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案内された部屋に足を踏み入れた瞬間、まず鼻に覆いかぶさってくるような埃と黴の匂いに顔をしかめることになった。
「昼間は聞こえないが、夜になると家中に不気味な音が響いて、妻が怖がってる。なんて表現すればいいか……うめき声のような、ほら貝とか汽笛とか、そんな感じの音だ」
「それで、その騒音が妖精の仕業だと疑いになられたと。失礼ですけど、家鳴りで悩んでいるならまずは建築業者に相談をするべきでは?」
ドナトと名乗った依頼人の男と、その彼の腕を掴んで不安そうな表情を浮かべた女に向かって、ルシエラは淡々とした口調で告げた。彼女の言葉に他意はなく、心の底からそう思ったからこそ口をついた言葉だった。
「勿論したさ。だが建物自体が古いうえに、図面も当時の物が残っていないらしくて、調べるにしてもかなり大掛かりになるみたいなんだ。それで起きてる現象を伝えたら、もしかしたら……妖精が悪さをしている可能性もあるからって、そういうものへの対処が得意な人がいると君のことを紹介された。でも正直言ってその……まさか君たちみたいな子供が来るなんて……——いや、これは余計なことだな。すまない、忘れてくれ」
「構いませんよ。私がお二人の立場なら同じ感想を抱くでしょうから。ええ、本当にお気になさらず」
旧帝都に移住してきて間もないという彼ら夫婦の住む家は、旧帝都にしては比較的平和な空気の――銃声も怒号も聞こえてきそうにない、住宅街の一角にあった。ここが以前、帝国の首都として機能していた時代に、景観を損なうことのないようにと白や灰色で統一された家屋は、当時こそ美しい街並みとして映えていたのかもしれないが、今となっては見る者に冷たく無機質な印象を抱かせる。ただ、ぎらついた蛍光看板も道端の吐瀉物も、そして壁の落書きすら見当たらないというだけで、無味無色のコンクリート壁がモノトーンの上品さを醸し出すように見えるのだから、自分の美的感覚も旧帝都のイメージにかなり毒されているのかもしれない。
自嘲の意を込めた苦笑を漏らしながら、ルシエラは右から左の脚へと重心を移した。所々木材が膨れて継ぎ目の外れた床が軋みを上げる。その音に反応してドナト夫人が小さく肩を震わせた。
(随分とまぁ――)
繊細そうな――もっと言えば神経質そうな女だった。目の前で少し派手な魔法でも使って見せてやれば白目を剥いて倒れるかもしれない。そんなことをして、わざわざ依頼人の機嫌を損ねる必要もないが。
代わりに小さく鼻を鳴らして、部屋の中央へと進む。険しい表情でこちらを見つめる夫婦と、こちらのやり取りなどお構いなしに物珍しげな視線を彷徨わせるノアの横を通り過ぎて、天井から吊るされた小さなライトを点灯させた。
「で、ここが音の発生源だと」
「そう疑ってはいるけど、確証はない。けど、この部屋から鳴ってる音が一番大きいんだ。ここだけ造りが違うから、後から増築された部分なんじゃないかな。中に置いてある物も、前の住民が残していったんだと思う。気味が悪くて……あまり片付ける気にもならないけど」
物置だろうか。埃の被った古い家具や工具が雑多に置かれている。窓が小さく日当たりが悪いせいで、室内はどこかじめっとした空気に満ちていた。そう広くはないが物陰となる場所が多く、たしかに妖精に限らず、よからぬ何かが潜んでいてもおかしくない雰囲気だ。
「ルシエラさん、でしたっけ。それで、どう? あなたの目から見て、妖精がいると思う?」
「さぁ……それはもう少し見てみないと何とも。でも今のところ、気配はありませんね」
部屋の入口から動こうとしない夫人に、背中を向けたまま答える。それよりもルシエラは、歩くたびに舞い上がる埃に気を取られていた。
ノアがくしゃみをして、夫人が短く悲鳴を漏らす。正体不明の異音が毎晩続くとあれば、少々過敏になるのも理解できるが、一挙手一投足にまでいちいち反応されてはやりづらい。音の原因を取り除くよりも先に、掃除と換気をして衛生的な環境を作ることを優先した方が良さそうだが。
そう考えを巡らせながら鼻をすすり、現在進行形で体の内側へと侵入し続ける埃を吐き出すべく咳払いをする。
「いっそのこと、この部屋は取り壊して外壁にしてしまった方が、庭も広くなってガーデニングが捗りそうですけど、なんて。奥様はここで自分たち以外に誰かがいるような気配を感じたことはあります?」
「……わからないわ。夫の言う通りここは不気味で、あまり近づかなかったから」
「そうですか」
素っ気なく返しながら、杖の先で壁や床を叩いて回ると、重たく湿っぽい音が鳴る場所と、奥に空洞があるような軽い音が響く場所があった。前者は黴に侵食された床材で、後者は壁の向こうにパイプでも通っているのだろう。そうやってしばらく部屋の中を観察しながら歩き回っていると、手元に小さな振動が伝わってきた。
『ちょっと、せっかく人が気持ちよく寝ていたのに乱暴にしないでほしいの!』
杖——正確には先端に装飾された深緑の宝石から響くフルートの抗議の声。
どうせルシエラにしか聞こえていない声だ。無視で問題ない。
ルシエラはあくまで聞こえない振りに徹しながら、心の中でほくそ笑む。日頃の我儘に対する鬱憤を晴らすように、家財に傷をつけない程度の力で杖を振り回す。そのまま部屋の検分を続けようとすると、
『ちょっと、ホントにウザいって――!』
「ねぇ……い、今のって」
フルートの怒声に被せて、恐る恐るといった声音で夫人が呟いた。それを聞いて、ルシエラははたと手を止めた。振り返る。
「……もしかして、聞こえたんですか?」
彼女の表情を見れば尋ねずとも明らかだろう。それでもルシエラは、驚きに目を見開いた。
青ざめた彼女の目線は真っ直ぐにルシエラの持つ杖に注がれている。まさにこの妖精の宿木である杖――正確には深緑の宝石からフルートは叫んでいた。
小刻みに首を縦に振る夫人の隣で、ドナトが怪訝そうに彼女を見ている。
ルシエラは自らの軽率さを悟り、しかし夫人が思っていたよりも落ち着いていることに安堵して、努めて軽い調子で肩をすくめた。
「安心してください。今のは私が飼ってる妖精の鳴き声ですから。もしかして奥様、妖精の声を聞くのは初めてですか?」
「え、ええ。まぁ……」
「不思議な感覚でしょう。耳というよりは頭で聞いているような」
「待ってくれ。何の話をしてるんだ」
「ああ、いえ。どうやら奥様には妖精と意思を交わす才能があるようですよ。おめでとうございます」
あなたも妖精憑きの仲間入りですね、などと言われたら、繊細な彼女は今度こそショックで寝込んでしまうかもしれない。なるべく柔らかく伝わるよう、言葉は選んだ。だが、
「私が……妖精憑き…………」
「……妖精使いとしての素質はおおよそ三段階です。気配を感じる、声が聞こえる、姿が見える。奥様は丁度中間ですから、妖精使いとしても中くらいにはなれそうですよ」
『お前、それでフォローしているつもりなの?』
呆然とする夫人に苦笑を向ける。祝うよりもむしろ、ご愁傷様とでも言うべきだっただろうか。
いくら帝国が妖精使いという公的な資格を与えたところで、人々に植え付けられた認識がそう簡単に変わることはない。自然と隣り合わせで生き、そして死を迎えていた大昔とは違って、現代の人々は医学や科学とともにある。ルシエラにとっては慣れたものだが、他人とは違う異常者というレッテルが貼られることへの忌避は、そう簡単に受け入れられるものではない。
先ほどまでとは違う種類の気まずさを含んだ空気を切り替えるべく、ルシエラは再び咳払いで誤魔化した。
「あー……、とりあえず今のでわかったことがあります。お二人を悩ませている騒音は、妖精の悪戯なんかじゃないってことです。もしくは、仮に居たとしても人間に影響を及ぼせるほどの力は持っていない無形妖精でしょう」
「なぜそう言い切れる?」
「簡単な話ですよ。妖精の声が聞き取れるだけの素質を持つ奥様が、ここで何の気配も感じ取れないのなら、今起きてるのは単なる物理現象と考える方が自然です。見てください」
腐食した床を指して続ける。
「ここ、タイルが腐っているでしょう。おそらく雨漏りか、水道管から水漏れでもしているんだと思いますが。基本的に妖精は腐敗したものが好きではないので、こういう場所には寄り付きません。で、肝心の音の原因ですが……ノア、ちょっといいかしら――……ノア?」
ルシエラは肩越しにノアへと呼びかける。が、返事がない。不審に思い振り返ると、彼女は緊張した面持ちで一点を見つめたまま固まっている。その視線を追うと、先ほど夫人が見つめていたのと同じく、ルシエラの持つ杖へと辿り着いた。
ある種の予感を覚えながら腕を動かすと、彼女の眼球はその動きに同期しているように杖を追った。
ルシエラは溜息をつきかけて、辛うじてそれを堪えた。思い出したのはフルートの言葉だ。
赤毛には魔法の才能がある。察するに、ノアにもフルートの声が聞こえていたのだろう。今までそんな素振りはひとつも見せなかったが。本当にそうであったとしたら、ここには今や希少となった妖精憑きが三人も揃っていることになる。
それが幸か不幸かは、とりあえず置いておくことにして。
ルシエラが杖をノアの方へ向けると、先端の宝石から小さな風が巻き起こり、彼女のスカートを捲り上げた。
「うわわっ」
正気に戻ったノアが慌ててスカートの裾を掴んでおろす。しかし風は厚い布地を膨らませ続けて、スカートと一緒に巻き上がった埃が、彼女の顔面へと吸い込まれていった。
「私を無視するなんていい度胸してるじゃない」
『ルーシィ、あんまりくだらないことに魔法を使わないでほしいの』
「ちょっ、な、なんですかっこれ! げほっ!」
「ぼーっとしてるあなたが悪い。今日はおやつ抜きよ」
そう言い放って、ルシエラは杖をおろした。
依頼人の二人が異様なものを見る目で、ルシエラとノアのやり取りを眺めている。夫人など今にも気を失いそうなほど、蒼白になっていた。
「ノア、暖房をつけてきてちょうだい。ミスタードナト、ボイラー室は地下に?」
「あ、ああ。案内しようか」
「いえ、それには及びません。こんな得体の知れない妖精憑きと奥様を二人きりにしない方があなたも安心でしょう。その分、うちの助手がしっかり働いてくれますから。ほら、さっさと行きなさい」
くしゃみと咳を繰り返して、髪と顔をぐしゃぐしゃにしたノアが部屋を出ていく。
それから数分ほどして、何とも言えない静かさに包まれていた部屋が少しずつ暖かくなってきた。部屋に戻ってきたノアから無言で向けられる恨みがましい目線を無視して、ルシエラは笑顔で、ぽんと手を叩いた。
「予想が正しければ、そろそろでしょう」
訝しむ夫婦に向けてそう言った直後、地の底から湧き上がるうめき声のような音が家全体に響き渡った。その中に混じる、金属同士が擦れ合い、軋むような音の不快さ。
「ひっ」
「意図的に起こしたのか? 一体どうやって」
困惑する二人と、耳を塞ぐノアに向き直り、再び杖の先端で傷んだ床材を突く。フルートから再び抗議の念が送られてくるが、彼女もルシエラの言葉を邪魔しないよう、口を挟まずにいてくれているようだった。
「湿気で膨張した板が、隙間風で擦れ合うとこんな音が出ます。多分、壁や床の下に通ってるパイプが水漏れでも起こしているんでしょう。そのパイプを伝って、音が家中に響いているようです」
「それじゃあ、妖精は……」
「いないでしょうね。音の原因は単なる暖房設備の劣化です。これからの時期は日中でも冷えるようになるから、早めに直したほうがいいですよ」
そこまで聞いたドナト夫妻は顔を見合わせ、ようやくほっとしたように肩の力を抜いた。
***
――酷い目にあった。
少し前を歩く雇い主の、癖のある金髪が風に流れる様を半目で見つめながら、ノアは胸の内で溜息をついた。髪や服についた埃は、ルシエラが起こした風で払ってもらったが、まだ鼻の奥にむずむずとした違和感が残っている。
早急にシャワーで体を洗い流してしまいたい不快感と、ルシエラへの怨嗟の念が交錯する。見事に依頼を解決した彼女の観察眼に対する感心もあったが、それよりもやはり不満が漏れそうになる。しかしそれを実際に言葉にする勇気はなく、ただ口を尖らせてルシエラの後に続く。
ドナト夫妻の住居を後にしてから、二人の間に会話はなかった。ルシエラは何か考えに耽っているのか、無言のまま歩き続けている。時折、こちらを探るような気配があったが、実際に彼女の顔が後ろを向くことはなかった。
ノアはただ、まもなく主張を強めるであろうネオンの眩しさを思い出しながら、黄昏時の雑踏に身を任せていた。
煙草の煙たさと焦げた油が皮膚に張り付く感覚。立ち並ぶ酒場や屋台の店先にたむろする男たちの腰には銃がぶら下がり、愛想の良い笑顔を浮かべた客引きが彼らに声をかける様子を横目に眺める。下着同然の衣服に身を包んだ女とすれ違った瞬間には、強烈な香水の臭いに鼻がもげそうになった。
最初に旧帝都に足を踏み入れたときの心細さはよく覚えている。この中にカルラがいるかもだなんて、とても想像がつかなかった。
もし悪い大人に騙されていたら。もし病気でもしていたら。もし――ノアの知らない場所で幸せそうな顔をしていたら。
(三年……ずっと我慢してた)
離れ離れになってからの期間など意識したところで、無意味に歳を重ねただけの時間に過ぎない。着られなくなった服が増えて、その分だけ言葉の数が減った、その程度しか変化のなかった期間だ。
改めて振り返る必要もない三年間。カルラを探すために新帝都中を一人で駆け回って――結局何の手掛かりも得られなかった。父と父の妻は何か知っていたようだが、それを問いただしても、素直に教えてくれるほどの関係が築けているはずもなく。しかも、カルラの話題になると、途端に厳しい口調になったことを考えれば、ノアには聞かせたくない事情があったようにも思えてくる。
ともかく、結局は自分の足や伝手を使って情報を集める必要があったわけだが、表に看板を出しているような探偵に依頼するためには保護者のサインが必要であり、紹介制の情報屋に繋がる知り合いもいない。
手掛かりが一向に見つからない焦燥と、次にいつ起こるか読めない記憶障害のストレスと。いよいよ父にナイフを向けてでも口を割らせようかと考え始めたのが、今からちょうど一ヵ月前の話。
――カルラが旧帝都にいる。
邸宅を訪れた父の客人——帝国軍人らしい――がこっそりと教えてくれた情報に、久しく声を発していなかった唇が小さく痙攣を起こした。
興奮のあまり彼の名前も聞けず仕舞いだったが、帝国議会の重鎮たる父に招かれる客にしては随分と若い、優男であったことは覚えている。彼がどこでノアの望みを知り、なぜそれを伝えてくれたのか定かではないが、そんなことは些細なことだった。疑問よりも毎日のように夢想した、カルラに繋がる道筋にようやく進めることへの歓喜が勝った。
そして、新帝都と旧帝都を隔てる門は、その名も知らぬ彼の手配した車と偽の身分証であっさりと通り抜けることができた。
それから一ヵ月が経って。
……ノアはまだ、カルラと再会できずにいる。
優男の言葉通り、彼女の痕跡は確かにある。だが、彼女の香りを辿るには、旧帝都の匂いはあまりにも強い。欺瞞や狡猾さを吸い込んでいるような感覚だけが密度を増し、息を止めたくなる。
(……どこも一緒か)
どこにいたって息苦しい。
かぶりを振って、気持ちを切り替える。過去や現在の苦痛に思考を割くよりも、先を見据えて、自分がするべきことを考えた方が、多少気持ちは楽になる。
ノアにとっての未来とは、すなわちカルラとの再会を果たした後のことに他ならない。
カルラと再会できたとして、それでどうするのか。これまでは、彼女を探す手段にばかり集中していて、その後のことを深くは考えたことがない。が、そのときになったら、自分は一体彼女になんと声をかけるのだろう。家に戻るよう説得でもするだろうか。
(いや……)
カルラはきっと理由があって家を離れた。ならば彼女の意思は尊重するべきだ。
彼女と一緒ならば旧帝都で暮らすのも悪くないだろう。少なくともノアからすれば、新帝都もここも、そう変わりはない。危険を伴うことがあるとはいえ、自分のことを誰も知らず、誰かの目線を気にすることなく過ごせるのであれば、こちらのほうがマシかもしれない程度の違いしかなかった。それくらいには、この街にも慣れたということでもある。
新帝都とは毛色の違う光に溢れる市街が以前より明るく見えるのは、少しずつでも前進できているからだろうか。ともかく、昨日はよく眠れたし、帝都にいた頃よりも「生きている」実感がある。次にまた、いつ記憶が飛ぶかもわからないが、それでも不思議と不安はなかった。
(なんか変な感じ。自分の体なのに他人のことみたい)
なんとなしに額のガーゼに触れる。引き攣るような痛みは常にあった。自分の意識が、まだノアという器の中に存在しているということを証明するように、疼く。
痕が残るかもしれない――
手当てをしてくれたルシエラは、少し悲しそうにしていたような気がする。あれがどういった思いから生まれた表情だったのかはわからないが。ただ、心配してくれたのだろうとは思う。
少なくとも、ノア本人よりもずっと。カルラとは似ても似つかない性格だったが、なんとなく、記憶の中の彼女とルシエラは重なって見えた。
(変な人)
どんな人生を歩めば、雑然とした街でひとり、便利屋とかいう怪しげな商売を営むことになるのか。
少しだけ興味はあるが、積極的に知ろうとも思わない。それに尋ねてみたところで、ルシエラが答えてくれるとも思わなかった。どうせ、そう長い付き合いにはならない。ならば彼女の過去を知って、それが何の役に立つというだろう。
それはノア自身のことも同じ。こちらの身の上話に、ルシエラが興味を持つとも思えない。カルラのことも、記憶のことも。妖精の話なら、気味悪がることなく相談に乗ってくれるかもしれないが、中途半端に声が聞き取れるだけの小娘など、見下されるだけで終わりかもしれない。
(でもまぁ、運は良かったかも)
少なくとも極悪人ではなさそうだ。それに大人の男や香水のきつい女じゃなくて良かった。
たった一日程度の付き合いでも、彼女がお人好しだということはわかる。少なくとも今こうして、慣れない人混みに上手く足を運べないノアのことを、少し先で待っていてくれる程度には。
どうやら考え事をしている間に距離が開いていたらしい。当たり前のことだが、ルシエラは旧帝都の歩き方をよく知っているようだ。
彼女はこれといった感情を顔に浮かべるでもなく、通りの真ん中で立ち止まってノアを待っていた。ただそれも長くは続かないだろう。きっと今にもぶつぶつと小言を言い始めるに違いない。この雇い主は意外と気が短い。
どうにか人混みを掻き分け、ノアは駆け出そうとし――
「……え?」
突如、両膝から力が抜けた。一瞬遅れて、うなじに焼けるような痛みが走る。視界が明滅し、世界が反転した。浮遊感に目がくらみ、倒れそうになった身体を、誰かに担ぎ上げられる感触。だがそれは、ルシエラの滑らかな手とは違う、筋肉質で冷徹な蛇のような腕が、ノアの体を無造作に引き寄せていた。
「――!」
声は出なかった。
それでもノアは大きく口を開いた。空気だけが吐き出され、体は呼吸を続けようと喘ぐ。
助けを求める余裕はなかった。
何が起こったのかを理解しようとする間もなく、意識が波打ち、深い底へと落ちていく。白から黒へと、無音の幕が降りるように、思考が闇に飲み込まれていった。
(あんな顔をするんだ……)
ぼんやりとした視界に、最後に浮かんだのは、悲痛な表情を浮かべたルシエラが、必死にこちらに駆け寄ろうとする姿だった。あまりにも遠い。手を伸ばすことすらできないその距離が、ノアの脳裏に焼き付いて――意識が完全に沈黙の中に落ちる前、冷たい空気と鉄のような血の味が口の中に広がった。