3
抱きしめていた杖が腕から離れ、硬質な音を立てて床の上を転がった。
薄く目を開く。
ブラインドの僅かな隙間から差し込む薄明かりが室内に影を落とし、ぼんやりとした視界はコンクリート張りの天井を映した。
身じろぎし、毛布を掴もうとした手が空振りした途端、肌寒さを覚える。両手を体の周りに這わせ、しかし目当ての感触にたどり着くことができずにまた目を閉じる。脳を麻痺させる微睡みと寝起き特有の倦怠感に身体を捩りながら、ソファのスプリングが軋む感覚に身を任せた。
深く息を吸い、吐く。
爽やかな洗剤の香りでもすれば快適な目覚めを迎えられたのだろうが、吸い込んだ空気は、焦げ付いた煙と鉄錆びの混じったを匂いを纏っていた。何度か鼻を鳴らし、その匂いが自分の体から――正確には昨夜から着たままの肌着から漂っているのだと気づき、ルシエラは両手で顔を覆った。寝起きの気分としては最低の部類だった。
そのまま脳が覚醒するまでの猶予期間をしばらく堪能し、再び目を開ける。ぐちゃぐちゃになって床に散乱した衣服と毛布と、テーブルの脚で動きを止めた杖と。気怠さとともに上半身を起こして見渡した部屋は散々たる様相だった。
どれから片付けるべきか、あるいは見なかったことにするか。ひとまずは淀んだ空気を入れ替えるために立ち上がり、ブラインドを開ける。
薄暗かった室内が陽光に照らされる――なんてことは初めから期待していなかったが。鉛を溶かして塗りたくったような空を見て、気分が晴れるはずもない。だからといって下を向いたところで、味気ない旧帝都の景色が広がっているだけだ。窓から視線を逸らすことすら億劫と、そのままルシエラは寝ぼけまなこで正面を見やった。
(朝から辛気臭いわ。いつものこととはいえ)
眼下に広がる街並みはひたすらに陰鬱だ。都市の構造上、日陰の部分が多くなるのは仕方ないとはいえ、酒や薬に溺れた者たちが徘徊しているような景観は不健全という以外にない。少し先の大通りでは明るいうちからネオン看板が点滅し、それは何の変化もないまま、また夜を迎える。
遠くから眺めれば、色とりどりの果実がなった木々のようにも見えないことはないが。甘い果実に誘われて近づいてみれば、その実態は暴力と金と欲望が支配する、鬱蒼としたコンクリートの樹海でしかない。
年寄りや公務員が旧帝都と呼び、若者からは罪の都などと揶揄される都市。
その成り立ちはルシエラが生まれるよりもずっと昔のことだ。かつては帝国の中心地として栄えた姿は首都機能の移転によって失われ、他国からの移民や戦後孤児たちの受け皿としての役割を果たすようになった。だが、文化や歴史の異なる人種民族が同じ都市で暮らせば、秩序など生まれようはずもなく、過渡期の混乱を乗り越えた結果出来上がったのは、マフィアや汚職警官が幅を利かせる、立派な犯罪都市だった。
ではそれに対して、栄えある帝国議会の議員たちが何か策を巡らせたかといえばそうではなく。純粋な帝国人が住まう新たな都——こちらは新帝都、あるいは単に帝都とも呼ばれる――と、旧帝都とを隔てる巨大な検問所を作り、ゴロツキたちが入ってこないように制限をかけた。
臭い物に蓋。孤児たちがギャングとなって盗みや恐喝で金銭を得ている一方で、壁一枚隔てた向こう側では立派な服を仕立ててもらった上流階級の子供たちが、専属の家庭教師からヴァイオリンのレッスンを受けているという構図が出来上がった。
(……もう少し寝てても良かったかしら)
窓を開ける。浅く吸った息を、胸につかえた憂鬱さとともに吐き出す。本格的な冬が訪れるのはもう少し先であるが、陽が昇り切る前の時間を薄着で過ごすのは少し堪えるようになった。室温よりも僅かに冷めた風が口元を撫で、吐息を白い粒子に変える。
肌が震えて、指先が凍える。何か羽織る物を、と室内に向き直ろうとした瞬間、ちょうど見計らったかのように耳元で囁きかけてくる者がいた。
『ごきげんよう、蜜指。せっかく狭霧が晴れる時間だというのに、そんなに眉間に皺を寄せていては、ただでさえ陰気なお前の顔がますます貧乏臭く見えてしまうの』
気配はなかった。ガラスにも水面にも映らず、彼女にしか視認できない存在はいつも好き勝手に現れて、好き勝手に消える。讃美歌でも口ずさむような美しい声音で紡ぎだされる言葉は、いつだって意図してルシエラの機嫌を損ねようとしているように聞こえた。
反応すればつけ上がる、と心の中で繰り返し唱えて。だが振り返った先で、小憎たらしい表情を浮かべて宙に浮かぶフルートの姿を目にすると、その考えは急速にしぼんでいった。
「……どうせ顔も体つきも貧相な、根暗女よ。朝っぱらから、わざわざ私の気を逆撫でするために出てきたの?」
『いいえ、お前の胸がいつまで経っても真っ平らであることにまで言及してはいないの。それを根に持つならワタシじゃなくて昨日のケーサツに対して、でしょ』
小馬鹿にするように笑ったフルートを捕まえようと、鼻息荒く腕を振り回す。しかし妖精は器用にそれを避けて、ルシエラをからかうように彼女の周りを飛び回る。ついに手の届かない天井近くまで逃げ切ったフルートは、ちっちと舌を鳴らした。
『のんのん、ルシエラ。お前、大事なことを忘れてるの。最高の一日は、最高の挨拶から幕を開けるの。気になるあの子との会話のきっかけとするも良し、組織のコミュニケーションを活性化して円滑な関係を築く手段とするも良し。ともかく他人との信頼は、そうやって些細なことからひとつひとつ積み重ねて出来上がっていくんだから』
言いながら降りてきた彼女は、ルシエラの胸元に指を突き立てた。素早くその身体を掴む。彼女の慎ましい身体のラインに触れて、「どの口が」と言いたくなるのを堪えながら、ルシエラは小さく首を横に振った。
「先に喧嘩売ってきたのはそっちでしょ……って、どうして人付き合いのノウハウを妖精に教えられなきゃいけないのよ」
『あら、それは偏見じゃない? 妖精にも人間にも獣にも、花の蜜のかぐわしさや水面の揺らぎにだって秩序は必要なの。そして秩序を作り出すのは世の中の全てそのものに対する信頼よ。ワタシたちが人間どもの良き隣人として過ごしていた時代には、その枠組みから外れた礼儀知らずの無法者もいたけれど、みーんな四肢をもがれ、目玉と舌を抜かれた挙句に命が尽きるまでワタシたちの玩具にされていたの』
「…………ごきげんよう」
『やればできる子って素敵よ』
満足そうに頷くフルート。たかだか朝の挨拶を渋った程度で肢体を奪われては割に合わないと、ルシエラはフルートを掴んでいた手を離した。
妖精の言葉は本気か冗談かわかりにくい。「黄金の毛髪はエーテルをたくさん内包しているの。ワタシにも分けてちょうだいね」などと言われたその日の夜、寝ている間に前髪をばっさり切られていたこともある。
その時のことが脳裏をよぎり、無意識に髪を庇うように頭に触れる。度々出るルシエラの癖は過去のトラウマからくるものだろうか。だとすれば、それはきっとこの妖精のせいだ。
『素直に忠告を聞き入れるのはお前の美徳よ』
「……それはどうも。で、何の用? 夜型のあんたがこんな時間に起きてくるなんて、珍しいこともあるじゃない」
そもそも睡眠を必要とするのかどうかも疑問ではあるが。
妖精の行動原理などルシエラに測れるはずがないものの、なにも彼女を罵倒するためだけに早起きしてきたわけではないだろう。あながちその可能性がまったくないとも言い切れないが――フルートは大きな黒目をさらに大きくして、ひとつ手を叩いた。
『——そうそう! お前をからかうことに夢中ですっかり忘れていたわ。篝火の子が目を覚ましたみたいなの!』
「……篝火?」
『ほら、昨日家の前で死に体になっていた人間よ。黄昏に舞い散る火の粉よりも優雅で情熱的で、真紅に染まる花弁のような髪。古から赤毛は魔法の才に恵まれた子供ばかりだったわ。きっとあの子もたっぷりエーテルを蓄えているに違いないの』
「ああ……」
ルシエラは、まだ目頭にこびりついて離れない眠気を適当な相槌で誤魔化しながら、どうして自分が柔らかいベッドではなく、あちこち革の剥がれたソファの上で目を覚ましたのかを思い出していた。
まだ幼い少女だった。炎の糸のように流れる真紅の髪。衣服に染みた血液と、身体のあちこちにできた火傷とで、一見すれば死体のようだった。かろうじて息はあったが、あのまま放って置けば今頃、冷たくなってビルの前に転がっていただろうか。
ここは病院でもなければモーテルでもない。便利屋への依頼を携えた来客はあれど他人の寝床の準備などしているはずもなく、ひとまずはルシエラの寝室へと少女を運び込み、簡単な治療を施した。
外傷自体は見た目の派手さほど酷いものではなかった。傷と出血量が見合っていないことは疑問であったものの、なにせ子供の体格だ。貧血のせいで倒れていたという線もある。
ルシエラは専門家ではないし、何か他の症状があれば医者のところに行かせればいい。とりあえずは無事に目を覚ましたことを喜ぶべきなのだろう。面倒続きではあったが、死肉に惹かれたカラスと野犬の鳴き声を目覚まし代わりにせずに済んだだけ良かったということにしておく。
大きく背伸びをする。寝不足と、それから普段と違う場所で睡眠をとったせいでか、少し重たい頭を傾けて。
「そう、それは朝から良いニュースだこと。少し寝直すつもりだったけど、その暇はないみたい」
『季節と一緒よ。昨日の不幸も今日の幸福も、大きな時間の流れの中ではほんのちっぽけなものに過ぎないけれど、それでも善行は巡り巡ってお前の元に返ってくるの』
「だといいけど。本当に昨日は散々だった――」
と、はたと疑問が芽生えて、フルートに尋ねる。
「ねぇ、ええと……篝火、だっけ? 何でもいいんだけれど、その娘、なにかおかしな様子はなかった?」
『どういうこと?』
神妙な顔で問うルシエラに、今度はフルートが首を傾げる。
「その、つまり、部屋を物色したりだとか、罠を仕掛けたりだとか。誰かと連絡を取ったりだとか」
『お前、何を言っているの? そんなことする必要ないでしょ』
目を瞬かせるフルートをよそに、ルシエラはソファにかかっていた上着を手に取った。それを羽織りながら
「だって、あまりにも不自然じゃない。チンピラに襲われたり、警察署で拘束されたり、昨日からツイてないことばかり起きてる。あんたはちっぽけなものだって言うけど、不幸は重なれば重なるほど大きくなるものよ」
半ばまくし立てるようにルシエラは言い放った。
『……それで?』
「そんな日に限って事務所の前に血まみれの女の子が倒れていた。これが偶然? あの娘だって、もしかしたら私に恨みを持った誰かが送り込んだ殺し屋の可能性だってあるかもしれないじゃない」
『……そんなわけないの。もしかしてまだ寝ぼけてるのかしら』
呆れたように言葉を投げかけてくるフルートに向かってかぶりを振る。
突拍子もないことを口にしていることは、ルシエラ自身にも自覚はあった。だが急速に膨れ上がる不安の渦は、論理的な思考を置き去りにするほどの速度で胸の内に荒波を立てる。
たとえばこれが、お行儀の良い新帝都内の出来事であればここまで過敏な反応はしなかっただろう。しかしここは旧帝都だった。たった一つの油断が命取りになることを知らない者から、ここでは野垂れ死んでいく。
「そういうことが平気で起こる街だってあんたも知ってるでしょ。大体、あの子の服についた血の量も不自然だったわ。すでに一仕事終えて、そのときに浴びた返り血なのかも……。ああもう、どうして昨日の時点で気づかなかったのかしら。ということは彼女の依頼主は、便利屋の躍進をやっかむ競合他社——?」
『あのね、ルーシィ。お願いだから妄想の世界から返ってきてほしいの。それから、もう一つ残念なことを言うけれど、お前が思っているほど便利屋は有名でもなんでもないの。お客が来ないのは他所から妨害にあっているからじゃなくて、存在を知られていないから――つまり空気だからなの』
芳しくない便利屋の経営状況を思い出させるフルートを一睨みして、ルシエラは頭を抱えた。
幅広い分野で活躍が見込めるはずの妖精使いという資格を掲げているにも関わらず、これまで便利屋に大きな仕事が舞い込んだためしはない。
浮気調査、水道管の錆取り、逃げ出したペットの捜索……魔法を使って楽はできるが、そんな力がなくとも解決できそうな依頼ばかりで、そういった仕事は当然単価も安い。要人警護や諜報活動など、ハイリターンな仕事が回ってこないのは何者かの陰謀に違いないと、ルシエラは常日頃からぼやいていた。
『ま、実績を作ろうにも、そもそも仕事がないんじゃ仕方がないの。チンチクリンに危険な仕事を任せたいと思う物好きもいないでしょ』
「…………」
わなわなと唇を震わせてルシエラに、フルートは憐れみの眼差しを向ける。
「……やられる前にやるしかないわよね」
『へ?』
殺られる前に殺る。物騒な響きではあるが、旧帝都に住まう者であれば誰もが胸の奥底に秘める心構えではあった。通りを出歩く人々が腰に銃をぶら下げているにも関わらず、「撃たれるとは思っていなかった」などという言い訳は通用するはずもない。ソイツが大マヌケだったと、淡々と死体を処理されて終わり。ニュースどころか、酒場での肴にもならないだろう。
床に転がったまま天井を眺めていた、真鍮を加工して作られた杖を拾い上げる。シンプルな作りではあるが、ゆえに癖がなく扱いやすい。物心ついた頃から付き添ってきた、相棒ともいえる杖。その先端に飾り付けられた宝石は、ルシエラの決心に応えるよう窓から入り込む光を透過させ、無機質な壁に翆緑の模様を映した。
『ちょ、ちょっと待つの! そんなに結論を急ぐ必要はないんじゃない!?』
「でも……」
『お前なら、その辺の殺し屋相手に不意を突かれたって対処できるでしょ! 杖の一振りで、敵は一撃で絶命するの! 爆散してどーんなの!』
「いやそれは流石に――」
『ねぇ、とりあえず様子を見たっていいと思うの! これはマジのマジなの!』
「わ、わかったから! あんたこそ落ち着きなさいよ」
眼前に迫ってきたフルートの勢いに押されて、窓際まで後退る。
思わず、せっかく拾った杖を取り落としてしまった。再び床に落ちた相棒が、心なしか寂しげな音を立てて転がっていくさまを横目に、ルシエラは少しずつ冷静さを取り戻していった。
元少年兵が食い扶持を稼ぐためにギャングに身を落としたり、表沙汰にできない仕事をマフィアから受けたりだとか、その手の話はよく耳に入ってくるが――フルートの言う通り、あの少女がそうだと決まったわけではない。
一応は納得してみせたことで、フルートは安堵するように胸をなで下した。珍しく必死な妖精の様子に、単純な疑問だけではない、どこかすっきりしない感覚が胸の内に広がっていくのを自覚しながら呟く。
「……ずいぶん庇い立てするじゃない。そんなに気に入ったわけ?」
『赤毛は珍しいもの。昔はたくさんいたけれど、今じゃ殆ど見かけないわね。お前たちが食べないと生きていけないように、ワタシだってエーテルなしじゃ存在を維持できないの。栄養満点の食材があれば、誰だってそれを欲しがるに決まってるわ。自然なことなの。だから、あんまり嫉妬しちゃだめよ』
「馬鹿言わないで。誰が」
嫉妬なんて――と続けようとして、ルシエラは口を噤んだ。愉快そうに細められたフルートの視線から逃れるように窓を見やる。映るのは、なんとも言えない自分の表情と、ただでさえもくせ毛だというのに、寝癖のせいでさらに跳ね上がった髪の毛。フルートに言わせれば、ルシエラの金髪だって栄養たっぷりらしいが。
主従契約を結んでいるわけでもなければ、お互いに何か執着するようなことがあったわけでもない。人から奪った髪をどうしているのかだとか、そもそも妖精がどういう存在なのか、とか。知らないないことはたくさんあって、それでもなんとなくそばにいる関係。
そのうちルシエラの元を去って、他の誰かのところに行ってしまうかもしれない。もしそうなれば、知らぬ間に髪の毛が短くなっていることもなくなって、喧騒とはかけ離れた日常が訪れるのだろう。
それはきっと――
「……いや、案外悪くないわね」
呟く。悪くない。
彼女がいなくなって魔法が使えなくなるのであれば困りはするだろうが、それならば他の妖精に頼ったっていいのだから。フルート以外にも、ルシエランの家に住み着く妖精はそれなりの数がいる。
そんなルシエラの心情を知ってか知らずか、不思議そうに首を傾げたフルートは、彼女の背中を押してドアの前へと促した。
『さ、さ、篝火ちゃんの様子を見に行きましょ。もしかしたらお腹を空かせているかもしれないの。歓迎の証にハニーパイでも焼いていってあげればいいの』
「いやよ。面倒くさい――」
だが少なくとも、胸につかえていた不安は多少軽くはなった。
その点に関してだけは、この喧しい妖精に感謝していいのかもしれない。そんなことを考えながら、ルシエラは床に転がった杖を拾い上げた。