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 遥か稜線の向こうにそびえる山岳から降りてきた風は、枯草とアングレカムの香りをかき混ぜながら庭園の中を吹き抜けた。

 髪が揺れて、唇が渇く。一拍遅れてやってきた木々のさざめきに包まれて、どこか不安に駆られたまま腕を抱く。思っていたよりも冷たい皮膚の温度に、力んだ指先が食い込む。

 身を凍えさせるノアの視界に映ったのは、良くも悪くも見慣れた景色だった。

 秩序立ったしぶきを上げ続ける噴水と、それを四方から囲む花壇。カルーナ、クリサンセマム、ダリヤにシクラメン。そしてアングレカム。草花が整然と並ぶ様は上品な刺繍のようで、ノアの母親が大事にしていたハンカチを思い出させた。

 宏壮(こうそう)な庭園の奥に目をやれば、大きな邸宅の屋根がのぞく。帝国建築史に名を刻まれるほどの建築家によって設計された邸宅を、誰もが口々に褒めちぎったが、ノアからすれば何もかもが古臭くて、不便な住居でしかなかった。

 離れて暮らしていた実の父親と継母、それから腹違いの兄弟。

 ノアとノアの新しい家族が住む家。無駄に広いお陰で、彼らとあまり顔を合わせずに済んだのは唯一救いと呼べる点だっただろうか。

 良いところといえば、それだけ。それがなければもっと前にここを飛び出していたに違いない。こんな家は。


「カルラ……どこに行っちゃったんだろ」


 呟きは通りすがる風にさらわれて、庭園の端へと流れた。なんとなしにあげた声は思いのほか遠くまで響いて、はっと辺りを見回す。

 誰もいない。人だけでなく、鳥や虫でさえも。それが幸運だったかどうかはともかく、強張っていた腕の力を少しだけ緩めて息をついた。

 母が死に、そして行く宛てのなくなったノアが引き取られた邸宅は広くもあり、窮屈でもあった。

 家族の中で唯一、自分に優しく接してくれたカルラは、十六になったその日に行き先も告げず家を出て、それからノアの肩身はますます狭くなった。こちらから家族の誰かに話しかけることは殆どなかったが――受け答えの度に、いちいちしかめ面を取り繕うくらいなら、いっそ無視してくれればよかったのにと思う。

 不義の子と囁かれ、溶け込むどころか馴染むこともできない、ただ異物。それがこの家での自分だった。カルラがいなくなってから流れた三年の月日は、ノアの人生の中で最も長く、空虚な時間だったといえるだろう。


「カルラ……」


 いなくなった姉の名前を、もう一度呼ぶ。いくら呼びかけたところで都合良く彼女が現れることはないとわかっていつつも、囁かずにはいられなかった。

  風はやはり無情に吹き続けて瞳を乾かす。涙はでない。泣きたいとも思わなかったが、好きなときに好きなだけ泣くことができれば、もっと色んなことが上手くいったのかもしれない。ただ、そんな未来をどうしても想像することはできず、そしてそこまで器用に生きられる自信もなかった。そうまでして自分の居場所を得ることに、どうしても価値を見出せなかった、というのもあるが。

 ノアはただ、カルラのそばにいられたら、それで良かった。


***


 まず誰かの声が聞こえた気がした。

 鼻孔を抜ける涼しげな香りは、記憶の中で風と共に去って。

 夢と現実との境界線にある意識はゆるやかな速度で、薄い瞼を透過する光に塗りつぶされていった。嗅覚から視覚へ。目を開けて、モザイクがかった視界が明瞭さを取り戻すまでの間に、乾燥した唇を唾液で湿らせた。

 やがてはっきりしてくる、コンクリート躯体が剥き出しになった天井。やたらと手触りの良い毛布と、身体の傾きに合わせて適度に沈むマットレス。最近寝泊まりしているモーテルと明らかに違うベッドの感触は、覚醒したばかりの意識に軽いパニックを起こさせた。

 飛び起きると同時、頭頂部からつま先まで一直線に走った鋭い痛みに、ノアはまず自らの失態を悟った。喉元まで出かかった悲鳴を我慢できた自分を内心で褒めながら、反射的に瞑った瞼を開く。

 眠りから覚めてしまえば夢も終わる。目の前に広がっているのは、花々で埋め尽くされた庭園でもなければ、俯いて過ごした邸宅の一室でもなく、


(どこだろ……ここ)


 見覚えのない部屋だった。

 薄明りが差し込む窓。真正面の壁にかかった時計は、針を動かすことを止め沈黙している。正確な時刻はわからないものの、肌を撫でる澄んだ冷気で、今が朝であることがわかった。

 ベッドのすぐそばの小さなテーブルには、水差しとグラスが置いてある。コースターの上に伏せられたグラスには指紋すらついておらず、清潔だ。出入口のドアは閉じられ、そこから壁伝いに視線を巡らせると、一人分の衣服が収納できる程度のクローゼットがあった。

 部屋の主はあまり物を持たない主義なのか、それともただ寝ることだけを目的としているのか。とにかく、どちらにしても殺風景な部屋だった。


(また、これだ…………。わたし、なにしてたんだっけ)


 身体の芯に居座る痛みと、胸に残った空虚な感覚。

 視線を落とすと左腕に巻かれた包帯が目に留まった。嘆息して、頭を抱えるよう額に手をやれば、柔らかい感触に触れる。どうやら額にもガーゼを当ててあるらしかった。怪我を負ったのだろうが――記憶を遡ってみても、こうして手当てをされて寝かされるまでの経緯が思い出せない。

 これまでにも記憶が途切れることは度々あった。そして、徐々にその間隔が短くなってきている。家出してからのここ一ヵ月で、それが顕著になっていることにも気づいていた。目覚めたら知らない場所にいるなんて話は、酔っ払いの中では笑い話にでもなるのだろうが、まだ一滴も酒を飲んだこともないノアの身に、それが起こるというのであれば話は変わってくる。

 脳には異常がない。心の問題である。医者は口を揃えてそう言った。

 不安や恐怖がないと言えば嘘になる。しかし抗おうとしたところで解決するものでもなく、初めからこの現象を算段に入れて生活をしていこうと考えるようにはしていた。それが受容なのか諦めなのかは、ノア自身にも分かっていなかったが、起きてしまったことは仕方がないと割り切れる程度に気持ちは落ち着いている。

 周りの同年代と比べて達観していると、自分でもそう思う。まだ四半世紀すら生きていなくとも、そうならざるを得ない事情がある。自分に手を差し伸べてくれる人などいない。いたとしても、それはいつでも最初の内だけだった。

 ノアはしばらくの間、ベッドの上でじっと息を殺しながら次に何をするべきか考えていた。


(このパターンは初めて、かな)


 どこかの親切な人に拾われて治療を受けたということになるのだろう。

 単純に考えれば、であるが。

 裏を読むとすれば、見返りに法外な金銭を要求されるか、もしくはノア自体を売り物にするために治療を施されたといったところだろうか。

 途切れ途切れの記憶の中にある風景は、ただでさえも悪名高い旧帝都の街並みだ。まだ旧帝都に来てから日は浅いはずだが、善意と犬の糞が同列に扱われるような街だということは嫌と言うほど思い知っている。

 それゆえの警戒。

 ノアが自分自身になんの期待も抱いていないのと同じように、他者の善意など最初からあてにしていなかった。

 自分の名前はわかる。誰にも何も告げないで家を抜け出したことも、その目的も思い出せる。だが――


(……まぁ、縛られてないだけマシだよね。多分)


 下唇を噛む。この部屋の持ち主が悪人であれば当然、本当に善人であったとしても、この街の人間に借りを作るのは気が引けた。とにかく、ここの住人と必要以上の関わりを持ったりだとか、面倒なことになったりする前に出ていきたい。それが実現できるかどうかは別として。

 強張った身体に血液を循環させるように、指を繰り返し握っては開いて、もう一度部屋の中を見渡す。

 たった一つだけの窓は辛うじて通り抜けられそうなサイズではあるが、その向こうでは、地上から眺めるよりも雲が近くに見える。高さもわからないまま飛び降りる、という選択肢は現実的はでないだろう。

 武器になりそうな物もない。一応は水差しとグラスがあるとはいえ、殺傷能力があるかと言われればそれも疑わしい。精々、部屋に入ってきた者に投げつけて怯ませる程度だろうか。だが、上手くいけば、その隙にドアから抜けられるかもしれない。

 

(……大丈夫。前にやったときは上手く出来た)


 思考と視線を幾度となく巡らせ、プランを組み立てていく。

 と、部屋の外の様子を覗うために、身をよじったとき、静寂に慣れた耳が微かな物音を拾い上げた。

 閉ざされたドアの向こうにで話し声がする。恐らくは二人分の。それが少しずつ近づいて来て、そしてドアを挟んだ向こう側で止まった。 

 ノック。

 返事をしようと口を開きかけて――間髪入れずにドアノブが回った。まるで意味をなさないノックに不意をつかれ、口の中で空回りした言葉を呑み込む。

 蝶番がぎこちない音を立てる。

 意外にも、ドアはゆっくりと動いた。少し開いた隙間から空気が漏れ出ていくのを嫌うように、慎重に、躊躇いがちに。秒針が盤の上で刻むのと同じくらいのリズムで開くドアは、ちょうど半分程度で進んだところで止まった。

 部屋を覗き込むように現れたのは、ノアが想像していたよりもずっと若い――おそらくは自分と同年代の少女だった。

 想定外。こういう場面で遭遇する相手は大人ばかりであったのに。

 白い肌にうっすら刺す朱と、意志の強さを表すように結ばれた唇。言葉に詰まったノアを見つめる少女の瞳は一切ブレることなく、長い睫毛は微動だにしない。だが蜂蜜酒(ミード)のように透き通った黄金の髪は、少し癖があるせいで美しさよりも愛らしさが勝る。まるで小さい頃に欲しかった上等な人形みたいだと、ノアはグラスを掴んだ手を振りかぶることも忘れて少女に見入っていた。

 しばらく沈黙が流れて、先に口を開いたのは少女の方だった。


「どう?」 


 あまりにも簡潔な第一声に、ノアは少女の発した言葉の意味を理解できず、目を瞬かせた。


「痛まない?」


 どう返していいのかわからず困惑していると、少女は自らの額を指さして言った。そこでようやく、彼女がノアの体調について尋ねてきているのだと気づいた。気遣っているというよりは、ただの確認作業といった口調ではあったが。

 もう少し気の利いた聞き方をしてくれてもいいのに――と思いつつ、ノアは小さく首肯した。 


「そう、良かったわ」


 良かったなどとはこれっぽちも思っていないような声音で少女は呟きながら、顔を引っ込めていく。


「歩けそうだったら」


 そのまま続ける。


「廊下に出て、右側。突き当りがキッチンだから」


 そう言い残して、彼女の姿がドアの向こうに消えた。

 だから、何だというのか。やはり不親切な物言いをする少女に「待って」と声をかける間もなく、少女ともう一人、何やら言い争う声とともに足音が遠ざかっていく。

 キッチンで勝手に何か作って食べろということなのか。ノアに手当てをしてくれたのはあの少女なのか。今だ小さく響いてくる声は二人分なのにも関わらず、聞こえてきた足音が一つだったのは何故なのか。

 疑問は尽きないが、ベッドの上で思案を重ねても解消するものではないだろう。

 グラスに注いだ水を一気に飲み干して――ゆっくりと立ち上がる。足に異常がないことに今さら安堵の息をつく。

 少女に倣うわけでもなく、特に意味があるわけでもなく、ただなんとなしに物音を立てるのは憚られて、中途半端に止まったドアをゆっくりと開いた。廊下は薄暗く静まり返っており、今ならば誰の目にも留まらずここを出ていくこともできそうだ。

 少女の言葉に逆らうのであれば、廊下を左に進めばいい。

 しばらくその場で考えて、裸足で踏むコンクリート床の冷たさに身震いする。

 結局ノアは、少女に言われた通り、廊下を右に進んだ。この期に及んでノアに危害を加えるような回りくどい真似はしないだろうという、淡い希望とともに。


「わ……」


 壁にかかったカーテンをくぐると、小麦とバターの香りに包まれた。今まで呼吸を浅くしていた分だけ、胸いっぱいに香ばしい空気を吸い込む。

 調味料が保存されていると思しきビンが敷き詰められた棚を眺める。普段ろくに料理をしないノアには、ラベルを貼ってないビンの中身など到底見分けがつかないが、これらの持ち主はきっと相当な料理好きなのだろうと思った。

 最後に食事をしたのはいつだったか。意識を失ってからどれだけの時間が経っているか、まだはっきりしていないが、まともな食事をしていないことは確かだった。今まで意識していなかった空腹感が襲ってくる。暗い廊下を抜けて少し気が緩んだのか、小さく腹が鳴った。

 焦る必要はないのだろうが、自分の立てる物音に敏感になっていたノアは慌てて辺りを見回して――そこで初めて、古びたオーブンを熱心に覗き込む少女の姿に気づいた。

 声をかけるべきだろう。しかし何を話せばいいのか。しばし逡巡して、とりあえずはキッチンの中へと一歩踏み出した。すると、


「ごきげんよう。体調は問題なさそうね」


 少女はオーブンのほうに顔を向けたまま、片手を挙げてノアを制止した。オーブンのガラスドアに反射した彼女の瞳が、ちらりとにこちら向いて、またオーブンの中へ視線が注がれる。


「あ……はい。多分、なんとか」

「もう焼けるわ。待っててちょうだい」


 少女は両手にミトンをはめながら続ける。


「火を止めて」


 ノアではなく、オーブンに向かって。彼女の声に反応するかのように暗赤色の光が消え、低い唸り声のような稼働音が途絶えた。


「こんな古いオーブンでもあれば助かるのよ。居場所のない妖精を住まわせるには丁度いいもの。元の住人が置いていったみたいだけど、今時タイマーもついてなければ火力の調整もできないオーブンなんて、この家を借りなきゃ生涯使わなかったでしょうね」


 少女は独り言のように淡々と呟いて、オーブンから鉄板を取り出す。ふっくらと焼けたパイが六つ。生地の上に散りばめられたリンゴがつやつやと光沢を放っている。甘い湯気を帯びた彼女に導かれるようにして、ノアは食卓の椅子に腰を下ろした。


「妖精……そのオーブンに妖精が住んでるんですか?」

「ええ。あまり外には出たがらないシャイな子よ。でも、パイを焼くときだけは力を貸してくれる」


 よくよく目を凝らして見てみれば、少女の身体とその周りが、ぼんやりと柔らかな光で包まれている。火の粉のような淡い光が、いくつも、いくつも。

 薄暗い廊下を通ってきたせいで、そう見えただけかもしれないが、その姿はやけに幻想的に映った。

 少女が小さく肩をすくめて、ミトンを外しながらノアの正面に座った。彼女の顔を盗み見て、彼女が陶器でできていないことを再確認する。無表情、というわけでもない。少し素っ気ないとは思うが、こうして喋りかけてくれるのだから単なる不愛想というわけでもないだろう。


(この人……妖精憑きなんだ)


 彼女がどんな思惑で動いているのか、自分に向けられる視線からは何も読み取れなかったが。ただ、ノアの怪我を診てくれたのもきっと彼女なのだろうと、なんとなく思った。我ながら単純だとは思うが、相手が自分と同年代の女の子というだけで、先ほどまで張り詰めていたはずの緊張が少しだけ解けていくのがわかった。何よりも目の前のパイが放つ暴力的な香りが、ノアから思考する力を奪っていくのだ。


「さて」


 少女は彼女の髪と同じ色をした蜂蜜をパイの表面にたっぷりと垂らしながら告げた。


「心配しなくても変な物は入ってないし、あなたの分を焼いたのはついでだから、遠慮もいらない。だから、食べながら少し話を聞かせてちょうだい」


 彼女は視線を落としたまま続ける。


「まずばあなたが一体どこの誰から、いくらで雇われたのか、というところから始めましょう」

「…………え?」


 さくり、と。

 少女がパイにフォークを突き立てたその後ろで。

 彼女のものではない、誰かの大きな溜息が聞こえた気がした。 

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