共通1 有坂絵理沙
「そうして私はバイトとして先輩の実験に付き合う羽目になったのである」
「十日市ちゃんってラノベとか好きなの?」
みんなで遊びに行った次の週の休日。
今日は喫茶店のアルバイトもなく瑞穂も実家(安全な方)へ帰還して両親とイチャイチャしている最中。
折角だし人を自堕落へ導く禁断の秘儀『二度寝』を敢行しようと試みたが、その瞬間スマホが震えて先輩から呼び出されたのだった。
「えー、これから私二度寝しようとしていたところなんですけど。眠いんです。人生の半分は睡眠じゃないですか先輩」
「勝手に割合増やしちゃダメでしょ」
「寝ますよー……研究頑張ってくださーい」
「バイト代一万円出すよ」
「どこですか。すぐに行きます」
かくして校内バスに揺られること十分ちょい。
情報工学部のエリアにあった先輩の研究室までやってくる。とんでもない実績を残した先輩は、特例で教授と同じように一室を化し与えられているらしい。
物が多く雑然とした空間は足の踏み場すら怪しかった。無機質な寒色のLEDが漂うハウスダストを照らし出している。
「十日市ちゃんにやってもらいたいのはAI試作機ちゃんとの対話だね」
「対話ですか」自我でも持ったらどうしようと不安が募る。
「そうそう。ディープラーニングの一環っつっても詳しくはわかんないしょ。身構えないで、気軽に先輩特性AIとお話してもらえればいいから」
先輩はよっこらしょと事務椅子をデスクの前に置いた。
天板にはモニターが並べられ、机の下にはそこらのゲーミングPCより高性能そうなデスクトップが備え付けられている。
私は背もたれに体重を預けると、モニター前のキーボードに指を這わせた。
「これで入力すればいいんですか」
「そうそう。マイクがいいならあるよ? 昔ゲーム実況しようかなって気の迷いで買ったやつ」
「なんの実況するんですか?」
「ドラクエ。興味持たれなかったから辞めたけどねぇ」
「なんじゃそりゃ」
ガラクタの中から埃塗れのそれを引っ張り出す先輩。
結構年季が入っている上に、なんかぬめぬめとテカっているので使いたくない。どんだけ放置されていたんだ。
「キーボードでいいですよ。ブラインドタッチできますし」
無意味にカタカタとやる私。
今はタッチタイピングって言うんだよとか講釈を垂れる先輩は華麗にスルーする。
取り合えず挨拶から始めてみよう。時刻は13時40分前後。
『こんにちは』
『こんばんは』
「先輩、これもうダメじゃないですか。根幹から」
「そう。ダメだから学習させる必要があるんだよ。今は昼だぞって辺りからやってみて」
果てしなく遠い道のりになりそうだけど大丈夫なのだろうか。
ものは試し。言われた通りにやってみる。
『今は昼だよ。だからこんばんは、じゃなくて、こんにちは、が正しいんだよ』
『アニョハセヨ』
「先輩。こいつおちょくって来てますよ。シンギュラリティ起こってるじゃないですか」
「ああそれわたしがプログラムしたやつだから心配しないでいいよ」
一体何を目的にしたAIなんだこれ。
その後もどこかピントのズレたようなAIと会話し続ける。要領を得ない会話にうっすらと苛立ちが募った。
「ん? 十日市ちゃんどったの? お手洗い?」
「いや、なんでもないです」
先輩は平然としていた。
よくわからない構文をコピーアンドペーストし、小首を傾げたと思いきや消して、そして他の場所に再度コピペをして挙動を確かめる作業を繰り返している。見ているだけで気が遠くなりそうだ。
デジタル時計を検めると、そこにはキッチリと日曜日と表示されている。
日曜は休むという鉄則のもと生きているので、だいたい私は眠っているか軽く勉強するかマグカップ片手にクソ映画を観ているかしかしていない。
後はたまに瑞穂と遊びに行くなどだ。
「……」
先輩は何も言わずに黙々と作業を続けている。
私は何となく、イライラしていることが恥ずかしくなってきた。
キーボードを叩いていると、段々とコツらしきものが見えてきた。
私たちが言葉を発したり思考をする際に記憶を参照しているのは言うまでもないが、AIもそれは同じ。そして現在から近くにある情報ほど参照する頻度が高いようだ。
だからそれに絡めるような返事をしてやるようにすると、さっきまでとは目に見えて学習の速度が上がっていく。
頓珍漢な返答ばかりしていたAIも、次第に会話が噛み合うようになっていっていた。
果たして私の上達が速いのか、先輩がある程度土壌を整えていたからなのかは定かではないが。
間欠的に聞こえてきていた陸上部の掛け声もどこかへ去ってしまい、代わりにやってきたのはカラスの鳴き声。
薄いカーテンレースの合間から差し込む光には赤色が混じり始める。
「ん」
先輩が声を漏らすと、時を同じくしてけたたましいアラームが研究室を包んだ。
「終わりでーす」
言うが早いか彼女はだらしなく背もたれにもたれかかって、ぐいっと身体を伸ばした。パキポキと小気味いい音が隣にいても聞こえてくる。
「やっぱ人に手伝ってもらうと便利でいいねぇ。ありがとー、助かったわ」
「いえいえ、いい勉強になりました」
「お? とうとう十日市ちゃんもわたしに尊敬の眼差し向けちゃう? 向けちゃう系?」
「先輩この後暇ですか?」
「話聞けよ。や、まあ結構進んだからこの後は課題やっつけるくらいしかないけどさぁ」
「バイト代の一万ありますよね」
「あ、ヤバい忘れるとこだった。すまんね、ほら、受け取っておきなさい」
先輩はフリマで買ったらしい皮財布を開くと、中から諭吉を一人差し出してくる。
私は礼を言っていったんそれを受け取った。
日雇いのアルバイトという形式で作業を手伝わせたのだから、それに則らないと筋が通らない。
そして受け取った一万円をそのまま突き返した。
「あ、いやぁ……先輩としては助かるんだけどさぁ、そこら辺キッチリしないといけないっていうのはわかるよね?」
「はい。だからこれはもう私の金です」
「えーと?」
今一つ意味が飲み込めていないのか苦笑する先輩。ひょっとして私は割と不器用なのだろうか。
「……いや、あの。まあ、何と言うか、普段から酒カスとかスロッカスとか散々罵倒していますけど」
「うん」
「今日、あの、先輩はもの凄く努力していることがわかったんで」
「お、おう……そんな言われると照れるっていうか……」
私は大きく息を吸った。
「だから私なりに労いたいと思ったんです! だからこの一万円で飲みに行きましょうってことなんでわかんないんですか! 友達いないわけじゃないでしょ先輩!」
言ってから顔が火照っていることに気付く。
普段から自分本位に振舞っているせいか、その場の流れではなく自分から人に気遣うことは冗談じゃなく火が出そうなほど恥ずかしかった。
割と大き目のお目目をパチクリさせながら唖然とする先輩。
そりゃそうだ。
私でも十日市澄香みたいな言動の女からこんな提案切り出されたらどうしたんだコイツってなる。
「ぷっ……」
そのまま死にたくなるような沈黙を経て、ふっと糸が切れたように先輩は吹き出した。
「あっはっはっはっは! あーっはっはっはっは! なんそれ! なーんそれ!?」
「な、なんですか。じゃあいいですよ。この一万円は流行りのゲームでも買うために消えます!」
「あー、ごめんごめん。そっかそっかぁ。前に言ってたもんねぇ十日市ちゃん。早速実践してみるのはいいことだぞぉ」
「ぐっ……!」
「ツーンデレ! あヨイショ、ツーンデレ! やれやれ系かと思いきやツーンデレ!」
鼻歌交じりにスキップで私を周囲をぐるぐる回る煽りカス。
口元にはニタニタという憎たらしい笑みが刻まれたまま。こんな屈辱を味わったのは小学生の頃、風邪を引いたクラスメイトに善意でプリントを届けた時以来だ。
「もういいです。そんなからかうんならもう誘いません」
「あーごめんごめん拗ねないでって。ね? ほらほら、美人が台無しだぞ?」
「何なんですか。せっかく私から提案したのに。急に煽りカスになって。酒カス・スロッカスの次は煽りカスですか。スロットの出目の代わりにカス三つ揃えてどうするんです」
「いやぁ、まー」からかいのロンドは止まった。薄くクマの滲んだ瞳が柔らかく破顔する。「……そういう風に気遣われたの初めてなんだ。ありがとね、十日市ちゃん。嬉しい」
「いや、まあ……はい」
蚊の鳴くような声でしか返事できない己のコミュ障具合が恨めしい。
今だけクソカスと付き合っていた頃の自分を召喚して代わってもらいたい気分になった。
「にひひ」
「……」
まあでも、いいや。
先輩の言っている内容に何一つ誤りはない。
こういう愚にもつかない会話の積み重ねが瑞穂のいう健全な未来へとつながっていくのなら、恥辱も含羞も羞恥も感受せねばならないだろう。
「じゃー、行こっか。わたしいい店知ってるし、そこなら夕飯もついでに食べられるでしょ」
「先輩のいいお店なら間違いないですね。なんせ慣れていますから」
「あー、いつもの皮肉屋モードに戻っちゃった。ツンデレモードはどうやったら出てきてくれるのかなぁ」
バスが目指すは余り縁のない飲み屋街の方面。
雑然かつ猥雑としていて不健全なイメージがあったが、存外そんなことはなく、賑やかな街の一角といった様相を呈していた。
「そういえば君未成年だけど飲酒すんの? 止めはしないけど瑞穂ちゃんにバレたらわたしが半殺しにされる予感」
「先輩だって14から飲んでたし大丈夫ですよ」
「うわぁぁ! 悪い子になっちゃったぁぁ! 瑞穂ちゃんに殺されるぅぅ!」
一体コイツはあの女のことを何だと思っているのだろう。
結果として良心の呵責には耐えきれず、メロンジュースと焼き鳥を貪るだけに終わった。