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昭和××年の初夏、私は瀬戸内海を臨む漁師町にいた。

母方の親戚の葬儀で、腰をやってしまって遠出が出来なくなった母の代わりに渋々寄こされたのだが、もとより顔も知らぬ親戚だ、故人をしのぶ気持ちにも雑念が混じる。

梅雨が上がったばかりだと言うのにまるで夏の真っ只中にいるようで、

読経の背後には蝉のしつこい鳴き声が、焼香にしてもまんだ途端湿(しめ)り気を帯びるような、そんな蒸し暑い時分だった。

漁港の近くというのがまた、よくなかった。

常であれば、磯臭さも肌にべたつく潮っ気も旅の醍醐味だいごみと面白味さえ感じるのにその時ばかりはそうはならなかった。

潮の匂いに独特の魚の腐臭とが混じり、それが熱っせられた空気でより一層(かも)されたようで私の気持ちは鬱々(うつうつ)と落ち込み、母の代理として最低限の礼儀を果たしたと思った頃にはすっかり気分が滅入めいってしまっていた。

ところが、東京の実家には夏季休業に入った弟、つまりお前の父さんがいるわけだ。

私に関して諦めの境地にあった母や使用人の面々も、この協力な加勢を得るやいなや『やれああしろ、こうしろ』と活気だって私を槍玉やりだまにあげる。

いくらこの場を離れたいからと言って、そのような所に戻るのは尚悪い。

森山から連絡を受けたのはそのような時だった。

森山というのは私の大学時代の友人で、夜な夜な宅を囲んだ仲でもあった。

そいつはどこで耳にしたのか分からないが私が県内にいると知ったらしく、よかったら自分の所へ遊びに来ないかと言うのだ。

そうは言っても駅を三つ四つとかそういう程度の話しじゃない。

同県は同県でも森山が住んでいるのは中国山地を超えた側で、少し車で移動している間に何度も越境してしまうような県境のきわだ。交通の便は悪いだろうし、よもや娯楽と言えるものもないだろう。

だが、潮気と蒸し暑さとにすっかりやられていた私は二つ返事で誘いにのった。

旧友と酒を交わして昔話に花を咲かせるのもいいだろう。

何より山陰はこちらよりも過ごしやすい筈だ。

そのような思惑を胸に秘めた私は早速出立の準備に取り掛かり、数刻もしない内に宿を後にした。

私の別れの挨拶に母の義兄は口では残念がっていたが、余所者に手が余っていたのか顔には安堵の色がありありと浮かんでいた。

半端に繋がりがある者達よりも全く知らない者同士の方が円滑な関係を結べるというのはよくある事だ。

母の実姉は多少幼い頃の私を知っている分、旦那よりも親身だった。

これから山を越えて孫ヶ枝村に行くのだと告げると、悪い事は言わないからやめなさいとまるで物わかりの悪い近所の童に諭すようでもあった。

それでも折れない私に伯母は今度はそそっかしい使い走りに仕事を与える時のように、念入りに私に孫ヶ枝村への道順を教えた。

決して歩いて山を越えようなどと考えるのはやめなさい。あそこら辺は人家も少ないし、集落も外からは分かりづらくなっている。使われていない道も多いから一度迷い込むと戻ってこれなくなるかもしれない。

と、脅し文句を合間に挟みながらではあったが道順について大変有益になることを教えてくれた。


伯母の教え通りに私は最寄りのバス停から市街地へと向かい市役所前で降りた。

そこから山間部行きのバスに乗り換えるのだが、乗客は年配者が2人と碌に乗っていない。

しかし、バスが駅に着くとそこからどばぁと人が乗りこんできて、すし詰めとまではいかずとも車内は大変混雑した。伯母は地元の人だからこうなることを分かっていて私に市役所前から乗るようにと教えてくれたのだと思うと、左半身に感ずるふくよかな夫人の圧力とそこかしこで混ざり合った香水との中で伯母に感謝せずにはいられないのだった。


その状態で市街地を抜けると、すぐさまバスは坂を上り始めていた。

気付いたころには景色から建築物が消え失せ、道にまで伸びた枝木ばかりが目に付く。そうして1時間ばかり揺られていた頃だろうか、実際にはそれよりも短いのかいや、もっと長かったのかは定かではない。__私の半身から感覚が失われていたのでもっぱらそちらの事ばかり考えていた為だ__バスがある一つの停留所を過ぎた辺りから車内がざわめきだした。そうして次に停車した時にはこれまで車内を圧迫していた連中がこれまたどばぁと車内から吐き出されていったので、私はまるで白昼夢から覚めたかのように椅子の上でぽかんと呆けていた。唐突に血の気が巡りだした為に意識がぼうとしていた。

どうやら皆この温泉施設を目当てにしていたらしい。夏に温泉とは、と回らない頭でそんな事を考えていたのを覚えている。

気づけば車内は最初にいた二人の老人と私しか乗っていなかった。

それからいくつか過ぎた頃にはその二人もおらず、私だけが広い車内にぽつんと取り残された。

私はふと不安を抱いて運転手に「このバスでこれこれの停留所まで行けるのか?」と尋ねると、彼は胡散臭そうに此方を見やりながらも「はい、行ける事には行けますが」と言う。

ぶっきらぼうな男でこれ以上話しかけられたくないと暗に示すので私の方も幾分気分を害して目的の停留所までむすっと黙り込んでいた。

私がバスを降りた頃にも運転手はあの嫌な目つきで私を見やったが、此方が文句を言う前にバスはさっさと次の停留所へと向かってしまった。

道のかたわらにスレート屋根の小屋があり申し訳程度のベンチが置かれている。

壁に貼り付けられた時刻表を見ると、目的のバスまでは1時間の待ち時間があった。

しかしもとより期待してはいなかったので、1時間程度ならばと私はベンチに腰掛け、誰かが置き忘れた大衆雑誌をぺらぺらとめくっていた。

海から離れたおかげか標高が上がったおかげか、そこまで暑さは気にならなかった。

そうしてしばらくすると、排気音が向こうから聞こえてくる。

小屋から首を伸ばし道の向こう側を見ていると、小型のバスが坂を上ってくるのが見えた。

誰もいないと思われて通り過ぎられたらもう一時間だと思い、私が慌てて小屋からとびでた。

このバスにも乗客は誰もいなかった。

やれ随分早いな。

発車したバスで自分の腕時計を確認すると予定時刻よりも二十分ばかり早い。

しかし、遅いならまだしも早い分にはありがたい。

座席に腰掛け、近くの窓を開けるといい風が入ってくる。

額を撫でる風の心地よさに目を細めつつ、私は窓の外に流れる風景を眺めていた。

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