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六ッ幡村の滞在は私のこれまで放浪生活の中で一二を争う快適で充実した生活であった。
しかし、性質というものはそう簡単には変えられない。
夏の終わりごろ、私の放浪癖が再発し私はそろそろ暇を乞う頃合いだなと守屋氏に掛け合った。
守屋氏はまだ完治していないであろう私の足を気遣ってか、「せめてあと一月いてはどうでしょう」と申し出てくれたが、残念ながら私の内側はその言葉にざわざわと反感を示した。
私が決して折れないのを知ると、氏は「それならせめて宴席を開かせてください」と言う。
その為に私は出発を二、三日延ばすことになったがそれでも二月共に過ごした相手であるし、氏の心遣いは素直に嬉しかった。
また私には例の問題も残っていた。
カオリを外の世界に連れていくべきか否か、__これは結局決着がつかず「そもそも本人が望まなかったらどうしようもない」と彼女の意思に任せることにした。
そうして守屋氏に暇を告げた次の日、私は寺子屋を終えた後彼女を引き留めてそれを切り出したのだ。
カオリは呆気にとられた顔で私を見上げていた。
彼女が嫌悪以外の表情を私に向けるのはこの時が初めてであった。
唐突に突きつけられた重大な選択__しかしそれ以上に「村を出る」という私の提案が彼女の常識の根底を覆すものだったのだろう。
__あと5日でこの答えは出せまい。
私は懐から手帳を取り出し、その一枚を破り取ると手帳を下敷き代わりにしてすらすらとペンを走らせた。彼女の決心が固まった時、私への連絡を取るために所在を明らかにしておくためだ。
破り取ったそれをまだぼうとしている彼女の両手に押し付ける様に渡すと、私はようやく肩の荷が下りた心地になって周囲の様子に気づく余裕が出来た。
入り口に守屋氏がいた。
驚いた私の手から手帳がするりと落ちて床にこととぶつかった。カオリがそれを拾い上げてくれたのが分かったが、それを受け取る余裕がなかった。
「何をしているんですか?」
彼の口調は平静としていた。しかし、何かが平常の彼と違っていた。
その様子に私は口籠る。彼は尋常でない様子で私達__否、私を見ている。
「彼女は素晴らしい知性の持ち主です。それに私の目では彼女自身学びに歓びを見出している」私は言い訳をするように守屋氏の謎の怒りに対して弁解を試みた。下方で誰かがハッと息を詰める音がした。
守屋氏は頬を持ち上げ、にこりと微笑んで見せた。
「ええ、カオリが素晴らしい娘であることは分かっていますとも」
三日月に細められた二つの穴の奥から小さな黒目がこちらを見ている。
「しかし娘には務めがある」
務め?__今更気づいた。彼は別に笑っていない。
「はい、務めです。
カオリは守屋の娘として子供を産まなくてはならない」
ただ、目を細め、頬を持ち上げているだけなのだ。
それらの表面の動きは彼の内側の如何なる感情とも連携していない。
「でなければ、この村は破綻してしまう。子供が、人手が必要なのです」
しかもそれは初めて顔を合わし、私を歓迎してくれたあの時からずっとなのだ。
__彼の言い分は分かった。
確かに外部との接触を断っているこの村では子供を産む事は村の存続にかかわる。一人の少女の人生よりも村全体の益を優先すべしという考えなのだろう。主導者としてそれを間違っていると言い切る事は私には出来ない。しかし、この場合前提が間違っているのではないだろうか?
「であるならば、もっと他所から人を連れてくればいい。
ここは素晴らしいところです。充分に人を惹きつけるものがある」
「外の人間が六ッ幡村の人間になることはありません」
「とは言え、実際子供を為すというなら嫁なり婿なりを内に引き入れるわけでないですか」
「いいえ、そう言った事はこの村では数百年ありません。
他所の人間と契りを結ばない。それこそが多くの村々が時代と共に消えて言った中、この六ッ幡村が生き残った所以なのです」
私は彼の告白に愕然とした。
確かに秘境めいていると思ってはいたが、まさか本当に全く外部と人の交渉がなかったとは。
しかしそれでは、この村ではその数百年前から近親交配が繰り返されている事になる。
血の淀みは生まれてくる子供達に大きな影響を持つ。
私は何も言わなかった。否、何も言えなかった。
しかし守屋氏には私の内に渦巻く疑念や戸惑いが手に取るように分かるらしかった。
「大丈夫です。
血は別の方法で摂りますから」
彼は__彼は明確な殺意を持って私に対峙していた。
右手に握られた鉈が私にそれを教えていた。
それが、木を倒すでも家畜を屠殺するでもなく私の為に持ってこられたのだと、私はようやく理解した。
ハッとした途端、守屋氏が私に向かって鉈を掲げながら襲い掛かってきた。
避けなければ。
既の所で身を躱す。しかし守屋氏は床に刺さった刃をすぐさま引き抜くとくるりと身をかえして再度私へと向かってくる。昨日私の送別会をしようと言った男と同一人物とはとてもじゃないが思えない。
何か憑いているんじゃ、などと非科学的な事を考えていると、左肩に鈍い痛みが走った。
裂けた着物から肉の裂面が見える。赤黒い血、あの鉈は清潔なのだろうかとかまた余計な事を考えた。
彼は本気で私を殺そうとしている。
逃げなければならない。この場から、この殺人鬼から。
しかし、到底守屋氏は私を逃がしてくれそうには思えなかった。
覚悟を決める時が来たのだ。
私は腹にくっと力を入れた。息を少し詰めて視界全体に注意を払う。そうして打開の策がないか探し回った。
当然、守屋氏は私に考えさせる猶予を与えなかった。
すぐに次の攻撃が始まり、私はころころと床を転がった。昨晩掃除をしてよかった。そうでなければ埃だらけになっていた筈だと馬鹿な事が頭をよぎる。
危機を前にした時、人の反応は二分される。つまり、平時よりも聡明になるか、愚鈍になるか。
この時の私は後者であった。思考は滅裂となり、まるで形を為さない。
「出ていけ!村から出ていけ!!」
唐突にカオルが私に手帳を投げつけ叫んだ。
泣きっ面に蜂だ。彼女の存在をすっかり忘れていた私はこの突然の加勢__無論、私の敵に対する__によろめいた。娘がつくったチャンスを逃すまいと守屋氏が私に襲い掛かる。
絶体絶命という奴だった。
しかし、刃は私を裂きはしなかった。
斜めに引いた刃がちょうどそこにあった本棚の角にぶつかった。
私の首を狩ろうと意気込んでいたものだから当たった衝撃は思ったより大きく、守屋氏に一瞬の隙が出来た。その隙に私は出口へと駆け出す。たった2メートルが気が狂いそうな程に長い。何か嫌な予感を得た途端、顔の横を何かが通り過ぎた。
私は鉈が刺さった壁を見送りながら__いや、実際の所必死だったのでそんな余裕はなかったのだが__書庫から命からがら逃げおおせた。