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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

贖罪の旅人

作者: 黒澤咲月

旅は道連れ:

私は旅人だ。

しかし、旅を始める前の私に関する記憶は殆ど無い。

目覚めた時に私が持っていたのは、 “ホタル”という名前と、

手のひらサイズの、三日月の刻印入りのオルゴールだけ。

私は、旅の道中で四人の男女に出会った。

彼らとの出会いは、小さな田舎町の大衆酒場だった。

気遣い上手な少年のヨゾラ、

天真爛漫少女のハズキ、病弱な優しい女性のカナデ、

そして、虚ろな眼をした青年カレン。

彼らは、私のように記憶を失っていて、

記憶の欠片を求めて旅をしていた。

「初めまして、僕はヨゾラ。

お姉さんは、東から来たの?」

緑のベストを着た十三歳くらいの金髪の少年が、

失礼しますと礼儀正しく断りを入れながら私の前に座る。

彼は、この大衆酒場で最初に出会った仲間だ。

前述したように、礼儀正しく気遣いのできる子だ。

「そう、パステルって町に二週間滞在していたんだ」

「奇遇だね、僕も四日前までパステルにいたんだ。

花屋の店主が僕を雇ってくれて、

三か月程お店の二階で厄介になっていたよ」

そう言いながら、無邪気に微笑むヨゾラ。

その可愛さに、私は思わずドキッとした。

「もしかして、お姉さんも記憶の欠片を探しているの?」

「そう、どうしても思い出したくて」

「そっか、僕もだよ!」

「なになに?なんの話??」

そこへ、三人の男女が私たちの席を訪れた。

おしとやかな雰囲気のある長髪の女性と、

虚ろな眼をした高身長の男の背後から、

ドレッドヘアの少女が姿を現す。

私の眼球に埋め込まれたメモリーギアが示す情報では、

この少女がハズキで、

後ろにいる二人は虚な目をした男の方がカレン、

女性の方がカナデということがすぐにわかった。

「みんな、ちょうどよかった。

僕ら二人で旅の思い出話をしていたところだよ。

このお姉さんも、記憶の欠片を探していているそうなんだ」

私たちは改めて互いに自己紹介をし、それからこれまでの旅の話や、

各々の好きなことの話題で盛り上がった。

ハズキは、宝石が大好きで、

旅をしながら世界でたった一つしかない宝石を探しているそうだ。

カレンは目的もなく気の向くままに旅をしていて、

カナデの方は、訪問医師として、

お金がなくて病院へ行けない患者の家を回っている。

ヨゾラは、天体観測が趣味で、

旅をしながら星空の様子を愛用のカメラで収めているらしい。

そして、私の役目は人々に星の欠片を配ること。

星の欠片を配る代わりに、僅かなお金をもらう。

そのことをみんなに打ち明けると、

よくわからないけどすごいといった反応が返ってきた。

思わぬ評価に、私はなんだか照れ臭くなった。

とはいえ、私はその役目をちょうど終えたところだった。

「そうだ!よかったら僕たち一緒に旅をしようよ!」

「さんせーい!」

「ふふっ、なんだか面白いことになりそうね」

「いいのか?みんな行先は違うんだろ?」

「いいんじゃない?

旅は道連れって言うし、寄り道も楽しいよ!」

ハズキの意見に一同は黙ってうなずく。

私も、彼らのように首を縦に振って同意の意思を示す。

そういうわけで、私たち五人の愉快な旅が始まった。


不要だった:

大衆酒場を出発した私たちは、北東方面にある港を目指すことにした。

港には、鯨よりも大きな飛行船の乗り場がある。

目的地は決めていないが、

その飛行船に乗って海の上を横断する計画だ。

大衆酒場から港までは急いでも三日を要する。

私たち一行は、街を出て、石橋を渡り、

森を抜けた先にある隣街まで向かう。

ここはペルセウスという街で、世界で最も農業で栄えた場所だ。

そのため、街の市場では数多くの新鮮な農産物が売られている。

その中でも特に有名なのがイチゴとバナナだ。

歩いていると、街のいたるところで、

イチゴやバナナを使用した美味しそうなスイーツを見かける。

ハズキも、クレープ屋を目の前にして無邪気にはしゃいでいる。

「ねえねえ、あれ食べたい!!」

「いいよ、休憩がてらみんなで食べようか」

私たちは、クレープ屋に並んで各自食べたいメニューを選ぶ。

そして、それぞれ購入したクレープを手に近くのベンチに腰を下ろした。

甘党の私が選んだのは、

たっぷりの生クリームの上にイチゴとショコラが乗ったクレープだ。

一口食べてみると、甘くて美味しいだけでなく、

とても懐かしい心地がした。

幼い頃に、誰かと食べた気がする。

けれど、その誰かをどうしても思い出せない。

「ホタルちゃん、どうしたの?」

しばらくの間うつむいていると、

カナデに心配そうな顔で声を掛けられる。

「いや、大したことじゃないよ。

それより、このクレープホントに美味しいね!」

などと言いながら、

私はわざとらしく明るく振舞ってお茶を濁す。

「さて、一休みしたことだし、次はどうする?」

「はいはーい!私、あの店に行ってもいい?」

そう言ってハズキが指さしたのは、

街の角にひっそりと佇んでいるアンティークショップだった。

窓ガラスに旅人工房と書かれた店の扉を開けて中へ入ると、

時間をかけて集めたであろう数多くの装飾品で所狭しと埋め尽くされていた。

棚に並べられている商品をじっくり眺めていると、

この店のオーナーであろう老人がレジカウンターの奥から姿を現した。

「あんたら、他所もんか?」

老人は、鋭い目つきで私たちをにらみつける。

外から来た私たちを警戒しているようだ。

「私たちは、記憶の欠片を探して旅をしています」

「記憶の欠片はここにはない。

だが、欠片を持つ者なら心当たりがある」

「ほんとですか⁉」

「ここを出て左にまっすぐ進むと木造の大きな建物がある。

シェリーとかいうイチゴを栽培している農家がいてな、

そいつを訪ねてみるといい」

「ありがとうございます」

私は、老人に頭を下げた。

老人は、にやりと口角を上げて視線をハズキの方へ移す。

「お嬢さん、それが気になるのかい?」

商品棚に並べられた多種多様な装飾品を物色していたハズキは、

ゆっくりと顔を上げて老人の方に目を向ける。

「欲しいならあげるよ。

ワシにはもう不要だからな」

ハズキが手にしていたのは、ルビーの宝石が埋め込まれた、

アンティークゴールドのロケットペンダントだった。

「よかったね、ハズキ」

「うん!」

「旅のお守りになるかもな」

「お前たちも、欲しいものがあったら持っていけ」

「ほんとに良いのか?」

「もう、店じまいしようかと思っていてな、

今のワシにとってはみーんなガラクタだ」

「なんだか、悲しいですね」

「いや、そうとも限らんよ」

物悲しい表情でうつむく老人。

「用は済んだかい?

気が向いたらまたおいで。

この場所も当分はこのままにしておくつもりだ」

老人は私たちに背を向け、また店の奥へと引っ込んでいった。

私たちも店を、日が暮れる前に老人から聞いた農家の家に向かった。

家の前でベルを鳴らすと、中年の女性が玄関から出迎えてくれた。

この人が、老人が言っていたシェリーさんだ。

「いらっしゃい!さあ、入って頂戴!」

シェリーさんに招かれて中へ入ると、

「ちょうど、イチゴとブルーベリーのクッキーを焼いたから、

よかったら食べていって」

「はい!」

子供らしく元気よく挨拶するハズキとヨゾラ。

私たちもシェリーさんにお礼を言い、

紙皿に出してくれた焼き立てのクッキーに手を付ける。

食べてみると、フルーツの香りが口いっぱいに広がって幸せな気持ちになった。

「もしかして、あなた達は記憶の欠片を探しているのかしら?」

「どうしてわかったんですか?」

「記憶の欠片は、イチゴを栽培している地下シェルターの中に保管しているわ。

クッキーを食べ終わったら全員で見に行きましょうか」

クッキーも食べ終え、ラベンダーの香りのする紅茶をいただいた後、

私たちは、シェリーさんに連れられて地下シェルターへと向かった。

シェルターには、宝石のように輝くイチゴが沢山実っていた。

「わー!すごーい!!」

熟れたイチゴを目の前にしてはしゃぐハズキ。

イチゴの間を幼子のように駆けていく。

一瞬、ハズキの隣でハズキではない少女の姿を見た。

その陰はすぐに消えてしまったが、

なぜだか、胸が締め付けられる心地がした。

「さあ、みんな、イチゴを摘みましょ!

出来立てだから、食べたらとてもおいしいわよ」

シェリーさんは、そう言いながらイチゴを摘む為のバスケットを一人ひとりに配っていった。

私たちは、遠慮なくバスケットいっぱいにイチゴを摘んでいく。

一口食べてみると、とても甘くて口の中でトロける。

「お姉さん、おいしいね!」

「ヨゾラ、口元にイチゴのカスがついてるよ」

「ごめんごめん」

私は、鞄の中からハンカチを取り出し、

ヨゾラの口元についているイチゴをふき取る。

「それで、記憶の欠片はどこにあるんですか?」

そうカレンが訊くと、シェリーさんはエプロンのポケットからガラスのように透明な玉を取り出し、それをハズキに手渡した。

ハズキは、掌のガラス玉をしばらく見つめ、

そして、ぽつりぽつりと静かに涙を流した。

「私、思い出した。

お父さんとのこと…」

そう言って、ハズキは涙ながらに過去を語り始めた。

ハズキは、ごく普通の家庭に生まれたどこにでもいる女の子だった。

彼女は、家族三人で仲睦まじく幸せに暮らしていた。

彼女に訪れた不運は、十歳の春だった。

父親に連れて行ってもらったイチゴ狩りの帰り道、

彼女の父親は交通事故で亡くなった。

話を聞き終わると、カナデが顎をしゃくりながら泣いていた。

ヨゾラも、涙を堪えるように悲しい顔でハズキから目をそらす。

「それが、あなたの過去なのね?」

シェリーさんの問いに黙って頷くハズキ。

「いってらっしゃい」

「いってきます!」

ハズキは洋服の裾で涙を拭き、満面の笑顔を私たちに向ける。

そして、光に包まれながら消えていった。

ハズキがいた場所には、先ほどアンティークショップの老人から譲り受けた

アンティークゴールドのペンダントが落ちていた。


笑えない日々:

ハズキがいなくなり、シェリーさんの家を離れた私たちは、

引き続き港を目指して歩を進めた。

港までは、当初の予定よりも二日遅れて到着した。

港には、シルバーの外装に身を包んだ巨大な飛行船が三隻並んでいた。

私たちは、そのうちの一番右側に止まっていた”アルテミス”行きの船に乗った。

アルテミスは、水の都と呼ばれているほど水源に恵まれていて、

世界一の人口密度を誇る場所だ。

アルテミスまでは五日ほどかかるが、

その間、娯楽も充実している船の中で快適な空の旅を満喫できるだろう。

キャビンアテンダントに個室の方へ案内された私たちは、

荷物を置いて早々に最上階の展望デッキに向かった。

ちょうど、陽が沈む頃だった。

夜になりかけの、オレンジとネイビーのグラデーションがとても美しかった。

船内放送で、食事の用意ができたと案内があったので、

私たちは、夕日が沈み切らないうちに一つ下の階にある食堂の方へ降りた。

食堂はビュッフェ形式になっており、

豪華な料理が種類豊富に並んでいた。

私は、自分の取り分をお皿いっぱいに乗せて、

真っ白なクロスの敷かれた窓側の席についた。

私が選んだのは、サーモンとマグロのお寿司と、

ミートパスタ、肉団子、ミニバーガーにミニメロンパン、

それと、温かいコーンポタージュ。

「ホタルって、案外お子様舌なんだな」

「そ、そんなことないよ!

大人だって甘いもの好きな人はたくさんいる」

カレンにからかわれて、私はついムキになる。

窓の方に目を向けると、満天の星々が私たちに語りかけていた。

それがあまりにも綺麗で、いつまでも眺めていたいと思った。

ヨゾラの方を見ると、彼は窓の景色に見惚れながら静かに涙を零していた。

私も他の仲間たちも、どうしたの?とは敢えて聞かなかった。

彼の世界を壊したくないと思った。

食後のデザートには、みんなでティラミスと抹茶ラテを頂いた。

心を落ち着かせるにはちょうどよかった。

その間も、ヨゾラは一人で物思いにふけっていった。

食事が終わり、寝室へ戻った私は、ふかふかのベッドに身を投げた。

目に優しいブルーで統一された空間から見る窓の景色は、

言葉にできないくらい感動的だった。

仰向けになり、天井に左手をかざす。

カレンやカナデは、今頃涼しい部屋の中で眠っているのだろうか?

それから私は、大事な用事を思い出して勢いよく起き上がり、

手ぶらのまま寝室を飛び出した。

向かった先は、夕方にも訪れた最上階の展望デッキだ。

そこに、ヨゾラがいると思ったからだ。

予想通り、展望デッキにヨゾラはいた。

ヨゾラは、食堂の時と同様に黙ったまま空を見上げていた。

「この景色、ほんとに奇麗だよね。

まるで宇宙全体が宝石箱みたい。

世界で一番価値のある宝石箱…」

私が語りかけても、ヨゾラは星空を見上げたまま黙っていた。

これじゃ、まるで私が独り言が大好きな頭のおかしい人みたいじゃないか。

「僕ね、思い出したんだ。

この世界に来る前のことを」

「でも、記憶の欠片はまだ見つけてないはず…」

「よくわからないけど、あの空に浮かぶ星々が思い出させてくれたんだ」

「どんなことがあったの?」

ヨゾラは、落ち着いた声で過去を語り始めた。

ヨゾラには、とても大切な親友がいた。

親友との出会いは、彼が通う学校の屋上だった。

お昼休みに屋上へと続く階段の前を通りかかった時、

親友は階段の隅で蹲っていた。

「大丈夫?」

ヨゾラが優しく声をかけると、

親友は驚いたような、怯えているような顔をした。

親友の顔には大きな痣があり、制服の袖から深い切り傷のある腕が見えた。

ヨゾラは親友の隣に座り、事情は聞かずに話始めた。

最初は、ヨゾラのほうから一方的に喋っていたが、

ある話題になったとき、今度は親友側から話すようになった。

それは、天文学だった。

ヨゾラも親友も、宇宙の話が好きだった。

宇宙の話題をきっかけに、二人の距離は一気に縮まった。

休みの間に、二人で宇宙科学館へ行ったり、

図書館で天文学の本を読み漁った。

親友は、相変わらず素性を明かさなかったが、

ヨゾラに対して少しずつ心を開いていった。

学校でも、二人で行動を共にすることが増えた。

ヨゾラといる時の親友は、とても嬉しそうだった。

ヨゾラになら心を許せると思ったのだろう。

そして、二人は学校の屋上で星を見る約束をした。

ヨゾラが愛用の望遠鏡を持参し、

夜空を観察しようとヨゾラの方から提案したのだ。

そして、約束の日がやってきた。

ヨゾラは、真夜中に学校の屋上へと向かった。

扉を開けると、親友が先に来ていた。

鉄格子の上にいる親友を見て、ヨゾラの顔は真っ青になる。

「死んだらダメだ!君が死んだら僕は…」

これから親友がやろうとしている事を理解したヨゾラは、

慌てて彼の元へ駆け寄る。

「ごめんね…」

次の瞬間、親友は鉄格子から真っ逆さまに落下した。

不思議だった。

つい先程まで街明かりで見えていなかった景色が、

満天の星空が目の前に広がっていた。

ヨゾラは目の前の光景に見惚れ、

涙を流しながらその場で立ち尽くしていた。

「ありがとう、お姉さん…」

ヨゾラは、天の川が流れる満天の星空をバックに振り返る。

そして、子供らしい満面の笑みを私に向ける。

「君の正解を、宝物を見つけたんだね」

光に包まれながら彼は黙って頷く。

彼はいま、とても満たされている。

親友を助けられなかった後悔を抱えながら、

それでも大切に取っておいた親友との日々を慈しみながら、

美しくも静かな夜の中に消えていった。


なるべくして:

ヨゾラがココから去った後、

私は、部屋に備え付けのバスルームでシャワーを浴びながら、

先ほど起きたことを思い返していた。

この船には大衆浴場もあるが、人混みが苦手な私は遠慮した。

そういえば、どうして私は独りが好きなんだっけ?

シャワーを浴び、もう一度ふかふかのベッドに体を預け、メモリーギアで音楽を再生する。

聴いているのは、クラシック曲のピアノcoverだ。

スローテンポの落ち着いた音色に耳を傾け、

ゆっくりと目を閉じる。

そして、吐息を立てながら深い眠りについた。

それから、目が覚めたのはまだ陽も出ていない午前三時半頃だった。

部屋を出て廊下を歩いていると、

自販機の前で佇むカレンと鉢合わせた。

「よっ、昨日はゆっくり眠れたか?」

私に気づいたカレンが、挨拶代わりに軽く手を挙げる。

カレンが右手に持っていたのは、

色んな自販機でよく見かける無糖の缶コーヒーだった。

カレンは、缶コーヒーの蓋を開けて一口啜る。

私も、自販機でカレンと同じものを購入し、

傍にあったベンチに腰掛ける。

「そうか、ヨゾラの奴も行っちまったのか」

私は、カレンに昨晩起きたことを話した。

一応、誇張抜きに事実だけを端的に話したが、

話し終えた後も、彼はあまり気に留めていない様子だった。

「俺も、そろそろ潮時かな…」

カレンは、目を細めながら窓に視線を向けた。

「タバコ、吸ってもいいか?」

「ええ、どうぞ」

カレンは、ズボンのポケットから取り出した葉巻を咥え、

年代物のジッポライターで火をつける。

「それじゃ、俺の過去も話そうか?」

「カレンも、星を見て思い出したの?」

「思い出したというより、

お前らと会う前から過去の記憶はあったんだ。

話さなかったのは、アイツらみたいに、

人に言えるような綺麗な思い出ではないからだ」

「よかったら聞かせてよ」

カレンは、一度タバコを口から放し、

まだ残っていた缶の中身を一気に飲み干すと、

ゆっくり深呼吸をしてから、

視線を窓に向けたまま淡々と語り始めた。

カレンは、貧しい家庭で生まれ育った。

両親の喧嘩の原因は、決まってお金の事だった。

生活費が足りないと母親が喚き散らし、

腹を立てた父親が暴言を吐きながら母親に手を挙げる。

それが彼の日常だった。

自分が頑張れないのを環境のせいにしてきた。

彼の特技は逃げることだった。

勉強から逃げ、学校から逃げ、家族から逃げ、人間関係から逃げ、

挙げ句の果てには生きることからも逃げたいと願い、

とにかく、色んなことから逃げ続けてきた。

そして、何も成し得ないまま大人になってしまった。

最初の頃は上手くやれていたつもりだった。

嫌われないように、迷惑かけないようにと取り繕ってきた。

これ以上失いたくはなかった。

だから、人前ではいつも笑っていた。

それでも、やっぱりダメだった。

上司から叱責され、同僚からも反感を買い、

日を追う毎に仕事のミスも増えて、

そうした日頃の小さな積み重ねによって芽生えた負の感情が、

徐々に彼の心を蝕んでいった。

うつ病になり、拒食症になり、過食と嘔吐を繰り返す日々だった。

心療内科は宛にならなかった。

受診してから僅か三ヶ月で処方された抗うつ薬と睡眠薬を飲むのをやめた。

何も持たずに社会へ放り出された結果、

彼は、地獄を見る羽目になった。

認めたくはなかったが、認めざるおえなかった。

歪んだ世界の中で生きてきたから、

普通の生き方をしてこなかったから、

彼は普通というものがわからなかった。

それに気づいたのは、二十五歳の夜だった。

とても寒い冬のことだった。

大切な人に苦しいと打ち明けた時、

言わなきゃよかったと後悔した。

結局、痛みは人に見せてはいけないのだ。

涙は独りで流さないといけなかったんだ。

そのことを、身をもって思い知らされた。

そして、彼はまた独りになった。

「奇跡を笑った。

下からの眺めは滑稽だった…」

痛いか?

苦しいか?

当然だ。

お前の人生なのだから。

なるべくしてなった結果なのだから。

だから誰も悪くない。

悪いのは、お前だけだ。

「そうだ、全て自分の選択だった。

あぁ、ようやく思い出した。

俺は、自分に負けたんだ」

戦うことを辞めた彼は、高層ビルの屋上にいた。

彼の痩せこけた体は、スーツの上からでもわかる。

預金口座の残高も底をついた彼のカバンには、

大量に買い込んだ市販薬や缶ビール、

ハンバーガーをはじめとしたジャンクフードの数々。

彼は、それらを次から次へと口の中に放り込む。

吐いては食べてを繰り返し、意識が朦朧とし始めた頃、

彼は突然立ち上がり、強引に金網をよじ登って外側へ移動する。

まだ昼間だというのに、高層ビルからの眺めはとても美しく、

彼は思わず感動の涙をこぼした。

まるで運命を受け入れるかのように、

頭の中で大翼を思い描きながら両腕を広げる。

そして次の瞬間、迷うことなく身を投げ出した。

「逃げた先が闇とは限らない。

けど、俺の場合は逃げた先も地獄だったな」

「そっか」

私は、消えゆくカレンを見上げる。

いつの間にか、彼が手にしていたタバコの火も消えている。

「お疲れ様」

「ああ、お前もな」

私は、彼の新たな旅路を祝福した。

残るは、カナデと私の二人だけになった。

カレンの最後を見送った後、

私は、残りのコーヒーを一気に飲み干してから、

重い腰を上げてカレンのいる部屋へと向かった。




私のままで:

カナデの部屋に入ると、彼女は化粧台の前に座って化粧を落としていた。

私は、ベッドに腰を下ろしてカナデの様子を眺めた。

私はふと、カナデが白衣を着ていたのが気になって尋ねた。

どうやら、私がカレンと話している間、

専門医不在の医務室で軽症患者の診察をしていたそうだ。

というか、その専門医が患者という本末転倒な状況をたった今経験してきたところだった。

「医師免許持っててよかったわ。

でなきゃ、あの方を助けられなかったもの」

「カナデは、ほんとに優しいね」

「そんなことないわ。

私はただ自分のできることをしただけ」

「そういうところだよ。

何もない私には真似できない」

「そうかしら?

あなたにも、誰かを救った過去があったはずよ」

「よく、覚えてないや…」

私は、カナデから目を逸らした。

カナデの言葉が信じられなかった。

私に限ってそんなことはあり得ないと思った。

カナデは化粧箱を閉じると、

私の傍に寄り添って頭を撫でてくれた。

「さあ、残りの時間を楽しみましょう!」

カナデは私の手を取り、ウキウキしながら部屋を出た。

私たちは、一日中船内を回った。

水族館で青白いクラゲの群れを観たり、

お土産コーナーでショッピングを楽しんだり、

カナデと過ごした時間はとても幸せだった。

それから四日後、

飛行船は、予定通りアルテミスに到着した。

飛行船から降りた私たち二人は、

目的地へ向かいながら街中を散策することにした。

大型ショッピングモールのスイーツ屋でケーキを食べた。

アパレル店には私の好きな洋服がたくさんあった。

噴水広場近くにある石橋で野良猫たちと戯れた。

時計台の前では、音楽隊が弦楽器と金管楽器で美しいクラシックを奏でていた。

噴水の傍で子供たちが元気よく駆け回っていた。

本当に幸福だった。

これからもずっと、こんな平和が続けばいいと思った。

私は、少しだけ報われたような気がした。

そして、気がつけば夜になっていた。

私たちは、目的地の前にいた。

そこは、街の外れにある廃れた神殿のような場所だった。

入り口の両脇には、月明かりに照らされた大きな銅像が佇んでいた。

右側が月の女神アルテミスで、

左側が同じく月の女神であるセレーネだ。

私はカナデの手を取り、石垣の階段を登って神殿の奥へと進んだ。

神殿の中はとても暗く、私たち以外の気配は全くなかった。

進んでいる間も、私たちの足音だけが虚しく響いていた。

神殿の一番奥には大きな鉄の扉があった。

扉には、古代のものと思われる文字が扉一面にびっしりと刻まれていた。

「私、全部思い出したよ…」

扉に近づくと、カバンに閉まっていた三日月のオルゴールが独りでに鳴り始めた。

オルゴールをカバンから取り出した途端、それの奏でる音色が重たい扉をこじ開けた。

大きな音を立てて開いた扉の先には、どこまでも広大な草原があった。

「さよなら、私…」

カナデ、いや、嘗ての私によく似た女は、

光となって消えゆく間際、満足げに微笑みながら小さく手を振った。

女が消えた途端、扉がゆっくりと音を立てながら閉まる。

私は扉に背を向け、果てしなく続く草原を歩き出した。

一歩、また一歩と地面を踏みしめる毎に、

これまでの記憶が失われていく。

それは、終わりのない孤独だった。


忘れて:

唐突に場面が切り替わる。

彼女の視界は、水深三千メートルの世界を映している。

優しい光に包まれながら、彼女はゆっくりと降下していく。

青白く光るクラゲの群れが、彼女の目の前を横切る。

記憶を失ったというのは嘘だ。

彼女は知っていた。

出会ってきた仲間たちが語った過去は、

全て自分のものであることを。

「ただいま」

彼女はゆっくりと目を閉じ、

そして、泡となって消えていく。

消えゆく瞬間、彼女はとても満たされていた。


END





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