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 その時、何を考えていたかといえば、むしろ自分自身に問いただしたくなるほど思考がまとまっていなかった。

 考え過ぎれば、坩堝(るつぼ)に嵌ってしまいそうになる。だが思索の伴わない前進は足を踏み外しかねない。いったん落ちてしまえば、浮かび上がるには気力がいる。だからといって地面に目を凝らし続けるにも、別の気苦労が伴う。

 ルシエラは自らの肩に止まった妖精に目をやって、胸中で嘆息した。

 ノアは妖精の声が聞こえる――妖精憑きかもしれない。驚きはしたが、今にして思えばそれも取るに足らないことだった。ノアはそれを隠そうとしているようだったが、それを踏まえたうえで、ルシエラは彼女との接し方を変えるつもりもない。

 わざわざこちらから、その話題に触れるつもりも、


(まぁ……ないわね)


 ノアの方から打ち明けてくるのであれば、アドバイスくらいはできるかもしれない。ただ大半の妖精憑きは、自らが妖精憑きであることを告白しても碌な目に遭わないと、経験則で知っているものだ。

 ましてやノアくらいの年齢の子供は無邪気に、コミュニティの外れ者を作りたがる。集団の中から自分たちと明らかに違う性質を持つ者が省かれ――つまりは多くの場合で妖精憑きが孤立する。

 そんな経験を経てきているものだから、妖精憑きは他者に対して簡単に心を開かない。

 彼女が年齢の割に達観しているように感じたのも、そうした背景があったからかもしれない。


「一度でも孤独を味わった者は、いつだって自らを降りの中に閉じ込めてしまう。けど」

『外からじゃ決して開くことのない扉。なぜなら鍵は檻の中にいる本人が持っているから』

「ノアは助けを求めなかったわ」

『必要としていなかった。それとも、助けてほしいという自分の願望にすら気づいていなかったのかもしれないの。案外、自分の本当に願っていることに限って気づかないものなの。お前も例外じゃないのよ、ルーシィ。ほら——あの詩。毎晩せっせと書いてるアレ。美しいには美しいけれど、あまりに夢見がちで、読むと花畑で転げ回ってる気分になるの』


 声に出してみれば、もう少し考えが整理できると思ったが、返ってきたのは中身のない言葉だけ。ルシエラはフルートの体を摘んで、ため息とともに宙へ放った。

 とりあえず、家に戻ったら日記帳は鍵付きの引き出しに仕舞うことにして。

 ルシエラは歩みを止めて、通りを眺めた。

 なにか興味を引くものが見えるわけでもない。酒は飲まず、脂っこい食事は好みじゃない。同性を抱くのも、抱かれるのもごめんだった。すれ違った次の瞬間には記憶から消える通行人の顔も、車のボンネットの上でじゃれ合う野良猫も、いつも通りのつまらない風景。

 とっくに日が落ちたにも関わらず、昼間よりも眩しく見える街。四方から差し込む硬質な光に、瞼を薄くする。視界は淡く滲み、輪郭を失った景色が棘のような色彩の線となって、網膜に焼き付く。足元には、昨夜の名残が紙片となって散らばり、雨で少し溶けて貼りついている。誰かの夢、誰かの値札。


(何の得にもならない面倒ごとが増えた。シンプルな人探しのはずだったけど、これじゃ前進どころかスタート地点にすら立ててない)


 カルラの行方がわかれば、ノアとの関わりは終わる。敢えて彼女に明言はしなかったが、カルラの生死に関わらず。

 既にカルラが死体になっていた場合、ノアの世話にかかった金は回収しそびれるが、その時は彼女の実家にでも請求書を送りつけてやればいい。当のノアが大した情報を持っていなかったせいで、多少の苦労はしそうであったが――それでもよくある人探しの依頼とそう変わりないはずだった。

 非常にシンプルで、わかりやすく、単純な仕事のはずだった。だというのに


「人探しをしてる本人が誘拐されるって、どうなってんのよ」

『いい教訓になったの。幼子を連れて出るなら、目を離すな、手を離すな、そして一瞬たりとも“自分は責任なんてない”なんて思うな、ってことよ。お前が見てないところで勝手に迷子になって、誘拐されて、結果ワタシたちの仕事が増えたの。まったく、いい迷惑よね』

「あんたは黙ってて」

 

 カルラの捜索は早くも暗礁に乗り上げて、船底に大穴まで開いた。

 果たして、その船を修理して乗り続けることに見合うだけのメリットがあるのかどうか。今現在、ルシエラの頭を悩ませているのは、その一点に尽きる。

 

(忘れるべきよ、ルシエラ・サリニャック。考えるまでもない。そんなこと)


 自明のことだった。金銭的労力、時間的労力を考えれば、わざわざ執着するほどの見返りがあるわけでもない。ただの善意で、知り合ったばかりの子供のために危険を冒すほど、ルシエラは間抜けではなかった。


(そもそもの話だけれど――)


 彼女の誘拐は偶発的な出来事だったのだろうか。

 単なる小児性愛者による衝動的な行為であれば、たまたまノアが選ばれたとも考えられるが。もしそうではなく、最初から彼女が狙われていたとすれば。

 旧帝都で生活するうえで踏んではならない地雷。悪党たちが闊歩するこの街で、世間知らずの少女がこれを踏み抜く確率は――

 確証はない。だが、それを否定できるだけの材料をルシエラは持ち合わせていなかった。


(あの怪我の原因……抜け落ちた記憶の中で、あの子は一体何をしていたっていうの)


 彼女が家族を探す以外に、何か厄介な事情を抱えていたとしたら――自分はそれに巻き込まれたということになる。

 ルシエラは、顔を覆って過去の自分を呪った。


「やっぱりあの時、燃やしとくべきだったかしら」

『火が点いたのはお前のケツだったってことね』


 ルシエラの呟きに、フルートの憐れみを含んだ声音が重なる。首を横に振るが、頭では否定しきれない。

 ノアの誘拐が計画されていたものだったとしたら、実行のタイミングを見計らうために、彼女には監視がついていたと考えるべきだった。

 いつから、どの程度の規模で。

 監視の目にルシエラがどう映ったかを想像するだけで、昼に食べたホットサンドが胃からせり上がってきそうだった。


『匿ってた、とか思われても不思議じゃないの。それに篝火ちゃんのお口がよく動く口かどうかなんて、外からじゃわからないのよね』

「あー……吐きそう」


 身を隠す算段を立てなければいけない。それもできるだけ早く。荷物をまとめて、それから先はモーテルを転々とする生活になるだろうか。あるいは、もう荷物を取りに家に戻るような猶予すらないかもしれない。とにかく――

 少しの間、大人しく息を潜めて、ほとぼりが冷めるのを待つ。そしてまた、細々と便利屋の仕事を再開する。これでいずれは元通りの日常が戻ってくる。そうして全てなかったことにして忘れてしまえば、ルシエラの損失は引っ越し代程度で済む。

 気がかりといえば家に残してくることになる妖精たちだが、しばらく放っておいても……大丈夫だろう。どうせ一般人に危害を加えられることはないのだから、折を見て回収すればいい。

 少し過剰かもしれないが、危機回避という点において、ルシエラは自分の嗅覚を全面的に信用していた。そうでなければ、いくら妖精使いとはいえ、成人もしていない小娘がこの街で生き残れようはずもない。


『あの子のことはちょっとだけ惜しいけど、ワタシにとってルーシィ以外の人間なんて二の次なの。お前が健やかでいられるのなら、他のことはどうだっていいの』

「そうね。私も、私のことが一番大事よ」


 一瞬の逡巡ののち、憂鬱に答えたルシエラは静かに歩を踏み出した。ノアが連れ去られた方とは逆の方向へ。

 ルシエラが動こうと動かまいと、ノアの運命は決まっている。幸いにもこの街では死体にだって値段がつく。ならばきっと、彼女がこの街に来たことも決して無価値というわけではない。

 姉に再会するという望みは叶わないのだろうが――

 と、ルシエラは再び足を止めた。急に立ち止まったルシエラの後頭部に、フルートがぶつかって悲鳴を上げる。

 ふと、何かに見られている気がした。確かに、視線の気配がある。

 背後で聞こえる抗議の声を無視して、視線の出処を探すように足元に目をやった。

 

「……猫?」


 いつの間に近づいてきていたのか、白い毛並みの猫が二匹、道端の段差に腰を下ろし、まっすぐにルシエラを見上げている。瞬きもせず、呼吸の気配さえ静かだった。

 猫たちはただじっと、ルシエラを見つめていた。小さな体躯はネオン看板の下で薄紫色に光り、瞳には夜そのものが映り込んでいるように透明だ。


「残念、食べるものは持ってないの」


 ルシエラは奇妙な感覚を覚えつつも、しっしと手を払う。それに()()()のは左の猫だった。口を開いたのかどうかすら曖昧なまま、低い声が空気に溶けるように響いた。

 

『篝火は、夜の底に沈みつつある』


 ルシエラの眉が跳ねた。音、というよりは頭に浮かび上がる思念という方が正しい。そんな方法で意思を伝える存在のことを、ルシエラはよく知っていた。


「……妖精?」


 はっとして、周囲を見回す。雑踏は、変わらずそこにある。人々は、ルシエラにも猫にも目を向けることなくすれ違っていく。


『そう警戒なさらずに、硝煙の街に花を編む蜜指(レイナ・ルゥナ)。我々にとって数少ない水辺である貴方に惹き寄せられはしても、水面へ爪を立てるような愚か者はそうおりますまい』


 ルシエラは、もう一度猫たちを見つめた。どちらも、やはり瞳の奥が深かった。人の言葉を理解し、人の感情を覗き込むような目。

 頭上で舌打ちが聞こえた。フルートがルシエラの髪を握りしめながら、唸り声を上げる。


『夜語り、ルーシィの指はお前たちの毛玉を撫でるためにあるんじゃないの。向こうでマタタビでも囓ってなさい』

『君こそ、彼女が背負っている宿木に引き籠もっているといい。花弁を揺らすくらいしか能のないそよ風に話すことなどないよ』

「仲いいのね、あんたら」


 フルートの羽が耳障りな音を立て、夜語りと呼ばれた猫の妖精が牙を剥いて鋭く鳴く。二組の間に挟まれたルシエラは、嘆息して路肩に腰を下ろした。


「篝火ってノアのことでしょ。賢い猫ちゃん、あんた、あの子のこと知ってるの?」


 猫の眉間を揉む。途端にだらしなく表情を緩ませた猫が、脚を伸ばして喉を鳴らす。これならば、周りから野良猫とじゃれ合っているようにしか見えないだろう。少なくとも向かい合ってしゃべり続けるよりは不審に思われないはずだ。


『む、これはなかなかの……ふっ……ん……テクニシャン』

『キモいの』

『んんっ、失礼。ええ、ええ、知っていますとも。生命の色彩も血に刻まれた記憶も、そして白縁に立ち竦んでいることも。直接言葉を交わしたわけではなくとも、我々は彼女自身よりも彼女のことを理解しています」


 彼女——声で判断するならば――の言葉に、ルシエラは眉間の皺を深くする。


「詩的なのは結構だけれど、もう少しわかりやすく言ってくれないかしら」

『血の繋がりですよ、蜜指(レイナ・ルゥナ)。篝火の少女をひと目見ただけでわかりました。いくら希薄になろうとも、血の縁はそう簡単に切れるものではありませんので。そこの羽虫と違って、我々は特定の宿木を持たぬ者。故に薄情だと思われがちですが、懸命に注がれた愛情に対しては、最大限の恩義を以て報いるのです。たとえばそれが、名も知らぬ姉妹の片割れだったとしても』


 やはり猫の告げた内容は回りくどく抽象的であったが、断片的に捉えた言葉を繋ぎ合わせて、その意味を解釈する。


「それってノアとカルラのことよね。あんた、カルラのところから来たの? 彼女は今どこに――」


  問おうとして、ルシエラは瞳を伏せた。


(いや……聞いたところで、もう意味なんてないか)


 猫の喉元を撫でる指に、心地よい振動が伝わる。

 正直、こんなことをしている時間も惜しいくらいだが、ルシエラは苛立ちよりも先に、脱力感に襲われていた。

 

『彼女も貴方と同じく、優しくも傲慢な手つきで……ああっ』

『いい加減離れるの、ケダモノ』


 身を捩る猫を軽蔑の眼差しで見つめるフルート。心なしか、もう一匹の白猫の視線にも、どこか棘があるように思えた。

 と、彼女らを無視して、その白猫が、そっと前足を一歩進めた。足元の舗装が濡れて光る。


『篝火はまだ消えていない。今もまだ燻っているけれど、燃え盛るには、この街の夜は短すぎる。我々の隣人として、手を差し伸べて』


 白猫が静かに言った。


「助けに行けって? 私がそんなに高潔な人間に見えるわけ?」


 この妖精たちの都合など、知ったことではない。ルシエラはかぶりを振って、猫の言葉を否定した。


『花は隠したつもりの想いにも触れてしまう。心をよそおえば、輪に棘がまぎれる。でも、それを一つずつ抜いてゆく姿は、痛みを伴うけれど、いちばん綺麗』

「……何を言ってるかわからないわよ」


 理解できそうにもない言葉遊びにうめく。これといって返す言葉を思いつけずに、ルシエラは頭を掻きむしった。


「今さらできることなんてないでしょ、なにも」


 自分の選択は間違っていないはず。リスクを回避するのであれば、ノアは見捨てるべきだ。

 だが、ずっと引っかかっている何かが、心の内にある。

 気付けばもう一匹の猫もルシエラの手を離れ、二匹並んでこちらを見上げる。こうしてみれば、見分けがつかない程に、二匹は同じ姿をしている。まるで、血を分けた姉妹のように。

 だが声の主がどちらかはもう、どうでもよくなっていた。ただその視線の重なりが、まるで問いかけのようにルシエラを縫いつけていた。

 フルートが苛立ったようにルシエラの肩の上で羽根をばたつかせる。


『詩を口にすれば気高く見えると思ってる連中、ほんと浅ましいったら。回りくどいのよ。ルーシィに何の義務があるっていうの?』

『義務じゃない。これは選択。あの夜、あの場所で、物語を終わらせることもできたのに、貴方は何故あの子を助けたの? 見返りを期待した? 未来に咲く棘を先に踏みにじりたかった? それとも、満たせぬ空隙が貴方を動かした?』


「なんで、そんなこと」


 ――あんたたちに答えなきゃいけないのよ。

 喉元で、言葉がひとつ溶けて消える。

 息を吐く。猫は何も言わない。ただ、待っていた。ルシエラの答えを。


「……これだから妖精って嫌いよ」


 無責任に無遠慮に、そして自由に、現れては消える。まるで無垢な子供のような性質に、いつでもルシエラは振り回されている。

 それが妖精使いとしての運命であるというのであれば。


(そんなもの、くそ食らえ)


 損得なし、無条件で他人のために動く人間を、ルシエラは決して信用しない。できれば近寄りたくない異常者である、とすら考えている。

 だが、そんな人間になれと、この妖精たちは要求してきている。


「……私がノアから目を離したから……違う。そもそも、あの時あの子が出て行こうとするのを引き留めたから、こんな厄介を抱える羽目になった」

『ルーシィ、お前』

「だから、まぁ……本当に、ちょっとくらいは私にも責任がある……かも」


 肩越しにフルートをちらりと見る。小さくため息をついたその妖精は、もう何も言わなかった。

 胸の奥につかえていた何かの正体に気づいて、しかしそれをタダで認めるのも、猫の妖精の思惑通りになりそうで癪ではあった。だから、これはせめてもの反抗として。

 ルシエラは踵を返した――それ以上踏み込ませまいとするように、足音を鳴らす。

 

「報酬は弾んでもらうからね」


 猫が笑った。


***



「捜索願をちょうだい」


 ルシエラの要望に、警官は緩慢な動作で、分厚いファイルが詰まった棚を指して答えた。


「その中にあるんじゃねぇかな」

「私が探すの?」


 夜の街の喧騒に負けず劣らず、警察署は混沌としていた。忙しなくロビーを行き来する警官たちと、自分の順番が回ってこないことに腹を立てた女のヒステリックな声。留置所に続くエレベーターの前では、呂律の回っていない大男を数人がかりで取り押さえている真っ最中だった。

 籠った熱気に、足を踏みいれただけで汗が滲む。

 そんな中で新たに現れた小娘が歓迎されるはずもなく、当然のようにルシエラの存在は無視された。

 唯一ルシエラの方へ顔を向けたのは、つい先日彼女の取り調べを行った、あのいけ好かない副署長の男だけ。仕方なく声を掛けると、彼はあからさまに嫌そうな表情で返してきた。


「見てわからんか。俺は忙しいんだ。手が欲しけりゃ事務のヤツにでも頼んでくれ」

「その事務係はどこにいるのよ」

「さぁな……そういや、最近姿を見てねぇ。ちょっと前に新帝都から派遣されてきたヤツも、給料に見合ってないってボヤいてたし、全員でボイコットでもキメてんだろうよ」


 どこか遠くを見ながら彼は呟く。一日か二日しか経っていないというのに、ずいぶんと隈が濃ゆくなったように見える。


「いくらなんでも杜撰過ぎやしないかしら。よくそれで仕事が回ってるわね」

「 だから面倒事を持ってくるなって言ってる。署長(ハインリッヒ)の野郎がゴルフ休暇でいなくなった時に限ってこれだ。あいつが新帝都の土を耕してる間に、ここで積み上がったクソの処理は全部俺がしないといけねぇんだよ」

「警察よりも農夫の方が向いてるんじゃない」

「全くだぜ、クソが」


 彼のデスクには書類の山が積み上がっていた。煙草を咥えたまま、それを切り拓く副署長の口からため息の混じりの煙が噴き出す。ルシエラはしかめ面でそれを見守っていたが、一向に終わりそうにない作業に、彼の手を借りることを諦めることにした。

 棚から適当なファイルを手に取り、めくる。


「それじゃない。一番上の、左から四つめだ。コピーして使え」

「だったら初めからそう言いなさいよ」


 つま先立ちになって腕を伸ばす。


「倉庫に脚立があるぜ。有料だがな」

「必要ない」


 にやりとした副署長を一瞥して、ルシエラは鼻を鳴らした。


「フルート」

『はいはい、なの』


 床に杖をつく。柔らかな風が起こり、ルシエラの体が浮かび上がった。彼が教えてくれた通りのファイルから捜索願を取り出して着地する。

 役目を終えたフルートは、副署長の顔の前で両手の中指を立てる。彼から見えていない以上、その行為には何の意味もないのだが。


「便利なもんだ」


 目論見が外れたと、大して残念がっていない口調で副署長は肩をすくめてみせた。


「もっと驚くと思った」

「田舎で時計屋をやってるじいさんが妖精憑きでね。手が不自由だからって細かい作業は妖精にやらせてた。その代わり、毎回眼鏡が指紋でベタベタにされるって、五分に一回はレンズを拭いてたぜ」

『粋な悪戯なの』

「今度うちの時計も診てもらえるかしら。何回買いなおしても止まっちゃうから」


 苦笑して、ルシエラは書き上げた捜索願をデスクに置いた。彼は表情を一変させて悲鳴を上げる。


「コピーしろって言ったよな! 原本一枚しかねぇんだぞ」

「事務係に作らせれば」


 ルシエラの涼しい態度に、彼は諦めたように大きなため息をついた。ぶつぶつと悪態をつきながらも、彼は捜索願に目をやる。

 その表情が一変する。真顔になったあと、段々と表情が険しくなっていく。目頭を押さえて、首を振り、デスクの受話器に手を伸ばしかけて、やめる。

 忙しい男だ、とルシエラが観察を続けていると、彼は突然捜索願をクシャクシャに丸めて投げ捨てた。


「ちょっと!」

「何かと思えばガキが一人いなくなっただけかよ。言ったよな、つまらねぇことで俺の手を煩わせるなと」

「単なる行方不明じゃないわ。目の前で攫われたのを見た。明らかに事件性がある」


 予想していなかった物言いに、ルシエラは副署長に詰め寄った。いくら旧帝都の警察が不誠実だったとしても、正式な手順を踏んで提出された書類をなかったことにして良い道理はない。

 しかし彼は泰然とした態度でルシエラを制すると、


「この街じゃいつの間にかガキが増えて、気づかない内に消える。妖精みたいなもんさ。いちいち構ってられるかよ」


 床に転がった紙屑をちらりと見て続ける。


 「しかもなんだ? 名前と、髪の色が赤いってことしかわからねぇ。別に大して仲が良かったわけでもねぇんだろう。もう諦めな。どっちにしたって死体になってるか、生きてても薬漬けになってショーケースに並んでる頃だ」


 ルシエラは不快感を隠さなかった。デスクに拳を叩きつけても、彼の胸ぐらに掴みかかったとしても、きっと許されただろうから。ただ、騒ぎを起こしに来たのではない。ここを訪れたのは現実的な手段と、ある種の保険のためだった。

 一歩身を引いて、警官を睨みつける。


「珍しくまともな警官だと思ってたけど、私の目が腐ってたってことね。もういい」


 たっぷりと落胆を込めた声音で呟いて、彼に背を向けた。一呼吸分の間があって、椅子の擦れる音が鳴る。肩越しに振り返ると、副署長が剣呑な目つきで腰を浮かせていた。


「おい、ちょっと待て。どうするつもりだ」

「自分で探す。警察なんて元から当てにしてなかったし」

「 待て、待て待て、余計なことをすんじゃねぇ!」


 先ほどまでとは違う、余裕の剥がれ落ちた彼の姿に、ルシエラは内心で拳を握りしめた。にやつきそうになる口元を隠して、目つきだけは鋭く保つ。


「余計なこと? 誘拐された子供を探すのがそんなに悪いこと?」

「そうじゃなくてだな……お前さんみたいなのが、わざわざ首を突っ込むまでもないってことだ。いらんことして事を大きくするんじゃねぇ……」


 言ってから、彼は自らの失言を悟るように口を噤んだ。ルシエラは軽く鼻で笑って、彼に向き直った。腕を組み、足を開いて、眼を細める。

 

「ふぅん、つつかれると困るのね。やっぱりただの誘拐じゃなかったってわけ」


 沈黙。副所長は首に汗を滲ませ、視線を彷徨わせている。ルシエラはフルートの羽音を聞きながら、彼の狼狽ぶりをただ眺めた。

 ややあって、副署長は勢いよく椅子に座り、溜まっていた息を吐き出した。


「……蜂の巣どころじゃねぇ、狼の群れのど真ん中だ。お前も旧帝都で便利屋なんてやってんなら、荒らすべきじゃない狩場くらい弁えてるだろ」

「良いわ、その調子よ。法の看板掲げて裏じゃ取引三昧の連中が、腰を引くくらいだもの。相手はラグズ家? オムニア商事? ヴェルデ・ロッソの線もあるかしら。そういえば、彼らの商売……ここ最近の火事のせいで立ち行かなくなってるんですって?」


 旧帝都に根を張る組織がいくつあろうとも、警察に対して圧力をかけられる程の影響力を持つとなれば、絞り込むことは容易い。


「……俺はもう喋らんぞ。何もだ。そしてお前とも会ってない」


 もう十分だった。これ以上詰めても、彼は口を割らないだろう。それに、しつこく食い下がった挙げ句、彼の機嫌を損ねて、留置所に放り込まれるのもごめんだ。

 最後に「助かったわ。今度はコピーもお願いね」と、皮肉を残して警察署をあとにする。

 

『あのケーサツ、チョロいの』

「そうね。ところでフルート」

『なぁに?』

 

 ルシエラは冷たい風を浴びながら、どうでもいいことを口にした。


「妖精って指紋あるの?」

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