5
結果として私はそこに二月滞在する事となったのだが、あの村で起きた一連の出来事を一生涯忘れる事は無いだろう。
六ッ幡村はほとんど孤立した集落であった。
山の窪地にあり、平らな土地よりも斜面の面積の方が多い。その為見事な棚田が広がっている。私がいた夏の間は青々とした稲が風に揺られて首を揺する様は実に見事だった。秋になればまた黄金色の房がさわさわと音を立てながら豊穣を告げるのだろう。所々にある藁ぶき屋根の家もまるで画家が全体の調子を見て描き足したかのように完璧な調和をとっていた。
私が道なき道から闖入したことからも悟られるが、外界と通じる道が村にはなく余程の事が無ければ村の外に出る事は無い。だと言うのに村は過疎化していなかった。畦道を子等が駆け回り、年長者は立派な働き手となって父母の手伝いをしている。老女がそれを眺めながら稚児のお守をしていた。
村はまるでかつての美しい日本の原風景そのものだった。
外来を遮断した為にまるで時間がこの村だけ止まっているようだった。
それでいて決して沈滞ではないのだ。
この閉ざされた村で私はかつてないほどに歓迎された。
コミュニティの強固な土地ほど私のような余所者は受け入れがたいものだが、六ッ幡村の村民のほとんどは私という異物に対して愛想よく接してくれた。
私は集落の長の家で世話になる事となった。
私としては、一晩の宿と国道への道案内だけで充分だったのだが、翌朝起きてみると左足の骨が折れていた。
必死になって山道を歩き回っていた時にはそれどころでなくて気づかなかったのだろうが、斜面を下った時にでもやったらしい。
村の医者役を務める佐太郎氏の見立てによると、これで山を歩くのは無茶だ。せめて数か月は安静にしなさいとの事でそれを聞いた守屋氏が是非我が家にと勧めてくれたのだ。
私はその好意に甘える事にした。
他に選択肢がなかったとも言えるが、この閉ざされた集落に興味を抱いたのも事実だ。
私は唯一村を出入りしているという業者に電報を頼んで、森山に断りの連絡を入れておいた。
鷹揚な男なので、急に予定を取りやめても気分を害する事は無いだろう。
それさえ済んでしまえばもうやることは無かった。
骨折しているのだから散策するわけにもいかないし、かと言って家人が働いている間だらだらと過ごすと言うのも居心地が悪い。
そこで私は守屋氏に童子等の面倒を見させてくれないかと提案してみた。
それと言うのも元来私は子供好きであるのと、暇つぶしにどうかと守屋氏の案内で村共有の書庫を見させてもらったのだが、幾冊もの本は埃を被っていてまるで動かされた形跡がなかった。
書物は守屋氏の曽祖父が趣味で集めたもので、彼の死後は活躍の場もなく仕舞われっぱなしらしい。
この村では字を読めるものは二、三人ほどで、活字に親しみはない。そもそも本を読む必要性が分からないというようであった。
そんな事できなくても充分にここでは生活していけるのだから、と。
しかし、この考えを私は口には出さなかったが、危険だと思った。
確かに村は独自のサイクルでこれまで問題なく回ってきたのだろうし、その歴史を認めないわけではない。
しかし、いつかは綻びが生じる。いつかは外界と交わる事となる。
マシュー・ペリーや、アステカ帝国を破滅へと追いやった残虐なコルテスがこの村にも訪れないとは限らないのだ。そうなった時、この善良で他者を疑う事を知らない人々が苦渋を舐める結果となるのは目に見えていた。それを防ぐにはやはり教育が必要なのだ。
__無論、私が滞在する予定の短い期間に本物の教育を、などと不遜な事は考えていない。
それでも書物を通じて多少学問に対する好奇心を育めたら__そういったものを持つ子が一人でも現れたら、、その子がいつかの村の窮地を救うかもしれないのだ。
と、まあその時にそこまで思慮を巡らしたかは定かでない。
その後に起きた出来事によってそれ以来の記憶には後付けのような解釈が付いて回る。
結果、私の行いは村を救うどころか連綿と続いてきた六ッ幡村の歴史に終止符を打つ決定打となったのだから。
しかし、その時の私は何も知らなかった。
ちょっとした寺子屋のようなものだ。___そんな軽い気持ちで提案したのかもしれない。
守谷氏は少し思うところがあるのか即答はしなかったが次の日、子守の老女と共に幾人かが書庫へやってきた。




