10
雑居ビルの四階に便利屋の事務所はある。一階は簡素なエントランスで、郵便受けとエレベーターが設置されているだけ。二階は未利用フロアで、三階には怪しげな雑貨を扱う店が看板を掲げているはずだが、そこに人が出入りしているところを見たことがなかった。店主の顔も知らないし、そもそも営業しているのかどうかすらも疑わしい。とっくに夜逃げでもしたか、あるいは店を開けられない事情でもできたのかもしれない。いずれにしても、このビルを実質的に利用しているのは、稀に訪れる便利屋の客を除けば、ルシエラだけということになる。
ルシエラは、杖を握りしめたままエントランスへと足を踏み入れた。人の気配はない。フルートを飛ばして周辺を探らせたが、ビルを見張る人影も見当たらなかった。
それでも警戒は解かない。
自分が襲撃する側であれば――それも相手が妖精使いであるとわかっているのであれば、絶対に正面から戦おうなどとは考えない。待ち伏せや罠を駆使して、徹底的に不意を突くことに尽力する。そうして精神に負担をかけ、集中力を削いだうえで制圧に取り掛かるだろう。
これは決して、ルシエラが自身を過大評価しているわけではなく、どんな魔法を使ってくるのか未知数な妖精使いを制圧するためには、必要最低限の戦略である。
だからこれは、マフィアにもその程度の心得はあるだろう、という予測。ルシエラが妖精使いであるという情報は容易く手に入る。ノアと関わりを持ってからの、たった一日程度の時間でも容易に辿り着くほどに。
エレベーターの前まで辿り着く。インジケーターは四階を示していた。
息を呑む。
夜の闇が、その一瞬で濃淡を変えることはないが、何者かの影を踏みつけているような想像が、頭を駆け巡る。真っ暗なエントランスで、ぼんやりと浮かび上がる数字から目を離さぬまま後ずさった。
「フルート、エレベーターはナシよ。音で気付かれるし、トラップが仕掛けてあるかもしれない」
『逃げないの?』
「確かにそれが最善。でも、相手が誰なのか確信が得られれば、今後取れる選択肢は間違いなく増える」
囁きつつ、ビルの外に向かう。ルシエラが出かけている間にここを訪れて、そして未だに留まり続けている人物の正体が何であれ、まともな目的があるとは思えない。少なくとも便利屋に依頼を持ってきた客ではないことも確かだった。
首を上に向けた先で、沈黙を保つビル。高い。が、ここに風が吹くのであれば、高さは障害にはなり得ない。
呼吸を深く、意識は波紋のように広げる。
宿木を介してフルートと繋がる感覚に身を任せてしまえば。
準備は一瞬で終わる。
魔法は静かに発動する。重力に逆らい、自然に吹く風音に紛れて浮かび上がったルシエラは、慎重な足取りで四階のベランダに降り立った。
耳を澄まし、壁の向こうへと神経を細く、薄く引き伸ばす。息を殺して、目を凝らして、ブラインドの隙間から室内を探る。
(いる)
侵入者は、すぐに見つかった。
真っ暗な室内で動く影がひとつ。明かりこそ点けていないが、思っていたよりもずっと堂々としている。床を叩く足音と、酷く音程の外れた鼻歌がガラス越しに聞こえてきた。侵入していることを隠すつもりは無いらしい。
自信の表れか、あるいは何も考えていない阿保の類か。探れる範囲には、物音も気配も一人分。フルートに目線で合図すると、彼女はウィンクでこちらの意思に応える。
躊躇なく、窓に向けて魔法を放った。
空気の塊が窓を突き破り、ガラス片が空間を舞う硬質な音がこだまする。次いで、情けない悲鳴が室内に響いた。
人影が家具を巻き込んで倒れ込むのと同時、ルシエラは勢い良く部屋に飛び込んだ。
「両手を挙げて、動かないで。所属と人数、ここに来た目的を七秒以内に」
ひっくり返った姿勢のままうめき声を上げる侵入者に、油断なく杖を向け鋭く言い放つ。一瞬だけフルートに目配せすると、すでに彼女はルシエラの意を汲み取っていたのか、ランプの紐にしがみつき、体全体を使って真下に引っ張っていた。次の瞬間には視界から闇が取り払われ、ルシエラが放った魔法で、滅茶苦茶になった部屋の惨状が露わになる。
男がいた。倒れたソファに尻餅をつく形で両手を挙げた、黒髪の若い男。こちらに向けて媚びるような、引き攣った笑みを浮かべた男は、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれないかな。多分、君は誤解してる……!」
「七秒経ったわ」
感情を込めぬまま、ルシエラは告げた。
杖の先端に風が集まり、ガラス片を巻き込んで一塊となる。目に見えて殺傷力のある魔法を目の当たりにし、男の顔から笑みが消え失せた。
「て、帝国軍第三監視課所属、アレクシス・モルヴァン。ここへは僕一人で来た。その……なんていうか、信じてないって顔だね。君が許可してくれるなら、すぐにでも証明できるけど」
「動かないで」
鋭く言い放つ。しかし男は警告を無視して、胸元に手を伸ばした。舌打ちとともに、ルシエラは彼の右手に向けて、すぐさまガラス片をいくつか飛ばす。
単なる脅しだ。銃弾のような威力があるわけでもなければ、ナイフのような鋭利さがあるわけでもない。この程度で無力化できるなどとは考えていなかった。事実、彼は一瞬だけ痛みに怯んだ様子を見せたが、胸元を漁るのを止めなかった。
「ポケットに身分証があるんだ。見るだけでいい。投げるよ、ほら……!」
アレクシスと名乗った男は、ゆっくりと胸元のポケットから金属製のバッジを取り出すと、床の上に転がすようにしてこちらに放った。バッジは月の紋章と剣の意匠――それは紛れもなく、彼が帝国軍に所属していることを示していた。
襲撃があるとすれば、マフィアの人間だろうと予測していたルシエラからすれば、軍人に不法侵入される理由が全く思い当たらない。
無論、バッジが模造品や盗品の類である可能性もある。ただ、それを疑ったところで、彼の身分を今この場で裏付けることはできない。
ひとまずは納得することにして、続きを促した。
「仮にあんたが 軍の人間だとして、私に何の用があるわけ」
「君の噂は聞いてるよ、ルシエラ・サリニャック。優秀な妖精使いである君が、どうして学会から姿を消したかについては、今でも色んな憶測が飛び交っているけど、僕にとってはそんなの些細なことさ。ただ君が……」
風の裂く音が、彼の言葉を遮った。ルシエラの杖の先に集まっていた空気が鋭くうねり、ガラス片もろともアレクシスの喉元まで肉薄した。冷たく尖った切っ先が、肌に触れるほどの距離で静止する。
目が合って、ルシエラはにこりと微笑んだ。男の笑顔がひきつり、喉がごくりと上下する。
「ヨーグルトしか口にできないようになる前に、私の質問に答えたほうがいいんじゃないかしら」
「……あのさ、家主の不在中に勝手に入り込んだことは謝るよ。でも、外で待っていたら風邪を引きそうだったし、何よりこんな物騒な場所でひとり待ちぼうけってのも心細くて――だから、その……杖を下ろして、温かい紅茶でも飲みながら、落ち着いて話ができたらな……なんて思うんだけど」
額に汗を滲ませ、早口で弁明の言葉を口にする軍人は、暴力とは無縁そうな、ひとことで表せば優男そのものだった。どこか鈍くさそうな印象すら受ける。軍服を身に着けていなければ、葱を背負ってやって来た鴨としか扱われないような。敵意は感じない。脅威も。ゆえに得体が知れなかった。そんな人間が、果たしてたった一人で目標に近づくだろうか。
ルシエラはいつでも彼の喉を切り裂けるよう構えつつ、笑みを消した。声を低くして告げる。
「これが最後よ。目的はなに」
鼓膜を貫きそうな程に風音は鋭さを増す。彼は観念した様子で窓の向こうへ目をやった。
「……——任務さ。非公式だけどね。旧帝都の連続放火事件の最重要人物であり、先月から行方不明になっているリセルナイン家の御令嬢、ノア・リセルナイン。彼女を保護するために君のところに来たんだけど」
一拍。ルシエラを見つめて、困ったように彼は笑う。
「彼女、どこにいったんだい?」
***
「リセルナインといえば、帝国建国期から現在に至るまで、議会の一翼を担い続ける名門中の名門だ。大戦後、上流階級の食い扶持を守ろうと必死だった周辺国に代わって、いち早く難民救済の策を打ち出し、それを実行するに至った先代議員の才幹は大したものだった……っと」
倒れたソファを起こした軍人は、腰に手を当てて部屋を見渡した。彼が重心の位置を変えるたび、ガラス片を踏みつける細かな音が、合いの手のように差し込まれる。
その音が不愉快なわけではない。ただ回りくどい、なかなか結論に至りそうもない軍人の独り言を、ルシエラは横倒しになった本棚に腰かけたまま聞き流していた。
「今は、ひとり息子であるセオドア・リセルナインがその席に座っているけれども……まぁ、話題に事欠かない――もっと言えばスキャンダラスな人物だよ、彼は。先代譲りの政治手腕がなければ、ゴシップ好きな貴婦人たちの餌食になって、とっくに失墜していただろうね」
「刺されておっ死ぬほうが早いわよ」
適当に返しながら考えるのは、無論、政治家のくだらない性事情などではなく、自分自身の進退について。
襲撃はない。今のところは。この優男が、軍人を騙った殺し屋の類であれば話は別だが、それがあまりにも危険な行為であることくらい、学のないチンピラでも知っていることだった。
軍、すなわち帝国の実働部隊がノアを追っている。この男は非公式任務であると言い張っているが、真実を語っているかどうかなど、ルシエラに判断することはできない。
見えない線が、複雑な軌道を描いて張り巡らされている。歩幅を誤れば、足が吹き飛ぶかもしれない、火薬の匂いが充満した地雷原。実際、それを避けることはそう難しくはない。厄介なのは、望んでいないにも関わらず、軍やマフィア、あるいは記憶喪失の少女が、次々とルシエラの方へと引き寄せられてくることだった。
「で、あんたはいつまでここにいるつもりなの」
「 さっき言ったように、僕の目的はノア・リセルナインの保護だ。お互い、協力できることもあると思うんだけど」
「……私があの子を助けようとしてる前提で話が進んでないかしら」
「あれ、違ったかな」
その通りではあったが、素直に認めるのが癪で、ルシエラは彼の言葉を無視した。それを都合良く解釈したのか、アレクシスが微笑みかけてくる。
端正な顔つき。男娼ならきっと一財産は築けるほどの。軍服を着ていなければ、雑誌の表紙を飾るモデルにでも見えたかもしれない。ただその恵まれた容姿や柔和な態度が、どこか作り物のように思えてしまうのは、自分の性格が捻くれているから、という理由だけではなさそうだが。
「セオドア氏とは個人的な付き合いがあってね。彼は世間で思われているほど冷酷じゃないよ。むしろ女性に対してはとても紳士的で、情が深い人物だ。ノア・リセルナインの捜索も、彼から頼まれたわけだし」
「そりゃあ、自分の娘なんだから――」
当たり前でしょう。そう言いかけて、ルシエラは口を噤んだ。その当たり前を享受できない子供が、旧帝都にどれだけいるかを思い出して。
と、疑問が浮かぶ。軍人の語る父親像と、ノアが溢した境遇には乖離があるように思えた。彼女は、家であまり良い扱いを受けていなかったようだが。ただそれはあくまでも、ノアの主観であり、第三者の目線から観察するのであれば、彼女の着る衣服は上等な品だったし、それを纏う四肢が極端に痩せこけていたわけでもなかった。
反抗期の家出娘。状況はそう告げている。だがその一言で片づけるのはあまりにも乱暴なように感じる。
ルシエラの怪訝な表情から、アレクシスはその疑問を汲み取ってくれたらしい。彼は少しだけ眉を落とした。
「彼女の存在は、氏にとってあまり公言できるものではなかったからね。ノア・リセルナインは、セオドア氏の実姉との間に生まれた子供だった」
「……そう」
滔々と、淡々と。悲劇的な物語を、なんでもないことのように述べるアレクシスから、ルシエラは目を逸らして答えた。
リセルナインの不都合な真実を、ノアが知っていたとすれば、彼女の態度も腑に落ちるところではあった。
瞼を下ろす。他人の過去など、知ったところで何ができるわけでもない。変えようのないものに心を痛める人間は愚かであると、理性が囁く。ルシエラは口を開こうとして、しかし自分の感情を上手く言葉にすることができず、押し黙った。
窓から吹き込む冷たい風が、沈黙を運んでくる。停滞した会話の間を埋めるように、散乱したガラスとコンクリート床の擦れ合う音が響いている。瞼を薄く開いて、その音の出どころへと視線を向ける。
ため息をつくかたわらで、勝手に動きまわる箒が、観葉植物の鉢からこぼれ出た土や割れたティーカップの欠片をせっせと集めていた。もちろん、ルシエラが打ち抜いた窓ガラスの破片も。ソファに体を沈めたアレクシスが、足元を通り過ぎていく箒を横目で見送り、うめく。
「……あれ、どこの製品?」
「ただの箒よ。穂先の隙間に妖精が隠れているだけ」
「妖精使いっていうのは、ハウスキーパーいらずなんだね」
話題が移り変わったことに、内心で胸を撫で下ろしながら答える。
「気難しくて扱いが大変だけど。家を綺麗にしすぎると、定期的に癇癪を起こす」
へぇ、と感心したように相槌を打ち、彼はルシエラの杖に目を向けた。
「軍の適性検査じゃ、妖精使いの才能はゼロだって言われた。すっごく集中して、やっと気配がわかる程度じゃ仕方ないけどね」
「……第三のくせに、それで妖精使いの相手が務まるわけ」
虚を突かれたように固まったアレクシスは、ややあってバツが悪そうに苦笑を漏らした。置き場を失ったように虚空を彷徨う手を額にやり、大袈裟にかぶりを振る。
「なにも妖精そのものを相手にするわけじゃないからね。魔法を犯罪に使う妖精使いだとか、悪戯好きの妖精に唆された妖精憑き――第三監視課が相手にするのはあくまでも人間さ。もちろん才能があるに越したことはないけれど、絶対に必要ってわけじゃない」
妖精使いは、それぞれが魔法という凶器を手にしている。それにも関わらず、彼らに課せられた制限は少ない。五年に一度は論文を提出したり、有事の際の召集に応じる必要があったりする以外、法を犯さない限りは自由に生活して構わないとされている。
「あんたらは、いざって時だけ飛んできて、人を裁く側に回る。便利な立場ね」
「……そう思われても仕方ないかもね。でも実際、君らの自由の代わりに、僕らはそのツケを払ってるつもりさ」
それは、妖精使いに限らない。妖精憑きであっても、申告さえしておけば一般人と何ら変わらない日々を過ごすことができる。だからこそ、そういった者たちが身に余る力に魅入られないよう、抑止力が必要だった。実際、第三監視課が設立されてからは、妖精使いの犯罪率が大幅に減ったらしい。
そして度々起きる妖精絡みの事象においては、妖精使いのライセンス保持者と帝国軍が共同歩調を取ることも珍しくない。
(少なくともノアが妖精憑きであることは、ほぼ確定。あとは――)
半ば確信を持って呟く。
「協力って言った? たかだか子供の火遊びの後始末でしょう」
「相手が悪かった、としか。組織の経営する店ばかりを狙われたヴェルデ・ロッソは、天秤を傾けようとする者の存在を疑っている。真偽がどうであれ、その火種をさらに大きく燃え上がらせようとする勢力も現れるだろう」
アレクシスの眼差しは真剣だった。それに、と一呼吸置いて彼は続ける。
「マフィア同士の戦争になるだけなら――よくはないけど――まだマシさ。事態はもう少し、複雑で深刻だ。君、イノセントって言葉に聞き覚えは?」
聞き慣れない単語に、ルシエラは眉をひそめた。首を振って応える。アレクシスはそれを予測していたように、頷いてみせた。
「訓練を受けていない妖精憑きが、度々凄惨な事件を起こすことは知っているだろう。最近で言えばレイニアのバラバラ殺人とか。ああ……でもアレはライセンスを取得して間もない妖精使いが犯人だったっけ」
まぁいいか、と呟き、彼は続ける。
「これまでは単なる偶然か、妖精の囁きを真に受けて発狂した結果として考えられていたけど」
アレクシスは再び言葉を切った。天井を仰いで、前髪をかき上げる。そして、少し躊躇うように視線を彷徨わせる。
「彼らが人と妖精の中間にいる存在だということがわかった。もっとわかり易く言えば、人という種が妖精に変化していっているのだと。それを、妖精学会はイノセント、と呼んでいる。その状態では肉体的にはまだ人間と同じだけど、精神性は――」
「バカなことを言わないで」
鋭く言い放って、ルシエラは立ち上がった。ゆったりと足を組む軍人を見下ろして、杖の先端を突きつける。だが彼は慌てる様子もなく息をつくと、真っ直ぐにこちらを見据えた。
冗談を告げているような表情には見えない。だからといってそうあっさりと飲み込めるような話でもなかった。
「私がそんな与太を真に受けるとでも思った? ピンク街の客引きでももっとマシな文句を思いつくわよ」
「けど、それなりに信憑性のある話さ。そして、こんな話を君にしたのだから、ノア・リセルナインもまた、イノセントである可能性が高いってことは理解してもらえるよね。被害が広がれば、本格的に帝国軍が介入するだろう。そんなことは、この街の誰もが望んでいないと思うけどね」
静かに告げられた言葉が、耳の奥に流れ込んでくる。彼の言葉は旧帝都の住民全てに向けた、脅迫のようにも聞こえる。先ほどまでこの男に抱いていた、気弱なイメージはもうない。ルシエラは、杖を抱えた腕が僅かに震えるのを感じた。
「ま、君が信じようと信じまいと、彼女が危険に晒されているのは事実だ。襲ったのは間違いなくマフィアの人間だろう。もうあまり時間はないよ」
「あの子はどうなるの」
「殺されるんじゃないかな。ヴェルデ・ロッソに限らず、マフィアってのは自分たちの顔に泥を塗られるのを何よりも嫌うからね」
それはルシエラもよく知っている。知っていたからこそ、今日までやってこれた。
「……マフィアは臨戦態勢になってる。それはノアに対してじゃなくて、その先にいるかもしれない仮想の敵に対してよ。ノアから情報を聞き出そうとするはず」
すぐには殺されない。しかしそれがどれだけの猶予となるのか。
手だてを講じるだけの時間はない。つまり
「あんたは私にマフィアとやり合えって言うのね」
「君だけじゃないさ」
ルシエラの厳しい口調から逃れるように、アレクシスは視線を横にしながら肩をすくめた。溜息が漏れる。しかしルシエラはこの件で、それ以上彼を追及するつもりはなかった。
この男に言われるまでもなく、ルシエラがやろうとしていたことだったから。
とはいえ、マフィア相手に一人で立ち向かえると思っているほど、ルシエラは自分を買い被ってはいない。それは彼も同じなのだろう。人間が妖精になる、などという突拍子もない話を信じたわけではない。しかし、この男はルシエラの知らないことを知っている。そして起こり得る最悪の未来を、容易に想像させるだけの説得力もあった。
アレクシスの提案は、理に適っているように思えた。
「あんたはノアを保護するって言ってたけど、そのあとはどうするつもり」
「セオドア氏からはとにかく身の安全を確保するように、とだけ言われている。それからは……どうだろうね。彼女が制御不可能な状態に陥っているのであれば、処分されるかな」
残念だけど、と軽い調子で付け加えたアレクシスを、ルシエラは睨みつけた。処分、という言葉にどんな意味が込められているかなど、今さら聞くまでもない。
公共の敵となった妖精憑きを排除すること。しかし、彼は非公式の任務であると告げていた。
「ノアはカルラに会いたがっていたわ」
「カルラ・リセルナイン。それはいい。ちょうも僕も彼女に用事があったんだ」
小さく唇の端を持ち上げたアレクシスの口調に、眉をひそめながらも、敢えてそれを無視した。体の中心に不穏なものが込み上げてくる気配を振り払い、杖で明後日の方向を指す。
「 そう言うからには、アテがあるんでしょ。あんたはカルラを連れてきて。ノアは、私が探す」
「どうやって?」
「あの子が火の魔法を使うなら、見つるのは容易い」
即座に返すと、彼に背を向けた。そのまま廊下に向かう。床には埃ひとつ落ちておらず、歩みを妨げるものは何もなかった。
背後から、くすくすと場違いな笑い声があがる。
「これはリセルナイン家からの正式な依頼と思ってもらって構わない。ルシエラ・サリニャック、露払いは僕が引き受けよう」
ルシエラは振り返らなかった。