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小刻みに明滅する街灯の光は、自らの影を踏む少女の心音に同調しているようだった。
湿気た風にさらわれた吐息が溶け、そのまま頭上で雨が降りそうな重さに圧される。視線は彷徨い、汗ばんだ肌から色彩を欠いた路地の奥へと巡る。
旧帝都で一般的に流通している四輪キャブレター車が辛うじてすれ違える程度の細道は、入り組んだ街の構造をそのまま表すように十字路を形成して、いつだって足を踏み入れる者の歩みを惑わせた。
昼間でも薄暗く、月明かりのない夜は頼りない街灯が不安を募らせる。
空き家と倉庫と。同じ建物は一つとしてないが、かといって目印になるほど特徴的な建造物が並ぶわけでもない。ある程度の土地勘を持っていたとしても、目的地にたどり着くために案内人を雇うことは、決して珍しいことではなかった。
それを不便と思う者が大半であったとしても、その恩恵を享受する人間がいるのも事実ではある。少なくとも後ろ暗い事情や思惑を抱えた者にとって、影の中で息を潜めることは余計なトラブルを避けられるという点で大きなメリットとなっていた。
無許可で非合法薬物や銃火器を扱う売人。恨みを買いやすい情報屋。彼らが密かに商売をするにはうってつけの場所だろう。
あるいはその逆も。大衆の目に晒されることのない空間で何か不幸な出来事が起きようとも、悲鳴は聞き留められず、居もしない他人に助けを求めることもできない。つまりここを歩くことができるのは、そういったリスクを理解し、ある程度は自分の身を自分で守れる者に限られた。
当然、非力な子供や華奢な女性はそれに当てはまらない。
彼女が後悔していたのは、そういった事情を十二分に理解していたからこそだった。少々遠回りになるとはいえ、通行人が多く明るい大通り――それが安全かどうかはともかく――を選んで帰路に就くべきであったと。そうすれば少なくとも、十字路の陰から突然飛び出してきた柄の悪い男たちに道を塞がれるようなこともなかっただろうから。
声にならない罵倒の言葉が喉をすり潰すのを感じながら、頭蓋の奥まで響く鼓動を抑えつけようと胸に手をやる。普段どれだけ夜道を警戒しながら歩いていようとも、予期せぬ角度とタイミングで人が現れたら、悲鳴の一つくらいは上げるものだが、他人に弱みを見せないことを第一に心掛けている少女にとって、これくらいの我慢は容易いものだった。
担いだ杖の留め具が軋む音で気を取り直した少女は、ゆっくりと言葉を絞り出した。
「……何か、用?」
動揺を悟られまいと押し殺した声は、光と暗闇との境界に霞んで消える。
「…………」
返ってきたのは沈黙だった。代わりに頭からつま先までを舐めるような視線が少女の体を這う。
男が二人。彼女の正面に立ち塞がる頭を剃り上げた筋骨隆々の男と、その少し後ろでこれみよがしに拳銃をちらつかせる小太りの男。
彼らの顔に見覚えはなかった。ただ、粗暴な男たちだということはわかる。人相や服装で人となりが判断できるとは限らないが、多くの場合で予想が大きく外れることはない。
「……こいつか?」
無遠慮に少女を眺める男の声は、外見に違わず高圧的で野太いものだった。
「こんな時間にこんな場所をうろついてるガキが他にいるってんじゃなけりゃ、こいつで合ってるんだろうよ」
小太りの男が銃身で少女を指しながら返す。
「だがよ、標的になってんのは赤毛って話じゃなかったか? 見ろ、このガキは金髪だ」
「ガキなんざどいつも一緒だろ。ちっ、面倒くせぇ。どっちにしても、この会話を聞いて、俺たちの顔を見たこいつを、このまま逃がすことの方が問題だぜ」
「それもそうか」
少女を無視して行われるやり取りを聞きながら、彼女は少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。男たちを視界に収めたまま杖へと意識をやる。
彼らの話す言葉の意味を嚙み砕くまでもない。予想通り真っ当な連中ではなかったと、内心で溜息をつく。殺し屋、傭兵、ギャング。そんなところだろうか。ただ暴力を生業にする中でも、一層格の劣る者であるということは確かだった。優秀な殺し屋であれば、標的の前にわざわざ姿を現す必要もなく、まして悠長に会話することなどあり得ない。それを自信の表れとも捉えることはできるが、立ち振る舞いからして使い走りのチンピラだろうことは想像に難くなかった。
彼らに対して少女が下した評価は、その程度のものだった。
「ってなわけで」
どういうわけで、と尋ねる間もなく。正面の男は懐から取り出した大口径拳銃を。小太りの男は元々手にしていた得物を、それぞれ少女に向けて構えた。
「大人しく殺されてくれねぇかってな。まぁ……俺たちとしちゃ手前が死んでようが生きてようがどっちでもいいんだが、逃げるのも抵抗するのも、どうせ無駄になっちまう。だったら、お互い面倒は少ない方がいいってことだ」
彼の言うことにも一理はあった。どうせ同じ結果が待ち受けているとしたならば、そこに至るまでの面倒は出来るだけ少ない方がいい。この場合、彼女の望む結果は五体満足で家に辿り着くこと。そして面倒事とは言うまでもなく目の前のチンピラ二人組だった。
有無を言わさず身勝手な事情を垂れ流す男を一瞥し、少女は一歩前に踏み出した。
「口径の大きさが、知能レベルとは反比例するって話……アレ、本当みたいね」
「……はぁ?」
怪訝そうに眉を寄せた二人を無視して、杖を掴む。その頃には、少女の心拍は普段と変わらないリズムを刻んでいた。
すでに動揺はない。これは――こういったことは、旧帝都ではよくあることなのだから。
「馬鹿って言ったのよ」
一言告げて。
少女は自身に向けられた銃口から身を逸らすようにその場にしゃがみ込む。そのまま抜き放った杖を、男の足に向けて払うように振った。
少女と男の体格差を考えれば打撃とすら呼べない軽い一撃。だが
「飛んで」
少女が力を込めずとも。
屈強な男の身体は空中で派手に一回転して地面に落ちた。一発だけ銃声を鳴らした拳銃が、案外軽い音を立てて暗がりへと転がっていく。
受け身を取る間もなく倒れ伏した男は、顔を押さえながらうめき声を上げる。痛みに悶えて、立ち上がる気配はない。
少女は、耳鳴りと、辺りに立ちこめる硝煙の匂いとに顔をしかめながら、街灯の光を反射し輝く男の頭頂部に向けて、今度は力一杯に杖を振り下ろした。
鈍い音を立てて、男の額が地面に跳ね返る。意識を失ったのか、苦悶の声が途切れ、彼はそのまま動かなくなった。
死んではいないだろうが、顔面か首の骨一つくらいは折れたかもしれない。非力な少女による殴打の威力など知れているとはいえ、それなりに鍛えていただろう大男が一方的に打ちのめされる光景は、それだけで残された者への牽制になる。
「ど、どうやって――」
先ほどまで絶対的な優位を確信していたであろう男が、狼狽した声を上げて数歩後退った。
「喧嘩を売るなら相手は選ばないとね」
少女の振るった杖の先端。簡素な装飾によって際立った深緑の宝石の周りに空気が渦巻き、瞬きでもしているように淡く光を纏っている。
それを目にした男が頬を震わせて、しゃっくりのような短い悲鳴を漏らす。
「妖精憑き——!」
「正解。けど、その呼び方って嫌いなのよね」
男が道端に落ちていた角材に躓き、尻もちをつく。彼は立ち上がる間も惜しむように、そのままの姿勢で何度も引き金を絞るが、ろくに狙いも定まらぬままに放たれた銃弾は、少女の体に掠ることもなく暗闇の中に消えていった。
開いた距離を縮めるべく、少女は倒れた男を踏みつけて一人残されたチンピラに近づいていく。引き攣った声を上げる彼の姿は、殺し屋を前にした標的のようで――その滑稽さに、思わず少女は苦笑をこぼした。
最早、戦意は失われている。このまま彼らを放って立ち去っても、背後から襲われることはないだろうが。
この手の輩は、適度に痛めつけて恐怖を植え付けておく方が、後々の報復の憂いが減る。とはいえ、それでもなお良からぬことを考える馬鹿が多いのも事実ではあった。
……そのときのことは、またそのときに考えればいい。
男の言葉を借りた少女が、杖を振り上げて――
「……」
顔を上げる。
路地の暗がりを照らしながら、こちらに向かって一直線に近づいてくる青色灯が目に入り、思わず手を止めた。
頭上高く掲げた杖と周囲の惨状とに交互に目をやって、大きく嘆息する。再びやってきた面倒ごとの気配に、少女は憂鬱に目を細め――やはり、地面を這う男の頭に目一杯の力で杖を振り下ろすことにした。
***
「なぁ嬢ちゃん。焼死体ってやつを見たことはあるか?」
「……ええ」
正面に腰かけた警官に、少女は軽く間を置いてから答えた。
特に嘘をつく理由がなかったとはいえ、簡単に肯定するには危うさを孕んだ問いかけだったかもしれない。だが警官は、少女の答えを気に留める様子もなく、短く生えた髭を弄ぶように顎に沿って指を滑らせた。
薄いすりガラスに囲われた室内は、机を挟んで向かい合った二人が足を伸ばして寛げるほどの広さはなく、かといって座っているだけで息が詰まるような窮屈さがあるわけでもない。椅子と机、その上に気休め程度の調度品として置かれた花瓶。部屋の入口には面談室と書かれた札が掲げられており、本来であればここが職員同士で使用される場所なのだと窺い知れる。
「本当にうんざりするよな。まともじゃないぜ。旧帝都じゃ火事なんざそう珍しくねぇが、先月から始まって今日で五件目だ。ヴィナハ・ストリートの売春宿のボヤ騒ぎに始まり、お次は系列のピンクサロンが二軒立て続けに全焼。今回は会員制ストリップバーで真昼間からグリルパーティだった。丁度いい焼き加減の死体が八つ……九つだったかな。いや、数なんてどうでもいいんだが、とにかく最悪だったのは臭いさ。いっそのこと炭にでもなっててくれりゃ良かったが――」
そこで言葉を切ってうめき声をあげた警官に、手振りで続きを促す。彼は、薄黒くなった目の下を指で擦りながら、心底うんざりした表情で少女を睨んだ。
「新人が朝に食ったチリビーンズを床にぶちまけて、同期が外で貰いゲロしている間に俺がそれを片付けた。ミディアムレアに焼き上がった死体を検視官に引き渡してから、目撃者に聞き込みをして、寝坊してきた鑑識に引き継ぎまでやった。そしてようやくオフィスに戻ってこられたかと思えば、今度は別件で連行されてきたガキのお守り。なぁ、俺は一体いつ休めばいいんだ?」
「……さぁ」
話半分。少女は自らの癖毛を指で弄びながら答えた。
返答を求めていたわけではないのだろうが――少女の素っ気ない返しに、警官は疲労を蓄えた口元を歪める。
「言っておくがな」
先ほどよりも声を低くして続ける。
「所かまわず騒ぎを起こす馬鹿どものせいで、留置場も取調室もでいっぱいになっちまったから、仕方なくここに居させてやってるんだ。あまりに反抗的な態度なら、女子供だろうと容赦なく野郎と同じ部屋にぶち込むぞ」
声にならないよう舌打ちして、少女は黙り込んだ。模範的とは口が裂けても言えない警官ばかりを集めて形成された警察オフィスにおいて、犯罪者やそれに準ずる者の扱いは果てしなくぞんざいなものだった。不当な暴力は当然として、収賄、調書の改竄、押収品の私物化……——聞こえてくるのは悪辣な噂ばかりである。銃を人に向かって合法的に撃ちたいだけの、トリガーハッピー集団と揶揄される彼らの存在が、結果として旧帝都における表面的な秩序を維持することに一役買っているのは皮肉な話ではあるが。
「名前は」
「…………」
「おい」
「……ルシエラ」
不承不承、答える。
「フルネームだ」
「…………うるさいわね」
「ルシエラ・ウルサイワネ、と」
「……サリニャック。ルシエラ・サリニャックよ」
観念して、ようやく名乗った少女——ルシエラ・サリニャックを、表情を変えることなく一瞥して、警官は書類にペンを走らせる。
「年齢は。見たところハイスクールもまだだろ。子供がこんな時間にうろついてちゃ、将来ロクな大人になんねぇぞ」
「見た目で人を判断するなって教わらなかった?」
警官の物言いに苛立ちを隠すことなく、机の脚を蹴る。花瓶が倒れて、楕円形の口から煙草の吸殻がこぼれ出た。ルシエラの鼻息で空気中に舞った灰を、鬱陶しそうに払って彼は告げた。
「ああ、そう。こりゃ失敬。今度から、首にプロフィールを書いたタグでもぶら下げておいてくれると、不良少女と間違えて補導せずに済む」
「馬鹿な警官にもわかりやすいように、丁寧に値段を書いて? 売春婦のマネでもしろっての?」
「てっきり事前練習にでも来てたのかと思ってね。格安、本番なし。だが……まぁ、悪いことは言わん。どうせ大した稼ぎにゃならんさ。そりゃあ、発育の良くない女ばかり好んで買うような変態だっていないわけじゃないが」
ビンタくらいはしても構わないだろう。ルシエラはそう考えて腰を浮かし、ここが警察署であることを思い出してやめた。代わりに、品のない笑みを浮かべる警官をきつく睨み付ける。
「殺すわよ」
「お巡りに向かってなんて言い草だ。おら、身分証出せ」
今度はしっかりと舌打ちして、懐からカードを取り出して机の上に放った。乱れた前髪を掻き上げると、少し癖のある金色の髪が一本、宙を舞う。その行く先を視線で追った先——ガラスに映る自分の間抜けな姿を目にして、ルシエラは静かに腰を下ろした。
「……おい、やっぱり未成年じゃねぇか」
「別に、嘘はついてないでしょ」
もういい、と息をついた警官に向けて小さく口の端を歪める。
実際のところ、彼は口調こそ荒いものの、言葉の端々から良心が垣間見える点においては、旧帝都に配属された警官の中ではまだマシな部類であった。ギャングとポン引きと薬中をまとめて同じ檻に入れて殴り合わせ、誰が最後まで立っているかでベッドするような連中と比較すれば、話を聞く姿勢があるだけまともな警官なのだろう。
悪用されない程度の個人情報が記された身分証とルシエラの顔とを見比べて、彼は尋問するように続ける。
「で、仕事は。何やってんだ。妖精憑き……失礼――妖精使いのライセンス持ちは結構稼いでるって聞くぜ」
旨い話があれば一枚食わせろ、と付け加えた警官の顔を視界に入れないよう、倒れた花瓶を元に戻しながら答えた。
「言う必要が?」
「どうせ調べりゃバレることだっての。ここで変に隠し立てして心証を悪くするのが賢い選択だとは思えんが」
淡々と警官は告げる。強情な容疑者の取り調べなど慣れたものだといわんばかりに肩をすくめて。
「……便利屋」
「ずいぶん胡散臭い商売をやってるじゃないか。どこの組織から仕事を受けてる?」
「黙秘するわ」
「おいおい」
呆れたような目を向けてくる警官に、ルシエラは頬杖をついて囁く。
「情報が欲しければ売るけど? ま、こっちだって信用で商売してるんだから、それ相応にはたいてもわらなきゃ顧客の情報は売れないけどね」
「口の減らねぇ嬢ちゃんだ」
もう少し食い下がってくるかと覚悟していたが、思いのほかすんなりと警官は身を引いた。彼が次に口にするであろう言葉を予測して、ルシエラはゆっくりと、一つ一つ納得させるように続けた。
「非合法な仕事は受けてない。殺しも、薬の運搬も、あなたが想像しているようなことは何もね。警察官の手を煩わせるまでもない、街の些細な困りごとを解決して小遣い稼ぎをしてるだけ」
「……そりゃ立派なこった。頭が下がるね。ところで、ちょうどここに困ってるお巡りが一人いるんだが、幾ら払えば助けてくれるんだ? 我らが帝国の平和と秩序に唾を吐く輩が次から次へと、ゴキブリみたいに湧いてきやがるせいで休暇も満足にとれやしねぇ。今日だってな、本当は非番だったんだぜ」
「……文句なら火の後始末もできない馬鹿と、いたいけな乙女相手に拳銃振り回してはしゃいでる大馬鹿どもに言いなさい」
警官は嘆息して、ペンの先で机をたたく。恨みがましい視線を向けてくる彼の気持ちもわからないでもないが、実際のところルシエラもまた理不尽に襲われて、連行されてきた身ではあった。過剰防衛と言われればそれまでだが、どう考えても被害者側である。そういった事情を加味されたうえで、留置場の檻の中で過ごさずに済んでいるのだろうが、拘束されてからそれなりに長い時間が経った今、警官との問答を重ねるたび、ルシエラは少しずつ不機嫌になっていった。
「要するに、正当防衛だって言いたいわけか。恨まれるようなことをした覚えは?」
「さぁ。あんな奴ら見たこともないもの。突然柄の悪い連中に道を塞がれて目の前で銃を抜かれたら、あなただって抵抗くらいするでしょう」
鼻を鳴らして吐き捨てる。襲われた原因に全く心当たりがないとは言えないが、明言できるほどの確証もない。夜道で襲撃にあったから抵抗して、ついでに少々痛い目にあってもらった。それだけのことだった。
ルシエラの言葉に嘘はない。普段ならその程度の小競り合いで警察が出張ってくることはないが、今回不幸だったのは、たまたま近くで火事が起きたせいで、街に多くの警官が出動していたということだ。
「で、その結果返り討ち、と。粗悪品とはいえ大口径拳銃で武装した男性二人を無力化。嬢ちゃん一人で? 妖精使いってのはすげぇもんだな」
「……別に。言っとくけど、本当に大したことはしてない。殴って気絶させただけ。私の発育が良くなかったお陰で銃弾にも当たらずに済んだし、簡単に反撃できたわ。それだけよ。なに、文句あるわけ?」
「……いいことあるって」
「うるさい」
苦笑する警官を睨んだまま続ける。
「私の杖、押収したのあなたでしょ。調べてもらっても構わないけど、バラすんだったら、後からしっかり弁償してもらうからね」
「やらねぇよ。どうせ経費清算の申請なんざ通らねぇし、自腹切る羽目になるのはわかってんだ」
叩けば埃が出る、とでも思われているのだろうか。それとも、なにかしらケチをつけてルシエラの反応を楽しんでいるのか。どちらかといえば前者のように感じられるのは、やはり彼が真面目な警官であるからだろう。環境が劣悪であればあるほど苦労を背負い込んで、さらに損な役が回ってくる。目元に刻まれた皺は、まさにその道のりを証明するかのようである。
副署長、らしい。ギャングと警察の違いが制服を着ているかどうかでしかない旧帝都において、真っ先に過労で倒れるのは彼のようなタイプの人間だった。
こんな状況でなければ同情でもしたのだろうが――警察署という、警官が勤勉であればあるほど居心地の悪くなる空間にいい加減辟易してきたころ、部屋の入口がノックされた。
間髪入れずドアを開けて入ってきた中年の婦警はルシエラを視界に収めたまま、椅子に腰掛けた警官に耳打ちする。二言三言交わして、そのまま彼女は退室していった。
残された警官がわざとらしく咳払いして、何か言葉を探すように視線を彷徨わせる。彼の腰かけた椅子の背もたれが軋む音。ルシエラもまた、無言で頬杖をつく左右の腕を入れ替えた。
数呼吸分の沈黙を経てから、
「……釈放だ」
「でしょうね」
結局、彼が口にしたのはシンプルな一言だった。ルシエラは大きな瞳を半分に細めて、即座に返した。
「両者の証言をまとめた結果……嬢ちゃんは完全に巻き込まれただけで、非はないだろうと判断された。聞いて笑えるぜ。あのチンピラども、人違いでお前さんに襲いかかったらしい」
「笑えないっての」
「よってルシエラ・サリニャックは無罪放免、と。どうする、相手方に文句の一つくらい言っておくか? 連中からすれば、女一人に返り討ちにされたって時点で面子は丸つぶれだが」
尋ねつつ、警官は背後に向けて顎をしゃくる。それは存外悪くない提案のように思えた。ついでにもう一発くらい拳をお見舞いしてもいい――が、警察署の中でそれをすれば今度こそ留置所行きだろう。ルシエラは神妙な顔で首を横に振った。そして、重い足取りで立ち上がる。
「やめとく。疲れたし、さっさと帰って寝たい」
「賢明だな」
部屋の出口までほんの数歩。ただ、狭い空間で軟禁状態にあった身体は決して軽やかではなく、ゆっくりと慣らすように足を前に進める。時計を見ればすでに日付が変わっていた。疲労と喪失感に苛まれながらドアノブを掴んだルシエラを
「おい」
警官が呼び止めた。
「あまり派手に暴れるなよ。今回は相手に非があったから見逃すが、次に同じようなことがあればお前さんの扱う魔法と、ライセンス所有の妥当性に対して調査の手が及ぶ可能性があることを忘れるな」
警告とも、脅迫ともとれる言葉に振り向く。
「調書を書き換えるための手間賃が別で貰えるってなら、やぶさかじゃあないけどな」
ルシエラを見送るつもりはないらしい。別にむさくるしい警官に見送ってほしいなどとは思わないが――書類に視線を落としたまま羽虫を払うように手を振る警官に、ルシエラは「べっ」と舌を向け、部屋を後にした。