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『お前、本当にお人好しが過ぎないかしら。友人でもなんでもない他人の頼みをホイホイホイホイ……。いくら鈍器屋でも、限度ってモノがあると思うの』
「その物騒な店はなに」
それは、ルシエラ自身も痛感しているところではあったが。自分で省みるのと他人に指摘されるのとでは、心に刺さる針の鋭さが違う。こういう時、真面目に取り合えば、より深い場所までえぐられるのだと知っていたルシエラは、いつもわざと論点をずらして致命傷を避けることに徹している。
しかしそれが通じるのは、人間相手に限った。静まり返ったキッチンにこだまする妖精の小言は、ルシエラの心情などお構い無しに一番脆い部分を的確に抉る。
『ガキンチョの泣き落としに庇護欲掻き立てられたお次は、野良猫の肉球にヨダレ垂らして、今度はオトコですって。あーあヤダヤダ、蜜指なんていってても、所詮はお前も発情期のメスニンゲンってことなの』
「ぶん殴るわよ」
『受けて立つの』
眼前で拳を構えたフルートとしばし睨み合い――ルシエラは額に手を当て嘆息した。
「私だって、都合よく利用されてるのはわかってんのよ。でも、いい? これはチャンスよ、フルート。このミッションを無事成功させれば、便利屋として箔がつく。あんたも子分そのいちとして、しっかり私に協力しなさい」
『ふざけんじゃねぇの。チンチクリンの子分になった覚えはないの』
言葉とは裏腹に、ルシエラの表情は晴れない。便利屋に大きな仕事が舞い込むようになれば、それは願ったりだが、そんなことがどうでも良くなるくらいに状況は芳しくない。
軽口を叩いていれば、多少気は紛れる。そう思っていたが。いくら振り払えども、雑念は次から次へと湧いて、先細った神経を刺激した。口では何と言おうとも、薄氷の床を踏み歩くような今の状況では、悪い想像ばかりが頭の中を支配していた。
この空間に漂う小麦の残り香に顔を埋めて眠れたら、きっと甘くて幸せな夢を見れるに違いない。だが、それを良しとしないもまた、ルシエラ自身であった。
無理矢理に話題を変える。
「……あいつの言ってたこと、どう思う?」
『なんのことかしら』
「人間が妖精になるって話。そんなことがあり得るわけ」
――イノセント。
ルシエラは胸中でその言葉を反芻した。
曰く、人間が妖精に変化していく過程。あるいは変貌した者を誰かがそう呼んだ。
提唱されたのは最近だろう。少なくとも、ルシエラが帝都の妖精学会に名ばかりの籍を置いていた当時、そんな話題は耳にしたことがなかった。
確かに、妖精の発生や成り立ちについて研究をしていた者はいた。それも芳しい成果をあげていなかったと記憶している。あまりにも突飛な内容過ぎて、誰からも相手にされなかっただけかもしれないが。
ルシエラにとっては信じ難い話だった。そんなことを真面目な顔で語る軍人に小説家への転向を勧めようかと考えたくらいに。
『どうかしら。そんなこと今まで気にしたこともなかったもの。でも、心当たりがないワケじゃないの』
「なんですって?」
『お前も見たでしょ。ワタシが夜語りって呼んだあのケダモノも、元を辿れば知性のないただの猫に過ぎなかったの。なにがどうなってワタシたちの同類になったかは知らないケド、さっきの話でいえばアレも、そのイノセントってことにならないかしら。あいつら、妖精のくせにただの人間からも見えてたと思うの』
反論しようとして、それでも喉につかえたように言葉が出ない。やがて、ただ単に自分がフルートや軍人の言うことを否定したいだけなのだと気づいて、目を逸らした。
フルートが例に挙げたのは二匹の白猫のことだろう。今思い返せば彼女の言う通り不自然ではあった。ルシエラは、無意識のうちに自分たちの行いが他人から見えているという前提で、彼女らと接していた。
この妖精の言う通り、あの白猫たちとノアが同じであるとしたら。人間の見た目をした妖精。
誰の目にも人間として映る、異質なもの。
ルシエラだけではなく、たとえば先ほどのドナト夫妻からも人間であると認識されていても矛盾はない。
確証はなくとも。イノセントという存在を裏付けてしまいそうな仮説に、肌が粟立つ。
(……じゃあ、私は? 次の瞬間までに私が人間のでいられる保証は一体どこにあるっていうの……)
『……ルーシィ?」
「……なんでもない」
漠然とした不安に強張る表情。ただ、今ここで検証や考察をするだけの材料が揃うはずもなく、考えるだけ時間は無意味に過ぎていく。
どうせ結論など出やしない。それよりも時間が惜しい。思考が堂々巡りになる前に、かぶりを振って気持ちを切り替えた。そもそもアレクシスとかいう軍人の言うことが真実と決まったわけではないのだから、と無理矢理自分を納得させて。
「いいわ。イノセントがどうとか、今は置いておく。とにかく、私がするべきことはノアの行方を探すこと。それでいいわね」
『おっけー』
フルートからそれ以上の追及はなかった。
あやふやな目標ではなく、最も優先すべきことを口に出してしまえば、それは実にシンプルだった。そして幸運にも、ルシエラはすでにそれを実現し得る手段を手にしている。キッチン全体を見渡さずとも、目的とするものはすぐ目に入った。
年季のはいったオーブン。正確には、そこに宿る妖精に。
「ピュラリス、起きて。あんたの力が必要なの」
オーブンに変化はない。そのまま待つこと十秒。気配が生じた。
それは、人間の息遣いや身動ぎしたときに生じる空気の乱れに似ている。
便利屋に棲み着く者たち。ルシエラが宿木を与えた妖精は、彼女の願いにいつだって応えてくれる――とは限らないが、姿を見せずとも何かしらの反応はある。
「ねぇ……——」
『……ルーシィ、どうしたの。こんな時間にパイを食べたら、また太っちゃうよ』
ルシエラの切実な声音に何かを察してくれたのだろう、一匹の妖精がオーブンの隙間から半分だけ顔を覗かせた。
「……今パイは食べないし、太ったこともない。ねぇ、あんたにお願いがあるの。あんたなら、火の気配を追えるでしょ」
『火? 魔法で編んだ火のことなら、うん」
人型ではあるが、やはり人間の造形とはかけ離れた姿。髪の毛の代わりに赤橙色の灯を揺らめかせる、小さな妖精。
気弱な表情以外はフルートとよく似ている。妖精に血の繋がりという概念があるのかどうかは定かではないが、フルートは彼女のことを末妹と呼んでいた。
『……なにかあったの?』
「ビッグトラブルよ。今日の朝まで一緒にいた女の子のこと、覚えてるでしょ。あの子の身に危険が迫ってる。あの子がどこにいるか、あなたならわかるんじゃないかって」
オーブンに住まう妖精、ピュラリスは首を傾げながら黒目を瞬かせた。
『ルーシィ、変なの。あの子は人間だよ』
『末妹。つべこべ言わずさっさと探すの』
「フルート、静かに。ピュラリス、それについて説明するには、今は時間が足りないわ。とにかくあの子の気配か、もしくは火の魔法を使った痕跡を辿って」
『……あとでまたパイを焼いてくれる?』
「いくらでも」
『じゃあ、がんばってみるね」
ピュラリスが目を閉じて、部屋には再び静けさが訪れた。ただ彼女の煌めきが、キッチンに落ちた影の形を不規則に変化させる。音はない。が、空気には変化があった。時間にしてみれば、ほんの数秒に過ぎない。もどかしいその時間を埋めるように、ほのかな熱がルシエラの肌を撫でていくのを感じていた。
やがて
『……見つけた』
ピュラリスが静かに呟いた。オーブンの陰に姿を隠したままの妖精が、どこか誇らしげに見えた。少し声のトーンを上げて彼女は続ける。
『ついさっきだよ。本当についさっき。とっても大きな反応があった』
魔法で生み出された火が感知された。
予測していたとはいえ、心境は複雑だ。
眉間に皺を寄せ、強く瞼を瞑る。ノアがまだ死んでいなかったという安堵と、彼女が自分の知らない何者かに変貌しつつあるということへの慨嘆とで、心臓が冷たく締め付けられる。
「……座標は」
声が掠れて、ルシエラは途中で言葉を切った。ピュラリスはこちらの意を汲んで、その続きを引き受ける。
『地図はある?』
『はいよ、なの』
フルートが指をひとつ鳴らす。室内にひとひらの風が起こり、壁際に畳んで掛けてあった地図を、そっとテーブルの上へと運ぶ。音もなく広がった紙の上に、オーブンの中から、赤い火の粉がふわりと一粒、舞い降りた。
それは地図の一角――ここからそう離れていない廃墟街の地点に、静かに落ちた。
「ありがとう、ピュラリス」
ルシエラが囁くように礼を述べると、オーブンの奥から、どこか照れたような返事が返ってきた。
『いいの。ルーシィがいるおかげで、パイがたくさん焼けるから』
その声のあたたかさに、一瞬だけ緊張が解ける。しかし、彼女の声はすぐさま微細な怯懦を湛えたものへと切り替わる。
『でも、お願いだから気をつけてね。感知した火の痕跡は……あの子の感情そのものだった。どろどろして、怒ってて、泣いてるみたいで――すごく強い憎しみとか、壊れそうなくらいの嫉妬がぎゅっと詰まってた。あんまり長い時間感知しようとすると、わたしの気持ちまで飲まれそうになっちゃうくらいに』
「憎しみと……嫉妬」
物静かだったノアの佇まいと、その二つの言葉がどうも結びつかないが。短期間で、それほどまでに彼女の感情を揺さぶる何かがあったのだともいえた。犯罪におけるヒエラルキーの頂点に君臨するマフィアが相手であると考えれば、どれだけ凄惨な妄想でも現実になり得る。
杖を握る指が小刻みに震えていた。
助けられる保証など、どこにもない。それでも彼女のために体は動く。二匹の白猫に唆されたからでも、胡散臭い軍人に依頼されたからでもない。理由を述べるとすれば、ただ何となく放っておけなかった。仮に誰かに言われなかったとしても、結局はこうなっていたような気もする。
心の端に何か引っかかるものを感じながら、ルシエラは呟いた。
「ねぇ、もしかしてなんだけど……私ってお人好しなのかしら」
『うん』
『だからそう言ってるの』
即答した妖精たちの、至って真面目な顔に苦笑で返す。
(そう……それなら――)
(力があってよかった。妖精使いでよかった)
そんなことを思ったのは多分、生まれて初めてだったかもしれない。
人を助けたいと思っていても、誰かを救いたいとも望んでいても、その手段を持ち合わせていない者は数えきれないほどいる。だが、ルシエラには魔法があった。銃よりもナイフよりも、もっと自由で、自分の意志で使える魔法が。
目を合わせれば、妖精は腕を組んで鼻を鳴らした。
「フルート、悪いけどまたあんたに手伝ってもらうことになるわ」
『今更言わなくてもわかってるの。さっさと行って帰ってくるの』
拒絶はしない。何だかんだと文句を言いつつも、この妖精もまた、お人好しなのだと思う。
ルシエラはひとつ息をつき、顔を上げる。
キッチンにまだ残った、パイの香り。
感傷に浸る時間は残されていなかった。
***
静かな夜だった。
人は朝に目を覚まし、夜には眠りにつく。だから、夜が静かであると言うことは当たり前のはずだった。そんな当たり前が当たり前ではなくなったのは、旧帝都に降りてきた三年前のことだ。
眠らない街。歓楽と欲望の都市。誰かが罪の都と呼んでいたが、未だにステラは、これ以上しっくりくる言葉を見つけることができずにいる。
身分を隠し、名前を変え、髪を染め直す度に、何か大事なものを忘れていくような気がしていた。
それは都合のいい忘却であるといえるだろう。庭園に吹き抜ける風の香りも、誰かに縋られる感触も、すべて磨かれたガラスの奥に押し込めてしまえるような。
——二人で花を見ていたことを、時折思い出す。
父の見栄のために咲く花を、いつも噴水の縁に腰掛けて眺めていた。
腹違いの妹。陰気で言葉数の少ない、ただの妹。
彼女はアングレカムの花を好んで見ていた。
「ここはいつも曇ってるから」
理由を問うと、妹はそう答えた。そのときにはまるで意味が理解できなかったが、今ならなんとなくわかる。
帝都の空が晴れることは珍しい。星が観察できるのは、ほんのわずかなタイミングだけ。そして旧帝都ではその数少ない機会すら、大地を照らす人工の光が奪っていってしまう。
星が見たいと思った。できないのであれば、せめてあの花をと。
普段なら気にしないようなことを考えてしまうのは、珍しく夜が静かなせいだろうか。それとも、別れた妹のことを思い出してしまったからだろうか。
「——ステラ?」
隣を歩くアンバーの声で、はっと現実に引き戻された。
「あ、ごめん。またぼーっとしてた……えーっと、なんの話だっけ」
「ちょっとぉ」
アンバーが口を尖らせて抗議の声を上げる。帰宅する道中、彼女はずっとステラに向かって喋りかけ続けていた。気を遣わせてしまっていることを申し訳なく思いつつも、心はどこか遠くへと流されてしまいそうになる。
アンバーもそれを察しているのだろう。それ以上ステラを責めることはなかった。眉を寄せながらこちらを覗き込む彼女の顔を見返す。
「あのさ……」
ため息を呑み込んで、言葉にする。だが、口にしてから特に何かを言いたかったわけでもなかったことに気づき、口ごもった。
アンバーは何も言わず、ただ待っている。意味のない言葉でも構わないとでも伝えるように。そんな彼女であるからこそ、ステラは続く言葉を躊躇しなかった。
「放火の犯人のことなんだけどさ。もしかしたら私の知ってる人かもしれないんだ。だから」
「だから?」
「私だったら……止められるのかな」
「止めて、どうするの?」
「どう……——どうすればいいんだろ。わかんないや」
答えなど出るはずもない。ただ漠然とした疑問だけが浮かんでくる。
アンバーが立ち止まった気配を感じて、ステラも足を止めた。彼女の大きな瞳が、真っすぐにこちらを見据えている。
「その人がステラにとってどういう人かなんて、私は知らない。想像はできるけど、それはただの想像でしかないの。だからこそ言うよ。絶対に関わらないで」
「…………」
自分がアンバーの立場なら、どう答えただろうか。口を開きかけて、閉じる。視線を逸らさないままアンバーが続けた。
「組織が動いてるの。遅かれ早かれ、犯人は捕まって殺される。今ステラが止めたって、それは変わらないよ。だったら、ステラが危ない目に合う必要はないじゃん。関わりがあるってマフィアから思われたらどうするの? ステラが」
深い呼吸をひとつ挟み、
「もしステラが死んじゃったら……私、生きていけない」
「……アンバーは」
視線を地面に落とす途中で、アンバーの膝が小刻みに震えているのが目に入った。
「アンバーは、もし私が犯人だったら、どうする?」
「私が殺してあげる」
息を吞む。
即答だった。
それは先の答えとは矛盾した言葉だったが――アンバーは瞳に強い意志を込めて、きっぱりと言い放った。
「絶対、マフィアなんかにステラは殺させない。あんな奴らに、ステラを汚させるもんか」
「…………」
胸に込み上げてきたのは、嬉しいとか悲しいといった、決して単純な感情ではなかった。ただ彼女が自分のこれまでの疑問に対して、答えを導いてくれたような感覚に陥っていた。
つまり――ステラ自身、ずっとその考えを持ち合わせていたのだと、気づかされたことに胸が締め付けられるような痛みが走った。
「なるほど。素晴らしい友情——いや愛情かな、これは」
突如聞こえてきた声は、その場の空気にはあまりにも場違いな――軽薄なものだった。声のした方向へ、アンバーを庇うようにして振り向く。
「迎えに来たよ、ステラ――いや、カルラ・リセルナイン」
夜闇のなかで気配も感じさせずに佇んでいたのは、人当たりの良い笑みを浮かべた、軍服を身に纏った男だった。