166 紅花翁草ー27(アナシア視点)
旦那様との仲が修繕されないまま臨月になり出産日が近づいたある日、私は急に腹部に痛みを感じてメイドを呼んだ。
すぐに部屋に入ってきたメイドに腹部の痛みを訴えると、メイドが毛布をめくって小さな悲鳴を上げる。
「な、に?」
「出血が……すぐに医師を呼んでまいります!」
慌てて部屋を出ていくメイド。
言われた言葉に呆然と思考を放棄した後、はっとして自分でも毛布をめくって下半身を確かめる。
そこは確かに出血していて、それを自覚した途端腹部の痛みが悪化した。
うめき声を上げていると何人ものメイドが部屋に入ってきたのはわかったけれど、あまりの痛みに誰が入ってきたのかを気にする余裕はなかった。
激しい痛みに苦しんでいると医師が到着したのか注射を打たれる。
「若奥様、しっかりなさってください。意識を失ってはいけません!」
「うぅ……」
息が出来ないほどの痛み、吐き気すらこみあげてきて伸ばされた手を無我夢中で握り締める。
「かっ……うぐっ」
「しっかりしろ!」
「いぅっ……たすっぐっ」
視界が点滅する中、薄紫色が見えて私は必死に手を握り締めた。
「アナシア!」
大きな声で名前を呼ばれた気がして、掴んでいた手が離れそうな気配を感じてそれは嫌だとしがみつくように力を籠める。
「兄上が来たんだ。もう大丈夫だから、だから……姉上っ」
そう言われた気がしたけれど、私は握り締めた手を放したくなかった。
「たす、けって……」
「……くそっ! どうにかならないのか!?」
大きな声のあと、お腹が何度も押されて………………急に何かを失ったような感覚が襲ってきた。
痛みと酸欠で意識がもうろうとする中、体から力が抜ける。
倒れこんだ体を支えられた気がして、息が整った時に隣を見るとそこには旦那様が悲痛な顔をして椅子に座っていた。
「だんなさま?」
「アナシア……」
歪められた旦那様の表情に、言い知れぬ不安が押し寄せてくる。
「なに、が?」
「……アナシア、お前は何も悪くない」
「なにをいって?」
「子供は……腹の子は……」
言われて私は咄嗟に自分のお腹に手を当てる。
膨らんでいたはずのお腹がへこんでいるのが分かった。
先ほどの痛みは陣痛? 子供は生まれたの?
お腹に手を当てたまま旦那様を見ると、そっと肩に手を乗せられた。
「子供は、死んだ」
「…………え?」
「死産だったんだ」
旦那様の言葉を理解したくなくてフルフルと頭を横に振る。
「アナシア、子供は死んでしまったんだ」
「うそです……そんなことあるはずがありません!」
「残念だが事実だ」
「ぁ……あぁっ」
否定したい思いと、先ほど感じた喪失感に子供を失ったのだという実感があり、入り混じった感情がぐちゃぐちゃに押し寄せてきて私は手で顔を覆って泣き続けた。
旦那様が慰めるようにいろいろ言ってくれたけれど、現実を受け入れたくない私はそのすべての言葉を否定して心を閉ざした。
それから何日経ったのかわからないけれど、ある日ロクサーナさんが部屋を訪れてきた。
その腕の中にはおくるみに包まれた赤ん坊……。
「お義姉様、安心してください。あたしがちゃんとお義姉様の代わりに子供を産みましたから。男の子ですよ」
笑顔で赤ん坊を見せようとするロクサーナさんを周囲のメイドが止める。
それに不服そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔に戻ったロクサーナさんが言葉を続ける。
「これからはこの子の母親としてしっかりしてくださいね、お義姉様」
「…………その子は私の子供ではないわ」
「何を言ってるんですか。この子の母親はお義姉様ですよ。お父様がもうお義姉様の子供として申請したそうですから」
「………………私には関係ないわ」
「もうっどうしてそんなわがままを言うんですか? お義姉様はバスキ伯爵家に嫁入りしたんですから、しっかりしてください」
怒ったように言うロクサーナさんをそのまま無視していると、「お義姉様!」と大声で叫ばれ、その瞬間赤ん坊が大声で泣きだした。
「ああもうっ、お義姉様がちゃんとしないから泣いちゃったじゃないですか」
「ロクサーナ! 何をしている!」
「あら、ダリオン兄様」
「姉上は療養中なんだぞ!」
「だからなんですか? せっかく子供を連れてきたのに、お義姉様ったら自分の子供じゃないなんてひどい事を言うんですよ」
「姉上の子供じゃないだろう」
「何を言ってるんですか。この子はお義姉様の子供ですよ。そう登録するってお父様が言いましたから」
「お前はっ」
ダリオンがロクサーナさんの肩を掴もうとして、腕の中の赤ん坊を見て動きを止めた。
「……出ていけ」
「へ?」
「その赤子を連れて出ていけ!」
「ちょっダリオン兄様? なにをっちょっと……」
ロクサーナ様はダリオンに押されて部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、私は頬に涙が伝うのを感じる。
「姉上……」
「私は……私、は……」
「すまない……俺には何もできない……すまない」
苦しそうに顔をゆがめて言うダリオンは何度も謝る。
「ダリオンは、悪くないわ……」
「俺がもっと早く気づいていればこんなことには……」
「旦那様がロクサーナさんを愛人にするなんて、普通は思わないわ」
「…………姉上」
「せめて、彼女が正式な手順を踏んで愛人になったのなら……それなら……」
新しい涙が頬を伝い、その涙をハンカチが拭う。
薄紫のハンカチは見覚えがあるもので、ダリオンをじっと見つめる。
「そのハンカチ」
「ああ、前に姉上からもらったものだ」
「……まだ刺繍が下手だった時のものだわ」
「知ってる」
旦那様にプレゼントするために必死で練習したうちの一つ。
薄紫色がなんだかダリオンに似合いそうだったから冗談で見せたら受け取ってくれた物。
「…………あの頃に戻りたいわ」
ポツリとつぶやくとダリオンが泣きそうな顔をする。
「姉上……すまない」
「…………ダリオン」
「なんだ?」
「名前を………………いいえ、なんでもないわ」
「……そうか」
ダリオンは義弟で、私は義姉なのだから、名前を呼んで欲しいと望んではいけない。
それでも、私の心はダリオンが会いに来てくれる時だけ穏やかになるような気がした。
子供や旦那様、バスキ伯爵家の事は一切話さず、学生時代の思い出や騎士団での面白い話をしてくれる。
わずかばかりの穏やかな時間。
けれどもそんな時間とは裏腹にロクサーナさんは予告なく私の部屋に赤ん坊を連れてやってくる。
母親として子供の面倒を見るべきだと言ったり、私の代わりに子供の面倒を見たりしていて苦労をしているのだから、私が元気になり早くちゃんとバスキ伯爵家の妻として役目を果たすように言ってくる。
ダリオンとの時間で癒されたはずの心がボロボロに傷つけられていく。
旦那様はだんだんこの部屋に来る時間が減っていって、最近は全く来なくなってしまった。
もう、私がこの家にいる意味は……ないのかもしれない。
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