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 身動きがとれない。

 両手と両足がロープで縛られて、廃棄される寸前のゴミのように冷たい床に転がっている。

 薄暗い部屋の中で目を覚ましたあと、状況の把握にそう時間はかからなかった。全身に痛みがあって、四肢はこの有様。左の肩がやたらと疼くのは、運ばれるときに乱暴に扱われたか、どこかにぶつけでもしたからだろう。


(襲われて……連れてこられた。それはわかる。けど、なんでわたしが?)


 理由などわかるはずもない。あるいは理由などないのかもしれない。

 ただ幸い……と言っていいのか微妙なところではあるが、目覚める前にあったことははっきりと思い出せた。無論、自分の名前も。

 ノア。ノア・リセルナイン。まだ記憶があることに安堵し、そして同時に不安がよぎる。いつか自分が何者であるかすら、忘れてしまう日が来るのではないかと。ふいに、循環不良を起こして冷たくなった指先から脳味噌にいたるまでが、腐り落ちていく妄想に掻き立てられた。


(……最悪)


 額を床に打ち付けてみると、少し頭は冷える。くだらない妄想は頭から追い出すことに成功したが、気分は落ちていく一方だった。改めて、旧帝都の治安の悪さを痛感してしまう。

 果たして、考えごとに集中するあまり警戒を怠ったせいでこうなったのか。子供に危害を加えた暴漢をそのまま取り逃がした周りの大人たちが悪いのか。そもそも、こんなことがまかり通る都市自体がおかしいのかもしれない。

 全部だと、思った。全てが悪い方向に噛み合って、今こんな事態に陥っている。運が悪かった。そう思わなければ、とても心を平坦に保つことができそうもなかった。


(ほんと、最悪だ)


 唇を動かさずに毒づいた。声が出せないよう、口がテープで塞がれているのも腹立たしい。

 四肢がもがれようが、骨を折られようが構わない。痛みならいくらでも我慢はできる。しかしその分だけカルラから遠ざかってしまう実感は、ノアにとって最も鋭利なくちばしとなって、心をついばんだ。

 視線だけで部屋の中を見渡す。

 ところどころ黒く変色した天井から、規則的な音を立てて水滴が垂れていた。そう広い部屋ではない。顔を上げれば数歩分先にドアがあり、隙間から僅かに光が漏れている。その光を遮るように、途切れ途切れに動く複数の影がちらついていた。少なくとも無人の建物ではない。恐らくはノアを襲った誰かがいる。

 と、ふいにそのドアが開いた。荒々しい足音とともに男が入ってくる。アイボリーのスーツに身を包んだ、長身で細身の男。ただ痩せているというよりは鋭利なナイフのようだと、ノアは一目見てそんな印象を抱いた。更にその背後を見やると入口を塞ぐようにして数人の男たちが立っている。彼らは街でよく見たチンピラのような風体だったが、やはりこちらを見る目には冷酷であった。


「……はっ、本当に子供かよ。なぁ、こいつで間違いないんだろうな」

 

 スーツ姿の男がしゃがみ込み、ノアの髪を掴んで頭を持ち上げた。


「ええ、情報通り赤毛のガキです。例の便利屋との接触も確認されてます」

「そりゃなんて不幸な話だよ。このダンテ様に仇をなして、ここまで逃げ果せてみせた放火魔がこんな可愛らしいお嬢さんとは。案外、飛ばし記事も馬鹿にはできないもんだ」


 男はおどけた口調で肩をすくめたが、ノアを見据える目には決して友好的な感情は灯っていなかった。品定めするよう見下ろされる視線に、自然と首筋が強張る。彼らがどういった種類の人間かなど、考えるまでもない。暴力の匂いが染みついた——己の利益のために躊躇なく力を振りかざすことができる者だと、容易に想像たらしめる空気を纏っている。

 その気配に触れ、ノアはようやく自身の生命が脅かされているという実感を覚えた。

 それでも幾分かは冷静ではあった。目が覚めた時点で混乱は通り過ぎている。むしろノアの頭にあるのは、暴力の矛先が自分に向けられている理由と、どうすればこの場から逃れられるかという、誰に向けたものでもない問いかけ。そして理解できていることといえば、前者はこのまま思索を巡らせても意味がなく、後者はもっと無意味であるということだった。

 だから、こうしてされるがままになっている。スーツの男——ダンテは鼻を鳴らして、ノアの口を塞いでいたテープを剥がした。


「ファミリーの看板だの面子だのはどうだっていい。そんなもんを気にするのは、組織の名前を出せば好き勝手に振る舞えると思ってる馬鹿だけだからだ。燃え尽きた店も、従業員もいくらでも替えはきく。だが、てめぇがこの状況で何を(さえず)ってくれるかは興味がある」


 鼻先が触れそうな距離で、ダンテが囁く。


「よぉく考えて質問に答えな。誰に指示されて、人様の庭でキャンプファイヤーなんざ始めやがった」

「知りません」


 ノアは首を振って即答した。覚えていないと言ったほうが正しいのだろうが、敢えてノアは違う言葉を選んだ。

 放火魔——と、彼はノアのことをそう呼んだ。

 記憶になくとも、思い当たることはある。額と腕にある、知らない間にできた火傷。それらを結びつけられないほど、ノアは愚鈍ではない。

 即答したノアの目を覗き込み、歯を鳴らす男の正体もまた、なんとなくではあるが予想がついた。そして彼のようなタイプの人間が次に取り得る言動も、


「 誰か、工具箱からラジオペンチを持ってこい」

「 本当に、本当に記憶にないんです。わたしは……なにも覚えてない」

「 マフィアの――ヴェルデ・ロッソの店と商売道具を燃やしといて、シラを切れると。お前はそう思ってるわけだ」

「わたしが――」


 次に罵声を浴びせようとして吐き出した声は、ただの吐息となって床に散っていった。

 彼の言うことが真実であるとするならば、先に罪を犯したのはこちらということになる。それも放火という重たい罪を。覚えがないと申告したところで、それがまかり通るだろうか。

 唇を噛んで、ノアは視線を下げた。

 もはや司法に裁かれるのも、マフィアに私刑に身を委ねるのも、過程が違うだけで結末はそう変わらないように思えた。記憶を失う前の自分が、今のノアを窮地に立たせている。ダンテの望む情報を吐き出すまで尋問され、最終的には殺されてしまうのだろう。

 なぜ自分がマフィアの逆鱗に触れるような真似をしたかはわからない。このまま問答を繰り返していても、状況が好転しないことだけは確かだが、用済みとなったときに解放される保証があるわけでもない。タダで命を捨てること対しては少しくらいの抵抗がある。何よりも、カルラに会う前に死ぬことを、ノアは決して望んでいなかった。

 精神を平静に保つための天秤。今は恐怖よりも、むしろ苛立ちが勝っていた。


「わたしじゃない……わたしじゃない。いつもいつも……わたしだけなにも覚えてない。じゃああなたが教えてよ! どうして全部忘れちゃうのかも、カルラがわたしを置いていった理由も!」


 半ば八つ当たりのようなものだった。

 叫んで、首を後ろに引く。反動をつけて、ダンテの額に向けて思い切り頭を振り下ろした。せめて、一矢報いようと。

 刹那、体が宙に浮く感覚ともに、顔全体に割れるような衝撃が襲った。ぶちぶちと髪が千切れる音が頭蓋に響く。浮遊感は一瞬で、すぐさま体全体が床に叩きつけられ、呼吸が止まった。肺が圧迫を受け、酸素の残りかすを絞り出す苦痛にうめく。腕が軋む、その感触に悪寒が走った。

 這いつくばり、しかしそれでも辛うじて開いた左目で正面を見やる。指の間に絡まった髪の毛を払いながら、薄笑いを浮かべたダンテがこちらを見下ろしていた。


「そう興奮するな。子供の声は耳に障る」

「……」

「火事の現場じゃ毎回のように赤毛のガキが目撃されて、そしていつの間にか消えている。そりゃあ噂にもなるさ。旧帝都は色んな人種が入り混じってやがるが、赤毛はそういない。目立つんだよ、お前は」


 殴られたと理解するまでに時間は必要なかった。頬が熱を持ち、瞼が痙攣を起こす。

 ただ血の混じった涎を垂れながら、うめくことしかできないノアを見つめながら、マフィアは思案気に目を細めた。ぶつぶつと口の中で何かつぶやきながら、狭い部屋の中を歩き回っている。

 やがて合点がいったように指を鳴らした彼は、ノアの頭を押さえつけるように靴の裏で踏みつけた。


「カルラ、カルラ…………カルラ・リセルナイン。覚えのある名前だが……なるほど、確かにあいつも赤毛だった。お前、あれの妹か」

 

 息を吞む。心臓の鼓動が大きく響いていた。彼の嘲笑を掻き消すほどに大きく、強く。

 強烈な波のように押し寄せる痛みなど、この際大した問題ではない。それよりももっと、ノアの心を揺さぶることをダンテは口にした。カルラを知っている。この男が。

 

「なんで……!」

「ああ、正直な良い反応だ。そうかそうか、お前、姉さんを探しているんだろ。会わせてやってもいい。なんせこの辺りの売春宿は俺が取り仕切っている。言ってる意味がわかるか? カルラは今、うちの店で売春婦をしている」

「お前たちは嘘吐きだ! 汚い口でっ、カルラの名前を呼ぶな!」

「……腑に落ちねぇのはだ」


 ノアの慟哭を無視して、ダンテはさらに靴底を沈めた。硬い床に押し付けられた口に、血の味が滲む。

 

「どうして愛してやまない姉さんがいるかもしれないファミリーの店に、片っ端から火を点けて回ったのかってことだが……知らずにやってたのか? だとすりゃ、やっぱり裏で画を描いている奴がいると考える方が自然だな」

「だから……覚えてないんだってば」

「まいったね、こりゃ」


 大して困ってなさそうな表情で、彼は肩をすくめた。ただその目が獰猛に細められたのを、ノアは見逃さなかった。すぐさま、次にやってくる痛みに備えて呼吸を止める。

 間を置かずに無防備な腹部へと革靴の先が突き刺さった。それは何度も繰り返された。いっそ意識を飛ばすことができれば楽だったのだろうが、


「お前が誰に雇われたのか、だ。それさえ正直に話してくれれば……そいつの命でお前の罪はチャラにしてやる。ついでにカルラと会わせてやってもいい。どうだ、これだけ俺に痛めつけられてもむしろ釣りがくる」


 カルラに会える。

 そのためにどれだけのものを差し出せるかなど、答えるまでもない。

 ここまでの屈辱を受けてもなお縋りつきたくなるほどに、彼の提案は魅力的に聞こえた。だがそれがマフィアの常套手段であることくらいは、新帝都育ちの子供でも知っている。ノアは声が震えていることを自覚しながら、緩慢に舌を動かした。


「マフィアがそんなに甘いもんか。嘘つきで傲慢で、誰でも思い通りにできると高を括ってる。どうせお前も、わたしが情報を渡せば、そのあと殺すんでしょ」


 反抗する意思があったとしても、蛹のように身動きが取れない今となっては、言葉だけが自分を生かす武器である。本来であれば、命乞いをする場面ではあったのだろうが、ノアは挑発的に返す。

 彼は情報を欲している。ならば簡単には殺されないはず。ノアが望んでいるのは確約だ。間違いなく生きてカルラに会えるという確約。そのためであれば、この悪党に心を売ったとしてもきっと後悔はしない。


「お前の言う通りなら、わたしだって利用されてたんだ。だったら、こっちにだって復讐する権利はある。カルラに会わせてくれると約束するなら、いくらでもお前たちに協力する」


 ダンテの目が細められる。取り巻きの一人が鼻を鳴らした。


「勘違いするなよ、赤毛。お前が条件を提示できるような立場にいるとでも思ってるのか。ボス、さっさと始めちまいましょう。順番に指を潰していけば、そのうち小鳥みたいに喋りだす」


 ラジオペンチを手にした男が、ノアの腕を掴んで告げた。その手の感触で、ノアを攫った張本人がこの男であることを確信する。だが今となってはそんなことすらどうでもいい。もどかしさを感じながら、ノアはダンテの視線を見据えた。


「まぁ、待て。ハリス、こいつは今興味深いことを言ったぞ。姉さんに会うためなら、マフィアの駒になることも厭わないらしい」

「こんなガキに使い道がありますかね」

「俺たちは確かに嘘つきだが、だからこそ他人の嘘には敏感でなければならない。俺が。その俺がつまり、こいつは本当に――何も知らないんだろうよ」


 ダンテが言葉を切り、部屋に沈黙が降りた。それがどういった種類の沈黙であるか、ノアには理解できなかった。取り巻きたちの表情は変わらない。全て予定通りに事が進んでいると疑うことすらせず、ここにいる誰もがダンテの言葉を待っている。


「つまり、もう生きている価値がない。爪を剥ぐ手間すら惜しい。さっさと殺しちまえ」


 耳鳴りがする。鼓膜を揺らすはずの水滴の音も、男たちの吐息も、今は遠くに聞こえた。

 世界が凍りついたようだった。

 呼吸ができているのかすら定かではない。冷たい床の感触だけが、まだ自分がこの世に縛りつけられている証だった。

 恐怖とは違う、もっと深い——底なしの絶望。

 ここで殺される。

 それは肉体の終わりを意味しない。ただカルラに会えぬまま、名前も、想いも、すべてが虚無へ呑まれることを意味していた。


(嫌だ——)


 心臓が、音を立てて悲鳴を上げる。だが縛られた体は動かない。頭の奥に渦巻くのは、泣き声にもならない叫びだけ。

 そしてダンテはさらなる絶望を、ノアに浴びせた。


「ついでに、カルラも殺せ。良かったな、姉妹揃ってめでたくあの世で再会だ」

「ふざけるな!」


 声を張り上げた瞬間、喉が裂けるように痛んだ。

 だがノアは止まらなかった。もがき、縛められた体で床を軋ませ、必死に叫ぶ。

 頭頂部をラジオペンチの先で殴打される。視界が明滅し、意識が飛びかけるが、それでもノアは咆哮し続けた。

 ダンテはそれを一瞥すらせずに、部屋から出て行こうとしている。


「待て……待って! お願いします、なんでも……なんでもするから!」 

「 便利屋の方はどうしますか。こいつを匿ってたなら、何か知っている可能性が」

「むしろそっちが本命かもな。捕らえて尋問しろ。油断するなよ、あの妖精憑きは腕が立つ」


 止まない波紋を心に残して、彼らの声が遠ざかっていく。


「ねぇ……待ってよ」


 地上に引き上げられた魚のように、浅い呼吸にもがく。ハリスと呼ばれていた男がこの場に残り、やれやれといった表情でノアを見下ろしていた。

 憐憫(れんびん)も慈悲も、感情一つ乗せぬまま、彼の腕と赤黒く錆びついたラジオペンチが振り上げられた。額から滴る血と涙とでぐしゃぐしゃになった視界で、ノアは呆然とその軌跡を眺めている。

 最後の瞬間。

 誰かに対して殺意を覚えたのは、これが初めてだった。

 まして、それを口にすることなど。


「殺してやる」


 どこまでも純粋に澄み切ったその言葉を放った直後、頭頂部に走った衝撃とともに再びノアの意識は途切れた。

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