表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

2

『ほンっっとうに腹が立つの! ワタシの可愛いルシエラにあんな礼儀知らずな行いをして、今思い出してもはらわたが煮えくり返りそうなの! いっそのこと目玉と舌を引っこ抜いて、燻製にでもしちゃえばよかったのよ!』


 耳元で聞こえた言葉は、ひどく物騒なものだった。囁くような、それでいて喧騒の中にいてもはっきりと聞き取れるだけの明瞭さを備えた声は、警察署を解放されてからの道中で、ずっと彼女の背後に付き纏っていた。

 通りの左右に(のき)を連ねる露店と、ごった返す人の群れ。昼夜を問わず人の絶えない露店街というのは、あらゆる場所に光の届かない領域が存在する。見上げれば今にも崩れそうなほどに廃材が積み重なり、下を向けば水溜まりに浮いた油がネオンの光を滲ませている。建築様式から屋根の高さまでもが統一性のない、増築に増築を重ねた建物が密集するとあっては、警察の監視が隅々まで行き渡るはずもなく――ロリポップを買うような気軽さで銃弾や非合法薬物が手に入る市場は、裏家業を営む者に限らず一部の警官からも密かに重宝される場所となっていた。


『不潔で不徳で不学な不届き者! あんなケダモノどもに温情なんてかける必要はなかったの! すぐにでも体を七十二の肉片になるまで刻んで、火に焚べてやるべきだったの。お前がワタシを頼ってくれたならば、すぐにでもアレを不能にできたというのに』


 深夜にも関わらず、通りは人であふれている。立ち並ぶ屋台はどこも席が埋まり、渦巻く熱気に吸い寄せられるように、客が入れ替わる。鉄板から漂う焦げた肉の臭気と、薄着で紫煙を燻らす売春婦の煽情的な香りを混ぜて吹く風は、どれだけ歩調を速めても全身に纏わりついて離れることはない。活気はあるが薄暗く、肺を満たす空気は淀んでいる。その息苦しさを良しとする者もいないわけではないのだろうが、ルシエラ・サリニャックにとって旧帝都の街並みとは、いわば発酵しきった肥溜めのようなものだった。


『いつ見ても、人間のオスっていうのは下品な生き物だわ。図体ばっかり大きくて、野蛮で、そのうえ酷い臭い。あんな下劣な生き物と狭い空間で何時間も一緒に閉じ込められるなんて……嗚呼! 哀れなルーシィ!』


 押し寄せる喧騒の波に逆らって、人と人との間を縫うようにして進む。真っ暗な闇の中であればくっきり浮かび上がるであろう白い外套も、ネオン煌めく歓楽の吹き溜まりでは、数ある色彩の一つにしか過ぎない。

 衣擦れ、足音、悲鳴、エンジン音、野良猫の唸り声、ガラスが割れた音、歓声、銃声、サイレンの残響。夜の深度が増すにしたがって、それらの音は一つ、また一つと数を増やしていった。耳に届けども意識の内まで入り込むことはなく、それが必要な音かどうかは無意識のうちに選別される。雑音は瞬きもしない間に記憶から消えていった。ただし、


『でもね、お前もお前なの。ああやって程々に手加減してしまうと、あの手の輩はますますつけ上がるって相場が決まってるんだから。お前はただでさえもチンチクリンなのだし、舐められないように、もっとこう……ビシッと躾をしてやるべきなんじゃないって…………ねぇちょっと、さっきから返事がないけれど、聞いてるのかしら』


 酔っ払いから向けられる冷やかしや、しつこく追ってくる客引きの誘い文句も、ノイズとして処理をするルシエラであったが。

 無視できない音もある。


『ねぇってば――』

「…………ちょっと静かにしてくれる?」


 いくら聞こえない振りをしても――しているからかも――放って置けば延々と続きそうな独り言に、ルシエラが我慢の限界を迎えるのは必然だった。

 通りの端の、なるべく人目につきにくそうな物陰に潜り込んで、虚空へ手を払う。ルシエラの呆れを含んだ視線と舌打ちに呼応するように、彼女の鼻先で小さな光が弾けた。


『お前がワタシの言葉を無視し続けるからでしょ。どういうつもりなのか知らないけれど、お前はもう少しワタシに敬意を払ってもいいと思うの……——どうしてって顔してるわね。逆にどうしてわからないのか、不思議で仕方ないの。ベリーが腐り落ちるのは隣人の言葉をないがしろにしたせいだって話は古くから伝わっているの。イッパンキョーヨーってやつなの』


 散らばった光から現れたのは。

 手の平サイズの人型だった。

 薄い胴にネグリジェのような衣服。そこから生える細い四肢と首筋には、まだらに鱗模様が走っている。背中から生えた一対の羽は長い髪と同じリズムで揺れて、羽ばたくたびに星屑のような光を散らした。それは抱えた秘密を晒すように、居場所を暴くように、物陰のルシエラを仄かに照らす。

 爬虫類のような大きな黒目が、ルシエラの顔を覗き込んでくる。人間に近いようで、しかし明らかに造形の違う生き物が抗議の声を上げる様を、彼女はやはり呆れた表情で見返した。


「知らないわよ、そんな話」

『ふン、無知を誇るなんてどうかしてるの。ワタシはお前のためを思って言ってあげてるのだから、よくお聞き。お前のように妖精の言葉を聞いて、姿を見ることのできる人間は銀の針で編んだシルクのように気高くあるべきなの。それがこんな汚らわしい、鉄錆の臭いが溢れた街で……電気屋だか便器屋だか知らないケド、厄介ごとにばかり巻き込まれて――』

「フルート」


 小さくとも、喧騒の中でやけにはっきりと聞き取れる声は、すでに疲労困憊の身には余りにも煩わしい。ルシエラは目頭を指で押さえてながら、小さな人型の名前を呼び、その語りを遮った。


『……なぁに?』

「お願いだから、少し黙って。ここは人が多い。いちいちあんたの言うことに返事をしていたら、あいつは誰もいないところに向かってぶつぶつ呟いてる気狂いの妖精憑きだって噂が広まる。ただでさえまともな依頼が少ないのに、これ以上悪い評判が広まって閑古鳥の鳴き声を目覚ましにするのは御免だわ」


 ルシエラが捲し立て、フルートは不服そうに頬を膨らませた。その仕草は見る者が見れば愛らしい姿にでも映るのだろうが、彼女——性別があるかどうかはともかく――とそれなりに付き合いのあるルシエラからすれば、外見から得られる印象など、毛ほども当てにならないことをよく知っていた。

 妖精などと自称しているが、悪霊か何かの間違いではないかとルシエラは疑っているほどに。


「あと、電気屋でも便器屋でもない。私がやってるのは便利屋。あんたのちっぽけな脳みそじゃわからないのかもしれないけれど、次に間違えたらその羽を(むし)って枕の材料にしてやるから」

『まァ!』


 顔をしかめて羽を畳んだフルートが、空中で地団駄を踏みながら、ゆっくりと落下していった。単なる脅し文句にも一定の効果があるらしいことはわかっている。彼女は口を噤み、腕を抱いてそそくさと物陰に隠れた。ルシエラの言葉を本気と捉えているわけではないだろうが、フルートは自分の羽をえらく大事にしているらしい。毟る、千切る、針で刺して標本にする――この手の脅し文句は良く効いた。

 小うるさい妖精を黙らせたことに満足したルシエラは、そのまま人混みに紛れ、歩みを再開する。その背後に、羽をたたんだまま宙に浮いたフルートが続く。

 それなりに目立つ外見をしているはずの妖精に、目をくれる者は誰一人としていない。ルシエラも、そしてフルート自身もそれを不思議に思うことなく、ただお互い沈黙を保って街に溶け込んだ。

 特に目を引く露店もなければ、用事のある人物がいるわけでもない。拠点としている場所に帰るだけ。ただそれだけのために随分な道草を食ったのは、果たして誰の所為なのか。直接的な原因を作ったのはチンピラだが、間接的には彼らの雇い主——ひいてはその雇い主の恨みを買った人物にも責任があるかもしれない。

 考え始めれば想像を超えて妄想にまで発展してしまいそうな他責思考を振り払い、目の前に現れた分かれ道を迷わず真っすぐ進む。横に逸れて路地を抜ければ近道にはなるが……ルシエラは賑やかな大通りを選んだ。


(ガキだの発育不良だのチンチクリンだの…………どいつもこいつも、好き放題言ってくれて。本当にムカつくったら……)


 真っ先に思い浮かんだのは、先の二人組のチンピラ。それからルシエラの取り調べを担当した警官。そして最後にフルートである。全員憎たらしい顔をしていたことは間違いないが、ルシエラの身近にいる分だけ、苛立ちの再現性はこの妖精が最も高い。


(妖精——……不可思議な力を持つ、不可視の存在。どこにでもいて、どこにもいない)

 

 その姿を見ることはできず、その声を聞くことは叶わない。それなのに誰もがその存在を知っている。大木の枝から伸びる若葉、風の吹く温度、灯の揺らぎに、水の滴る音。詩人の紡ぐ物語にすら妖精は宿り、人間の良き隣人として認知されてきた。

 その妖精のために特別な宿木を与え、対価として彼らの持つ超常の力——魔法を行使することができる者。そうした力を得た人々のことを、フリソヴィリロス帝国領では妖精使いと呼ぶ。

 果たして、魔法が廃れ始めたのはいつ頃からなのだろう。初代皇帝が戦争に利用しようとしたという話は聞いたことがあるが、兵器として扱うにはあまりにも個人の資質に左右され、安定した戦力としては望めなかったようだ。そもそも、そうした力の使われ方を妖精側が良しとしなかったという背景もあり、帝国の戦力は誰もが等しく扱える銃や装甲に傾倒していった。

 工業化の波が辺境にまで伝わり、人々の生活様式が変化したのは、ルシエラが生まれるよりもずっと昔の話だった。

 ともかく、妖精が人間の生活に及ぼす影響が小さくなったのは事実だ。時代の移ろいとともに妖精の存在を認知できる者は減り、今となってはむしろ変人扱いされることも少なくない。

 妖精も魔法も、現実から、おとぎ話の住人へなりつつある。

 未だにそれを信仰の対象とする者もいる一方で、胡散臭いビジネスの商品にしようとする者もいる。見える、聞こえると言ってしまえば、本人以外にそれを確かめる術はないのだから。だが、世の中の大半の人間に観測できない存在であるというのであれば、精神疾患や薬物の作用によって生じる妄想幻覚とどんな違いがあるだろうか。

 

(誰よ、妖精憑きなんて呼び方を最初に考えついたヤツは)


 響きからして妖精使いを()()()()のだろうが。あるいは、元々はそう呼ばれていたのかもしれない。

 妖精憑きという言葉は広い意味を持つ。帝国公認のライセンス持ちである妖精使いから、単に声が聞こえたり姿が見えたりするだけの者まで含まれる。ただ、どちらかといえばネガティブな意味合いで使われる言葉だった。


『ねぇ、ルーシィ――』

「うるさい」


 妖精に憑かれた人。

 案外、的外れでもないところが余計に腹立たしい。

 結局、フルートが口を閉ざしていたのは僅かな間だけで、ルシエラの自宅に到着するまで、妖精の独り言は続いた。


***


 果てしなく続くように思えた、いかがわしいネオンもやがては途切れ、露店街の喧騒は今やいくつも路地を挟んだ向こうに消えた。だからといって街全体に蔓延(はびこ)るすえた臭いに変化があるわけでもない。

 背の高い集合住宅やビルが集まった街並みは、どの方角を向いても侵入者を惑わせる灰色の樹林のようだった。不規則に瞬く街灯に映し出される街は深夜にふさわしい静けさを保っており、ルシエラの鳴らす規則的な足音とフルートの呟きが、色彩を欠いた壁に吸い込まれていく。

 建物の半分近くは無人であったが――仲介業者に金さえ払えば、面倒な手続きの必要なく利用できる物件というのは、それなりに需要があった。単なる物置として使われることもあれば、人目を避けたい会合や取引目的、あるいは何らかの事情で身を隠す必要のある者が、一時的な住処として利用することもある。

 住人同士が不干渉を貫く一画は、どこか後ろ暗くありつつも秩序めいた沈黙を保っている。ある日突然、自宅の前で銃撃戦が始まったり、徘徊する薬物中毒者の叫び声で安眠が妨げられたりすることを除けば、ルシエラにとってはそれなりに住み心地の良い場所ではあった。


「……」

『……』


 そんな彼女の根城。

 どこにでもある――特にこの辺りであれば変哲のない雑居ビルの前で、ルシエラとフルートは顔を見合わせていた。互いに無言、しかしそれぞれ性質の異なる表情で。

 ルシエラは不機嫌そうに。対して、フルートは愉快そうに。

 状況の把握にそう時間はかからなかったが――


「これはなに」

『……さぁ?』


 それを飲み込めるかどうかは、話が別だった。

 沈黙を破ったルシエラが指さした先。

 ルシエラお手製の、便利屋と記された立て看板の下に。


「いつからウチの玄関は死体安置所になったのかしら」


 衣服を血で染めた少女が横たわっていた。

 胸部から腹部にかけて赤黒い染み。見るからに上等な生地であつらえた外套の、半分以上を染めた血液が彼女自身のものであるとすれば、どう考えても無事とは言い難い出血量ではある。

 衣服からすらりと覗いた手足は細く、青白い。少女に近づき、彼女の血液よりも鮮やかに暗闇の中で映える真紅の髪を掻き分けると、目を閉じたままの幼い表情が露になった。背丈はルシエラよりも高いが、顔つきは幼い。街で見かけたとしても恐らく記憶に残りそうもない、平凡で夢見がちな年頃の少女に見えた。


「……せめて死に場所は選んでほしいわね」


 今夜、何回目になるかわからない溜息とともに呟いた。死人の珍しくない旧帝都で暮らす以上、間近で死体を見た程度で何か感慨が湧くわけでもないが――疑問はある。なぜ、よりによって、この場所で子供が。

 暴漢に襲われた後で警察署に長時間拘束され、そして帰り道で妖精の鬱陶しい小言を聞かされ続けたルシエラにとって、それは決して望んでいないハプニングだった。どこぞの誰とも知らない子供の死体の処理をさせられる身にもなってほしい。と、普段であれば悪態のひとつでもついたのだろうが。そんな気力もなく、ルシエラは肩を落とす。


『ねぇねぇ、どうするの。この人間』

「どうするもクソもないでしょう。邪魔だし、どかすわよ。フルート、燃やしてちょうだい」


 即答する。

 ルシエラの意志はすでに固まっていた。この死体は見なかったことにすると。


『……ワタシ、時々お前のことが人の皮を被った悪魔のように思えて仕方ないの』

「あなたに言われたくないわ」

『それに、ワタシは火花を火炎に変えることはできても、暗闇に光を灯すことはできないの。そういうのは末妹の得意分野なのよ』

「わかってるわよ。言ってみただけ」


 憮然と応じるルシエラを尻目に、フルートが少女の顔を覗き込む。

 小さな手が睫毛をなぞり、瞼を引っ張り上げる。しばらく好き勝手に顔のパーツを弄って――それからふと、彼女の動きが止まった。

 ややあってから、恐る恐るといった様子でルシエラのほうへ振り向く。


『この人間、生きてるみたいだケド』

「そんなわけないでしょう」

『あら、ワタシがこれまでに嘘をついたことがあった?』

「……ないけど」


 言いつつ、ルシエラは目を凝らして少女を観察する。

 口元に手を這わせ、首筋に触れる。脈は……弱いが、ある。よくよく見れば、僅かではあるが呼吸によって胸元が上下していた。


「…………ああ、もう」 


 うめく。この場で死体を処理してしまおうと思っていた以上、もはや生きていたほうが面倒だった。


『どうするの?』

「……ここに放置して通報でもされたら警察署に逆戻りじゃない。万に一つもないとは思うけど、この子が依頼を持ってきた客って可能性もあるし…………事務所に運ぶわよ。あんたは誰か来ないか見張っててちょうだい」

『中で燃やすのかしら』


 黒目がちの瞳を訝しげに細めて間の抜けたことを言うフルートを睨む。


「そんなことしたら部屋に臭いがつくでしょ。とりあえずベッドで寝かせておいて、意識が戻ったら宿泊料と治療費ふんだくってやるのよ」

『やっぱり悪魔なの』

「ここが児童福祉センターにでも見えるっての?」


 ルシエラはそう毒づくと、背中に担いでいた杖を手に取って、その先端で少女の体に軽く触れた。一呼吸も置かぬ間に、深緑の光の線上に風が走って少女を包み込む。そして彼女の身体がゆっくりと浮かび上がった。

 風はひたすらに無音だった。ただ微かな少女の呼吸と衣服の擦れる音だけが、夜の空気を震わせる。


「まったく……魔法を使うのだってタダじゃないってのに」

『おつかれさま、なの』

「ほんと疲れたわ」


 うんざりと吐き出した言葉は、どうしようもない一日の締めくくりとしてはふさわしいものだったのかもしれない。少女が目を覚ましたあとのことは、その時に考えればいい。とりあえずは、少女への請求書に記す金額の計算に集中することにした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ