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膠着した精神環境に対して肉体の方は素晴らしい回復力をみせていた。
一月が過ぎた頃には骨も癒合したのか松葉杖をつかずとも歩けるようになった。
私は元来体の強い質なのでそれほど驚くにあたらないが、村民は皆私の快方に目を見張った。
さて、歩けるようになれば当然体を動かしたくなる。
そうでなくても行動範囲が守屋宅と書庫との狭い空間に限られていた私は集落のあちこちを見てみたいという欲求でうずうずしていたのだ。
案内役には簡易寺子屋に来ていた子供達が買って出た。
無論、村の中で生活が完結している以上ある程度のシステムが存在しているのは分かっていたが、これほど見事に機能しているのを見せられると感嘆を禁じえなかった。
村が活用している土地は私が想像した以上に広大で、それぞれに適した場所が計算抜かれた配置でとられている。
棚田、段々畑、畑の端っこは柿、柑橘類、桃など小規模の果樹園となっていた。鶏舎小屋とウサギ小屋は隣接しており、これらの世話は子供達が任されている。
食料は完全な自給性で、塩でさえ塩分濃度の高い泥濘から水分を抽出して自作していた。月に一度「塩の日」と言うのがあってその日は焚き小屋で延々と煮詰める作業が行われる。
飲料は基本井戸水を、その他の用途には少し離れた所にある川を引いて使用しており、この川には筌をいくつか仕込んで小魚も獲っていた。
タンパク源としては、それら川魚と鶏卵や雄鶏、兎などが挙げられる。が、そもそも六ッ幡村には日常的に食肉を食べる文化がない。
肉は祝い事や祭りなどの儀式の際にのみ食されるのだとの事だった。
それでも皆が健康体であるのはきちんと代替品が摂れているのだろう。
私もその二月ばかりの間にそれまでの不健康な生活で溜まっていた悪性のものとが置き換わり、体の内側が清澄とした心地さえ感じた。
種々の食材の多くは保存用に加工され、村の貯蔵庫に保管されて皆に行き渡るよう管理されていた。
その他に関しても集落ではすべての物、義務が平等に割り当てられていた。
守屋家も例に漏れず、長だからと言って優遇される事はない。
つまり完璧な社会主義社会が日本の山奥の秘境で展開されていたのだ。
以前から思っていた事に、社会主義とは母体が大きければ大きいほど破綻する危険が高まるという事があった。
極論すれば、一家庭も社会主義社会である。その母体が小さいが為に問題なく機能しているのだ。
なぜ、母体の規模が如何に関わるかと言うと、システムの複雑化、そして何よりも思想の統一が難しくなる為である。
無論、これらは単なる自説なのだが、六ッ幡村を知った今、自説に対する私の信頼は強固された。