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先の見えない階段を転がり落ちていく感覚。それは物心ついた頃からずっと付き纏って離れない、胸の奥を蝕む空洞のようなものだった。
ではその空洞を形作る自分という外殻は、段差の角にぶつかり続ける衝撃に、あとどれだけの年数を耐えられるものなのだろう。嘘の名前と嘘の経歴で塗り固められ、虚構の中で希薄になっていく本来の姿。染めてしばらく経った髪の生え際に、元の色が混じり始めていることに気づき、鏡に映る情けない自分の姿を眺めて、ふとため息をついた。
くすんだフローリングと色褪せた壁紙。天井はところどころ黒ずみ、古い暖房機からは微かに鉄の臭いがした。床には無意味な形の染みが広がっている。誰が何をこぼしたのかは、あえて詮索しない方が平和だろうか。
控室には、笑い声があった。これは些細なことのように思えるが、大事にすべきことだった。なにしろ、ここは客を待つ女たちが集められた部屋だったからだ。
ソファに腰を沈めた数人が、化粧の手を止めて談笑している。話題は他愛ない──新しく入った子が靴を片方だけ履いて逃げた話、客の話を一切聞かないで時間をやりすごす方法、あるいは、昨日差入れてもらったチーズケーキが美味しかった話。
それぞれが着飾り、笑い、憂い、次に呼ばれるのは誰かという束の間。化粧は、自分と世界とを隔てる仮面のようなものだった。とはいえ、素の自分などというものは、すでにどこかで売り物になってしまった後だったのだが。
部屋の片隅には沈黙がいつも控えている。笑顔の裏に隠された、擦り減った日々の感触。言葉にするのは野暮であり、そんなものは誰も求めていなかった。
仮面は重くて、剥がした途端に空気が凍る。この待機室の一瞬の安らぎは、嘘でできているが、それでも構わないと誰もが思っていた。砂漠にできた水たまりのように、そこに口をつけることができるなら、それでいい。
「ねぇ、大丈夫?」
突然、背後からかけられた声にステラはわずかに肩を揺らした。鏡に映った先でソファに腰掛けた女が、眉をひそめてこちらを見ている。すでに化粧を終え、てらてらと光沢を放っている唇が心配そうに歪んでいた。
「……ん、平気」
自分でも気づかないうちにひどい顔をしていたらしい。ステラは鏡に向かって薄く笑みを作ると、振り返って肩をすくめた。
昔から嘘は苦手だった。だが、その嘘が見破られたところで誰もステラを責めたりはしない。誰もが、不安を押し殺してここにいる。
それを理解していたからこそ、努めて明るい声音で続けた。
「最近ますます物騒になってるからさ、ちょっとナーバスになってたみたい」
空調の音が一際大きくなった。娼婦たちは口を閉ざし、思い思いの表情で顔を見合わせる。そのうちの一人がちらりと、テーブルに置かれた新聞を見やった。
この街で客をとる娼婦、特にヴェルデ・ロッソの傘下にある店に所属しているのであれば、知らないでは済まされないだろう。新聞の一面を飾るのは、旧帝都を騒がせている連続放火事件のことだった。
帝国のみならず国外にまで強力なパイプを築く巨大組織、ヴェルデ・ロッソ。旧帝都における性を売り物にした商売は、ほぼ彼らが独占しているといっていい。それが放火という手口で狙われ、すでに少なくない犠牲が出ている。間抜けな従業員が火の始末を怠ったわけではないということは、周知の事実だった。
愉快犯、掟を知らぬ流れ者、あるいはマフィア同士が辛うじて保っている均衡を崩そうとする既存勢力の謀略。どれも噂話にすぎないが、誰もが疑心暗鬼に陥っている。
「……大丈夫だって! 見回りも強化されてるし、私たちにまで手配書が回ってくるくらいだもん。すぐに捕まるに決まってるよ」
「そうだね……ありがと、アンバー」
外の風は冷たい。部屋の空気もまた、冷え切っているように思えた。アンバーの声は不安を隠しきれてはいなかったが、それでも気まずさを誤魔化す助けにはなる。
様子を窺っていたであろう娼婦たちも、敢えてその話題に乗ることを選んだらしい。普段以上に上擦った声音が、部屋の中を飛び交い始めた。
「賞金が出るらしいじゃん。あちこちから殺し屋が集まって来てるって」
「最近妙に汚くて女の扱いがなってないヤツが増えたなって思ったけど、辺境から来た連中か。納得」
「そうそう! ちょっと期待してたのに、田舎者ばっかりで」
「確かにイケメンは全然いないけど、噂じゃとんでもない凄腕がいるみたい。ちょー厳ついオジサンらしいけどさ、その人……昔は軍警にいた妖精憑きなんだって」
栗色の瞳を大きくしたアンバーが、得意気な表情でここにいる全員を見回すように話す。驚くほどの内容ではない。ある程度大きな規模の組織であれば、懇意にしている殺し屋や傭兵会社の一つや二つくらいはある。だがそれでも、何人かは大袈裟に反応してみせた。妖精憑きという単語に被さるようにして、冗談混じりの悲鳴が上がる。
ステラもまた、それに同調するように相槌を打ってみせた。それでも思っていたよりも上手く笑えたわけではなかったが。
「ほら、これ食べて元気出して」
アンバーはよく気の利く女だった。新人の面倒見が良く、古株を立てることも忘れない彼女のことを打算的だと思うこともあったが、それでも。職業柄荒みがちな心が、彼女の言動に救われたことは一度や二度ではない。
カットフルーツを差し出すアンバーを抱き寄せて、胸に顔を埋めると控えめな香りが鼻腔を抜ける。香水のセンスも悪くない。
「……もー、あんた本当大好き」
言いつつ、彼女の脇腹をくすぐる。
「ちょっ、くすぐったい! ステラぁ……やめてよぉ!」
「まーた始まった。あんたら、盛るなら余所の部屋でヤりなよ」
笑いながら身をよじるアンバーと、彼女を逃がすまいとしっかり腕を回すステラに向けて、呆れ混じりの野次が飛ぶ。
自分のせいで張り詰めてしまった空気を塗り替えてくれたアンバーに、感謝の念を込めて額を押し付ける。ステラはビアンではなかったが、アンバーの豊満なバストが決して偽物ではないことも、二人きりのときだけ呼び合う本名も、この中で自分だけが知っているという優越感はあった。秘密にしておきたいような、あるいは、そっと分かち合いたいような関係。愛よりも繊細で、欲望というには静かな情。
「混ざる?」
「ばーか、客の相手だけで充分だっての」
笑いが起こり、またしても話題は移ろっていく。現実から目を逸らすための、一時。偽りの安らぎとはいえ、それで心の安寧が得られるのであれば一種の精神安定剤のようにも思える。
「落ち着いた?」
「……うん、あんたのおかげ」
「 お互い様。私だって不安だもん。ほんとさ、イカれてるとしか思えない。喧嘩売る相手を間違えすぎでしょ」
「どうせ何かの逆恨みか、薬のやりすぎで戻れなくなったラリ公の仕業よ」
軽い調子で返しながらも、ステラの意識は新聞へと向いていた。
風俗店を狙った放火。物的被害も人的被害もそれなりだが、マフィアの懐を削るには些か弱い。文字通り導火線に火を点けるという意味では、効果てきめんなのだろうが。
普段以上に物騒な連中が増え、街は緊張状態にある。災いの芽は早期に摘んでおきたいというマフィアの思惑と、賞金稼ぎどもの足音で。
単独犯なのか、それとも別の組織との繋がりがあるのか定かではないが、どちらにせよ捕まれば無惨に殺されるだろう。制裁の意味を込めて、マフィアがよく好む方法で、だ。
巻き込まれた者たちのことを考えれば、それでも足りない。火事に巻き込まれた売春婦には、話したことのある者もいた。
悲しい、と思った。そして自分にまだそんな感情が残っていたことに驚いた。厚い仮面の下でも、か細く繋がっていた連帯意識。傷のなめ合いと言われればそれまでだが、似たような境遇にいる者たちの存在は、ささくれだった心に水を与えてくれていた。
だが今は、それよりももっと鋭くステラの記憶を掻き毟るものがある。
(……赤毛、十代前半の子供、目立つ服装、痩せ型)
末端まで出回った手配書には、当然カルラも目を通したあとだった。写真は載っていなかったが、おおまかに羅列された特徴だけで、胸の奥がじわりと疼くのを抑えられない。
肩まで伸ばした髪に手が伸びたのは無意識だった。旧帝都に墜ちてきて以来ずっとオリーブ色に染め続けている髪。元々は鮮やかな赤毛だった。
(そんなわけない。こんなこと考えるなんて、どうかしてる……)
「ステラ? ねぇ、本当に大丈夫?」
ひっそりと耳元で囁きかけるアンバーの声に、思考が引き戻される。気づけば、爪が深く食い込むほどに拳を握りしめていた。手汗で滲んだ整髪料がベタついている。それをハンカチで拭いながら、ステラは頷いた。
「……なんでもない。ちょっと、考えごと」
そう言って笑ってみせる。だが顔面の強張りを自覚すればするほど、上手く表情が作れなくなっていく。喉の奥が干からびていくような渇きに勢いよく水を流し込むと、むせてしまった。
慌てた様子で背中をさすってくれるアンバーの呟きが聞こえてくる。
「やっぱりさ、今日はもう上がったほうがいいよ。ステラ、なんだかいつもと違うもん」
「……ん」
そのまま否定してもよかったが、ステラは曖昧に返した。どうせ、アンバー相手に隠し事などしても無駄であることを知っているから。
「こんな時だしさ、オーナーもわかってくれると思う」
「そう、かな……」
「 そーだよ! ちょっと話してくるから待ってて。私も一緒に帰るから」
「えぇっ、なんであんたまで」
「ばか、ひとりで帰らせるわけないでしょ! どうせ放火魔にビビッて客なんて来ないんだから、私たちが抜けるくらい平気だって」
一方的に告げると、即座にアンバーは身を翻した。そのまま止める間もなく、軽快な足取りで待機室を出ていく。
呆気にとられ、数秒。無意味に伸ばした右手と開け放たれたままのドアを、交互に眺めて息をついた。
(ほんと、どうかしてるわ)
腕から力を抜いて、苦笑する。真剣に考え込んでいた自分が、なんだか馬鹿みたいに思えた。
アンバーが交渉してくれるのであれば、間違いなく早退は許可される。ありがたく思うと同時、化粧をする前だったらなお良かったと、ポーチを手に取って息をつく。
荷物をまとめようと向き直ると、にやけ顔の娼婦と目が合った。
「明日、寝坊しないでよ」
「……わかってる」
下衆な女だったが、他人にとやかく言えるほど、ステラ自身も胸を張れる生き方をしてはいない。過去を捨て、名前を変え、素の自分を隠して今日を切り売りする女の溜まり場。だが、いくら売女と罵られようと、彼女たちにだって明日は来る。
明日。また明日。なんの保障もない、口約束にすらなっていない、ただの世間話。
でも彼女の言う通り、そんな明日を迎えられたら良いと、ステラは静かに笑った。
***
最初は、匂いだった。
鼻の奥が焼けるような、甘ったるい焦げ臭さ。生焼けの獣の肉のようでいて、つい最近、屋台で嗅いだ食欲をそそるそれとも違う、もっと異質な匂い。
間違いなく、この匂いを知っている。
嗅いだことがあるのはたしかだ。それも何度も何度も。しかしあと一歩のところで、その正体を思い出せずにいる。嗅覚と記憶は密接な関わりがあるらしい。それを教えてくれたのは医者だったから、おそらく間違いではないのだろうが、何事にも例外は存在する。
思い出せないということは、とうに記憶から消された無意味な感傷だったのかもしれない。あるいは、思い出さないほうがいい事実なのかもしれない。
それならばいっそこのまま呼吸を止めて、肺を閉じてしまえばいい。何も考えずに済むのならば、その方が楽に決まっている。
だが、
(なんか、イライラする)
どうしても脳を引っ掻くもどかしさが、消えない。
それならばと、頭の中を駆け巡る情景を丁寧に並べてみても、思い出したくもない記憶ばかりが浮かんできてしまう。
試験で良い成績をとった。教科書がなくなった。
テニスの試合で勝った。ラケットが折られていた。
同級生たちから無視をされるようになった。
他の人には聞こえない誰かの声が聞こえるようになった。
ますますひとりになっていった。
母親が死んだ。
話し相手がいなくなって、頭の中に響く声と会話をするようになった。
もう、周りから誰もいなくなっていた。
やがて会ったこともない父親の家に引き取られた。
立派な邸宅だった。そこではすれ違うたびに、舌打ちされた。家政婦にも。新しい家族にも。
たまに嫌がらせを受けた。やり返せば、もっと酷くなるとわかっていた。
だから、我慢した。元から人と争うことは苦手だったから。
知らない間に怪我をしていることが増えた。
いつの間にか夜になっていることが増えた。
――カルラが、傷の手当てをしてくれた。
――カルラが、頭を撫でてくれた。
――カルラが、笑いかけてくれた。
――カルラと、花冠を作った。
――カルラと、母親の好きだったアングレカムの香りを探した。
――カルラも、その花を好きだと言ってくれた。
人を殺した経験なんてない。そんなこと覚えてない。
あの犬が、カルラに噛みつこうとしたから。
あの男の子が、カルラを連れて行こうとしたから。
悲しくなったから。痛くなったから。
だから、どうにかしなきゃと思った。
覚えているのは――それだけ。
(……——やっと思い出した)
匂いの次は音だった。ぱちぱちと、ポップコーンの弾けるような小気味のいい音。
その正体を見極めるために、ノアはゆっくりと意識を浮上させた。目を開こうとして、しかしその必要がないことに気づく。耳を澄ませる必要も。
ノアは最初からその光景を見つめていて、変化し続ける旋律に同調していた。単に理性がその光景を否定していただけの話だった。
なんのことはない。ただ、人が燃えている、その様を。
見覚えのある男だった。たしかハリスと呼ばれていたはずだが、すでに顔面の大半が焼けただれており、正直に言えば合っているか自信がない。
炎が皮膚に触れると、まず水が弾けるような音がした。次に悲鳴よりも先に皮膚が焼ける音がした。
目が合った。
確かに目が合った。瞳の奥にノアを見ていた。いや、睨んでいたのかもしれない。とにかく、何かを伝えたかったのだろうが、すでに気管支はその機能を失い、声を発することもなく、ただただ彼は焼けていった。
ノアは意識を取り戻す前から、こうして立ち尽くしたまま、男が灰になるまでの過程を眺めていた。それを今、思い出した。
(今、何時だろ)
ふと、芽生えたのはどうでもいい疑問だった。なんとなく気になっただけではあったが、時計を持たないノアにそれを知る術はない。
天井が燃え尽きたのは良かったと思う。湿気で充満していた部屋がずいぶん開放的になった。
骨組みだけになった屋根から、空が見える。星座について詳しければ、大まかな時間でも割り出せたのだろうが、ノアにはそこまでの知識がなかった。というよりそれ以前に、雨雲に覆われた空には星の一つも見えやしなかったのだが。
ノアはすぐに興味を失った。それよりももっと、美しいものが目の前にある。燃え盛る炎は、愛おしいほどに鮮やかで、きらきらとしている。
火の粉が頬に触れる。ノアはそれを撫でるように受け止め、愛おしそうに指先で弾いた。水の中に手を入れるような感覚で、炎の最中に進む。くすぐったい感触が腕を伝って、やがてノアの全身が包みこまれた。
肌は焼けることはなく、痛みも感じなかった。熱風に巻き上がる真紅の髪も、ひらひらと舞うワンピースも、焦げつきはしない。火炎はノアの思うがままだった。
そのことに満足して、笑う。
「カルラ」
声に出して反芻する。
失った記憶はすべて取り戻した。
(違う……忘れたのは私だったけど、ちゃんと私は覚えてた)
すべて覚えている。
カルラに噛みついた犬の口を縫い付けたこと。
カルラに厳しく当たったピアノ講師を階段から突き落としたこと。
カルラとノアを引き離そうとした男の子を燃やしたこと。
カルラを汚そうとした男たちや、彼女を売り物にする店を、灰にしたこと。
「カルラ」
もう一度彼女の名前を呼ぶ。
なんて素晴らしい響き! 今までで声にしたなかで一番、しっくりきたような気がする。
「行かなきゃ」
歩き出す。方角は適当だったが、カルラはきっとこの先にいるに違いない。
ノアが合図せずとも、焦熱の痕跡を残して炎は消える。
最後に、額から剥がれたガーゼが燃え尽きていくのを、なぜか少し悲しく思って。
それでもノアは、振り返らずに。
ノアは――