時の思い出話になると『あの頃はあんたが憎かったわ』と言う。叔父が自分の息子よりもあたしを可愛がっていたから。だけどそれでも、叔母もあたしを自分の子のように愛してくれた。怒るときは従姉弟と一緒に並ばされて怒られたし、従姉弟のために泣くようにあたしのためにも泣いてくれた。
ママは叔母のまえで、あたしにダメ押しを言った。『叔母さんだって、あなたの世話をするのは大変なのよ』って。
叔母は『そんなことぜんぜんないし、逆に家のことも手伝ってくれるし助かっているくらいよ』って言ってくれたけど、ママがそれを言っちゃったら、あたしは叔母に気を使わないわけにいかなくなる。ママはそれをわかって言っている。それがとっても腹立たしくって、悔しくてしかたなくって、あたしはうつむいたままパジャマの裾を握りしめた。握りしめた拳がしらっちゃけているのをじっと見つめたまま、家に帰らないわけにはいかないかって思ったら、涙が出てきた。
いまのいままで、パパと一緒にバカ笑いしていた叔父があたしのところに来てくれた。フラフラの千鳥足なほどに酔っ払っているのに、叔父はパパの相手をしながらあたしを見ていてくれたのだ。
叔父はあたしの後ろに立った。あたしの髪を撫でる叔父の体からはウイスキーの匂いがプンプンしていた。叔父はあたしの肩をポンと叩いてからママを見た。あたしの肩に置かれた叔父の手に力が入るのがわかり、息を深く吸い込む音が聞こえた。
ウイスキーの匂いが漂い、叔父はママに向かってこう言った。
「しのぶはいい子だ。悪いことなんかなにもしていない。連れて帰りたいなら、もう二度とこの子を泣かせるな」
その言葉はあれから二十年も経ったいまでも忘れない。叔母もまたその言葉を忘れていなくって、いまでもあたしにこう言う。『あんなこと、自分の息子にも言ったことがないわ』って。
あたしは家に帰った。
ママもパパもあたしの行動には不満があったろうけど、とりあえずはなにも言わずに、今後どうするかよりもこれまでのような家族に戻ることに専念していたのだと思う。学校のことも彼のこともなにも言わなくなり、家族で出かける時間を作ったり、食卓での会話も楽しくしようとしたりしていた。それがとてもわざとらしくて、ぎこちなかったのが馴染めきれなかったあたしだけど、ママもパパも、あたしとのことをどうにかしようとしている気持ちはわかっていたから、あたしも自分の行動を少しは改めていた。
彼とはこれまでと変わらず週に一度だけ会っていた。彼の家に泊まる回数も変わず、叔父の家にいた時と同じ月に一度の土曜の夜だけにしていた。それ以外で、友達と遅くまで遊んだりしたとしても、家にはちゃんと帰っていた。
月に何度かは叔父のところへ行き、一緒に音楽を聞いたり、買い物に行ったりした。飲んだくれの叔父がお酒を飲んでしまうまえにと、日曜の朝早くに押しかけて、ドライブに連れて行ってもらったりもした。叔父がお酒を我慢できなくなると帰ることになるから、そのドライブは大抵の場合、午前中でおしまいだった。そんなときは叔父の家で一緒に音楽を聴き、叔父が晩酌しながらああだこうだと流れる音楽の批評をしているのを聞いていた。うちに持って帰らなかったパジャマと下着と、それにお洋服のおかげで、そのまま叔父のところに泊まってしまうこともよくあった。だって、叔父があたしを帰したがらなかったし、あたしも叔父が酔っ払って寝てしまうまでずっと隣にいて、酔っぱらいの戯言みたいな音楽への批評を聞いているのがとっても楽しかったから。
あの日の夜はいつもとなにかが違っていた。
外泊は彼の家に泊まるときだけって決めていたのに、あの日は彼とだけじゃなく友達みんなで騒いでいたせいで、楽しくってぜんぜん帰る気になれなかった。
あたしたちはファミレスでコーヒーをおかわりしまくったあげくに、その店に入ってから何時間も経っているのに、今更ながらに未成年が喫煙したことを指摘され、店を追い出された。コンビニのゴミ箱の前に座り込んでアイスを食べているときに、友達の一人が害虫退治用の紫色の電灯にナメクジを放り投げて遊んでいたら、お店の人に怒られて移動するはめになった。競馬場のダートトラックのなかの公園に向かいながら、道々で知らない人の家のチャイムを鳴らしては走って逃げたりしていた。そんなバカみたいな時間がとっても楽しかった。
駅前から離れるにつれ、まわりはどんどん静かになっていき、あたしたちも自然と静かになっていった。月は見えず、曇り空だったんだろうけど、曇っているのかどうかもわからないほどに真っ暗な空だった。空気はとっても重くって体にべったりまとわりついていた。公園に入ると灯りはまったくなく、空の暗さはさらに増した。真っ暗で二メートルも離れると友達の顔すらわからなくなるほどのなか、持ってきていたラジカセで音楽を流し、みんなでかくれんぼをはじめた。
あたしと彼は、公園の中央にある真っ白で大きな遊具に登り、その遊具の頂上にある小さな小部屋みたいなところに隠れた。天井はなかったけど前後左右に壁があったから友達たちの声も、ラジカセから流れる音楽も、空から聞こえるような感覚でとても不思議だった。
時間は真夜中をとっくに過ぎていた。
あたしは自分で作った外泊のルールを破るべきか守るべきか、欲望と罪悪感に挟まれて悩んでいた。次の日が仕事の彼を付き合わせていることにも申し訳なさがあった。だけどそれでもぜんぜん帰る気になれなかった。なにがしたいわけじゃなく、なにもせずにここにいたかった。一人じゃなく、彼と一緒に。
友達がみんな帰ったあとも、ずっと二人でここにいた。自分で作ったルールを破るのはとっても怖かった。またママとパパが怒りだしたらどうしようかとか、また家に閉じ込められてしまうかもしれないとか、そんな恐怖があたしを襲っていた。
だけどそれでも、帰りたくなかった。夏の空は真っ暗で、まったく音のしないだだっぴろい競馬場の真ん中にある公園の、さらに真ん中の頂上にいたあたしと彼。誰にも見られることのない二人だけの場所が、二人だけの時間を刻んでいた。
彼の荒い息はずっと耳元で聞こえていた。彼の手はあたしの胸や腰をまさぐっていた。あたしも彼の体の中心に手を伸ばして、彼がビクっと体を震わすのに興奮していた。彼があたしの体にピッタリとくっついてきたとき、あたしは目を閉じているのか開いているのかもわからぬほどに、真っ暗な空を見ていた。誰もいないし、誰にも聞かれないのに、あたしは自分の口から自然に漏れてしまう声を押し殺して彼の体にしがみついていた。
その空の向こうで、あたしの人生を変えた男を乗せたヘリコプターが墜落しているなんて、夢にも思っていなかった――
つづく