142 紅花翁草ー3(ミンシア視点)
「ファルク様、運んでくださってありがとうございます。足が痛くて動けなかったので助かりました」
「構わないよ。臨時といえども教師だからね」
にっこりと微笑むファルク様にやっぱり乙女ゲームの攻略対象はイケメンだとしみじみしてしまう。
こんな男とイイ関係になれたら最高よね。
ロクサーナ様は順調にヒロインとしてアーシェン様に嫌われてるし、このまま悪役令嬢にいじめられてもらって、わたしはその隙においしいとこどりをするのが目的。
別に結婚したいとかは思わないし、誰かの奥さんになるなんてわたしには向いてないってわかってる。
だから物分かりのいい女を演じて楽しく暮らすの。
「アーシェン様も付き添ってくださってありがとうございます」
「構いません」
にっこり微笑むアーシェン様は、悪役令嬢にならなければヒロインの友人役になるだけあってとてもかわいい。
わたしはこれまで十分アーシェン様の好感度が上がるように行動してたし、こうして保健室に付き添ってきたのがわたしとファルク様を2人きりにさせたくないって言うのがあったとしても、悪意は向けられないでしょ。
すぐに保険医が来て足首の手当てをしてくれる間、ファルク様とアーシェン様は保健室に残ってその様子を眺めている。
「一週間ほどは湿布とテーピングを忘れず、無理に足を使う行動はしないでください。足に負担がかかる行動、特にダンスの授業は禁止です。このぐらいなら杖は不要だと思いますが、傷みがひどくなるようならかかりつけ医に見てもらうか、こちらに再度来てください」
「わかりました、ありがとうございます」
椅子に座ったままではあるが深々と保険医に頭を下げる。
「今日は念のためこのまま早退してください。伝達の魔術でお宅に馬車を寄こすようにお伝えしておきます」
「はい」
保険医の言葉に素直に頷く。
このイベントは本来なら悪役令嬢になったディアティア様に突き飛ばされたヒロインが、グレビール様かリャンシュ様に保健室まで付き添ってもらって2人きりになった後、馬車まで送ってもらうというもの。
あの場にはグレビール様とリャンシュ様はいなかったけど、その代わりファルク様が登場した。
この世界は『誘惑のサイケデリック』に似ているけどリセットもセーブもロードもない、選択肢だってないしパラメーターを確認できるものなんて存在しない現実。
シナリオ通りに動くわけがない。
そもそも、ティオル殿下はまだ婚約していないはずなのに、ベアトリーチェ様と婚約している。
しかも番の魔術なんてわけのわからないものをベアトリーチェ様に対して行うと宣言している。
ゲオルグ殿下も王太子選抜から降りている。
噂ではシャルトレッド公爵家の家族仲はとても良好。
だいたい乙女ゲームではベアトリーチェ様は精霊魔法使いなんて設定はなかったし、ヒロインであるロクサーナ様が義兄と愛人関係にあるなんて噂があるようなふざけた設定もなかった。
なにもかもおかしくなっている現実世界なんだから、本来ならモブのわたしが好きに動いたっておかしくないわ。
ヒロインと入れ替わってのイベント発生。
対象攻略者は違うし、2人きりの状況ではないけれどイベントは発生した。
「お大事になさってくださいね。明日も足が痛むのなら無理に登校しなくてもいいと思います。そうですよね、ファルクお兄様」
「家族に見せる用と学院に提出する用の診断書が出るから、家族に見せる用が出来たらそれを持って無理せず帰った方がいいね」
「はい」
ファルク様に可憐に見えるように微笑んで頷く。
「じゃあ、俺たちは行こうか」
「はい、ファルクお兄様」
そう言って保健室から出ていこうとする姿に、やっぱり攻略対象者が違う中途半端なイベントはうまくいかないとがっかりしてしまう。
まあ、でもこんなものよね。
現実には諦めも肝心だと思いなおして保険医が診断書を書き終わるのをおとなしく待っていると、保健室のドアが開いて誰かが入ってきた。
わたしが座っている位置からはちょうど衝立にさえぎられて誰が入ってきたのかはわからない。
「先生、申し訳ないのですが彼女を診ていただいてもよろしいですか?」
かけられた声に保険医が動く音が聞こえる。
「どうかしましたか?」
「あの、転んだ時に足を痛めてしまったみたいで……」
「あらまあ。そうね……あの椅子まで動けますか?」
「はい」
保険医の声とどこかで聞いたことのある女生徒の声、ゆっくりと歩く足音と椅子に座った音が聞こえて、少しの間静寂が訪れる。
時折痛みを我慢するような声が聞こえてきて、その後にいくつか保険医が質問したことに答える声が聞こえると、手当てを施す音が聞こえて、わたしに言った事と似たようなことを告げているけど、どうやらわたしとは違って支え無しでは歩けないっぽいから杖が必要みたい。
診断書が書き終わるまでしばらくかかるからここで待つように告げた保険医が歩いた後に椅子に座る音が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、テーピングのおかげでだいぶ歩くのが楽になったと思います」
「ひどいようなら治癒魔術をお願いしたほうがよろしいのでは?」
「大袈裟ですよ。それに、治癒魔術は使いすぎると本人の治癒能力を下げてしまう場合がありますから、今回のように自己治癒で治るのなら安静にしていれば大丈夫です」
「でも……」
「ちょっとの間ダンスの授業に出る事が出来ないだけですから」
女生徒の声にわたしは1人の空間で頷く。
そうそう、捻挫でダンスの授業を受ける事が出来ないぐらい、どうってことないわ。
「実技の授業や課題に影響が出てしまうのではありませんか? 特に今は魔術理論と習得の課題が出ていますし……」
「それは、まあ多少は……。でも、今はまだ資料を集めて魔術理論の研究レポートを作成する段階ですから、影響はそんなにありませんよ」
「だったらいいんですけど……」
「それよりも、グレビール様がこの件を気にしすぎないかが心配です」
突然出てきた名前に驚いて声の方向に顔を向ける。
「本を重ねて持ちすぎていたせいでぶつかってしまったんでしたよね?」
「ええ、私も資料を探して後ろを向いていたのでよける事が出来ませんでした」
なにそれ。
グレビール様とぶつかって怪我をするなんて、どっかの乙女ゲームのイベントみたいじゃない。
わたしと同じモブのくせになんておいしい体験をしてるのよ。
イライラしてきたところでまた保健室のドアが開く音がして、入室してくる足音が聞こえる。
「荷物を持ってきました。具合はどうですか?」
「そんなに心配なさらなくて大丈夫ですよグレビール様。荷物をわざわざありがとうございます」
はあ? 保健室にわざわざグレビール様が来るとか、マジでイベントじゃない。
あ、でも付き添いの女生徒が居るから微妙なのかしら?
「この子ったら! グレビール様、ディアティア様はしばらく杖を支えにしないと歩くのが困難だそうです」
「あっ」
「そんなに……。本当にすみません」
女性との声に慌てたような声が上がったけど、ディアティアですって?
なんで悪役令嬢がヒロインみたいなイベントに遭遇してるの?
「本当に気にしないでください。私も注意力が散漫でしたから」
「でもぼくがあんなに資料を欲張らなければこんなことにはなりませんでした」
「いえ、私こそ目的の資料を探すのに夢中でしたから、本当にグレビール様のせいではありません」
お互いに自分のせいだという声にイライラしてくる。
でも衝立の向こうにいるのはグレビール様だから、ここでイラついた溜息なんか吐いて印象を悪くするわけにはいかないわよね。
「お待たせしました。診断書が出来ましたよ」
見えないからと眉をひそめていると、いつの間にか保険医が診断書を持って傍に来ていたので、とっさに笑みを作った。
「ありがとうございます」
「馬車はもう到着しているそうです。1人で大丈夫ですか? 無理なら誰か教員を呼びますよ」
「えっと……大丈夫だと思います」
ファルク様がまた来てくれるとも限らないし、付き添いを遠慮することにした。
診断書を受け取って立ち上がり、ゆっくりと歩いて保健室を出ようとした時、衝立から知らない女生徒が顔を出した。
「ごめんなさい。他にも人がいたなんて知らなくて、騒がしくしてしまいました。代表して謝罪させていただきます」
「いえ、お気になさらずに」
頭を下げられたのでわたしも同じように頭を下げる。
「あら、貴女も足を怪我なさってるんですね」
「あ、はい」
「お大事になさってください」
「ありがとうございます」
もう一度頭を下げてゆっくり歩いて保健室を出て馬車が停まっている方へ歩いていく。
昼の休憩時間が終わったからか、人気がない静かな校内。
いつもと違って数が少ない馬車の中からすぐに我が家の物を見つけると、御者の手を借りて乗り込んだ。
どうして悪役令嬢になる可能性があるディアティア様がヒロインのような状況になっているの?
でも、『誘惑のサイケデリック』には攻略対象とぶつかって怪我をするなんてイベントはなかった。
だとすればやはり現実世界での偶発的事故によるものの可能性が高い。
そうよね。
悪役令嬢によるヒロインの乗っ取りなんて、小説やマンガじゃあるまいし、そう簡単に起きるわけがないわよね。
まあ、わたしみたいなモブがヒロインの乗っ取りをしようとしてるから、絶対にないとは言い切れないけど。
でも翌日。学年が違うわたしのところまで、ディアティア様が怪我が治るまでシャルトレッド公爵家に滞在することになったという噂が伝わってきた。
よろしければ、感想やブックマーク、★の評価をお願いします。m(_ _)m
こんな展開が見たい、こんなキャラが見たい、ここが気になる、表現がおかしい・誤字等々もお待ちしております。