127 洛神珠ー8
「何事だ?」
悲鳴が聞こえたのか、ティオル殿下が再びロクサーナ様達に視線を向けた。
「ロクサーナ様がグラスを取り損なってしまったのですわ」
「なるほど」
こういった事は珍しい事ではない。
緊張のあまり失態を起こしてしまう人は少なからずいるのだ。
見ていると、ロクサーナ様が慌てたようにミンシア様に対して頭を下げている。
精霊魔法を使って音を集めると、どうやらグラスを落とした拍子に、その中身がミンシア様のドレスにかかってしまったらしい。
これはなんというか、不運としか言えない。
着替えがあれば休憩室で着替えて参加を続けることが出来るが、着替えがなければ諦めて帰宅するのが最適だろう。
頭を下げるロクサーナ様に対して、ミンシア様は顔を伏せて顔を両手で覆っている。
ここからだとショックで泣いているようにも見えるが、この状況で、ドレスを汚された程度で泣いていると判断される態度をとるのはよろしくない。
少なくとも高位貴族の令嬢としては失敗作だと判断されるし、そのような態度をとる令嬢を嫡男の嫁にと考える当主はいない。
何も知らない若い子息なら無駄な正義感でミンシア様に同情をして庇うかもしれないが、今夜のミンシア様を見て状況の判断が出来ずに庇い立てするような子息を跡取りにしようとする高位貴族はほぼいないだろう。
なぜなら、そんな行動を起こす子息も失敗作だと判断されるからだ。
優しさは高位貴族にとっても尊重されるものではあるが、それは考えなしに振りまいていいものではない。
平民に身分を落とす嫡子以外なら構わないだろうが、嫡子は家を盛り立てるために情報を精査し、正しく判断する必要があるのだ。
安い女の涙に同情し、愚かな正義感を優しさや庇護欲と誤認し行動する者は、たとえ机上の勉強が出来ようとも、執務を上手に手伝えていようとも、失敗作でしかない。
ミンシア様が本当に今日が社交界デビュー当日であれば、ドレスを汚されても周囲がすぐに助けの手を差し伸べただろうが、実際はそうではなく、彼女の評価は「社交界デビュー後も白いドレスを着て参加した恥知らず」もしくは、「社交界デビュー日も常識外れなら、デビュタントをやり直そうとする愚かな思考をした失敗作」である。
もっとも、それでも通常なら周囲の大人が仲裁に入るなり、場を整えるために速やかに行動する。
けれども、しばらく見ていてもその行動がないのは、ミンシア様にも原因はあるし、ロクサーナ様にも原因がある。
周囲による咄嗟の損得勘定で、彼女たちに関わるべきではないと判断された可能性が高いのだ。
その証拠に彼女たちを一瞥した貴族達は、何事もないように視線を外しそれまでの行動を続ける。
問題があると噂が広まっているバスキ伯爵家の養女。
王太子の婚約披露の夜会で社交界デビューをしただけでなく、その社交界デビューですらやり直そうと画策している失敗作。
関わって同類に見られるのも、巻き込まれるのも避けたいのだろう。
それが国を背負っていく高位貴族としての選択だ。
しかしながら、それはあくまでも高位貴族の中での常識。
下位貴族はまた別の常識を持っているようだ。
「如何なさいました、ロクサーナ様」
「あ……その、あたしの不注意でこちらのご令嬢のドレスを汚してしまったんです」
「それはお気の毒に……。ご令嬢、替え用のドレスはお持ちですか?」
近づいて話しかけたのは、下位貴族の子息であると記憶している。
社交界デビューしたてで魔術学院に通う前ということもあり、紹介を受けただけで実際に言葉を交わしたことは1度しかない。
「持って、ますけど……。社交界デビューのために特別に作らせたドレスなのに……こんなことって……」
震える声で答えたミンシア様に、子息は庇護欲をそそられたのか、「お気の毒に……」と優しく言ってミンシア様の前に立つ。
「早く休憩室で着替えたほうがいいでしょう。ご一緒いたしますので参りませんか?」
その声にミンシア様は顔を上げて頷いた。
子息はエスコートするように手を差し出し、ミンシア様がその手を取ったことを確認してからロクサーナ様を見る。
「ロクサーナ様、あとの事はお任せください。どうぞ花祭を楽しんでくださいね」
「え、あ……はい。……あの、ミンシア様、でしたよね? 本当に申し訳ありませんでした」
改めて深々と頭を下げるロクサーナ様に、ミンシア様は顔を伏せる。
「いいんです……。わたしがロクサーナ様を怒らせてしまったのがいけないのですから」
「え?」
「申し訳ありません、ロクサーナ様。わたし、ロクサーナ様のために今のご家族から離れたほうがいいと言っただけなんです」
「だから、それはっ」
「わかってます。わたしのただの自己満足です。ただ、周囲からよくない視線を向けられているロクサーナ様の状況を良くしたいと思っての事だったんです。本当に申し訳ありません」
ミンシア様は震える声でそう言うと、ロクサーナ様が何かを言う前に子息を促してその場から離れて行った。
残されたロクサーナ様は戸惑ったように立ち去った2人を見ていたが、首を傾げた後、転がったグラスを給仕が片付けるのを見守ってから新しいグラスを今度こそちゃんと受け取った。
音を拾う範囲を広げてみると、そんなロクサーナ様を視ずに周囲がヒソヒソと噂をしている。
「あの伯爵家の養女が辺境伯家のご令嬢のドレスに飲み物をかけたのか?」
「手が滑ったように見えたが、真偽はどうなのだろうな」
「ご自分の噂を指摘されて動揺なさったのかしら?」
「それで話題を変えるためにあのような事をしたのかもしれませんね」
「いえいえ、もしかして愛しの家族と離れるように言われて、カッとなったのかもしれませんよ」
「でも、被害にあったご令嬢も、ねえ?」
「常識知らず同士で揉め事を起こされても、困るわよね」
「あの子息、助けを出したのは立派だが、相手がな……」
「警備の者に言って引き取ってもらえばいいのに、わざわざ休憩室にエスコートするとは、いやはや」
「器量はそこそこ良いご令嬢だったからな。残ったあのご令嬢のほうも随分と魔性を秘めているようだし、耐性がないのだろう」
「若さで許されるうちに戻れたらいいのだがな」
「替えのドレスも白なのでしょうか?」
「あら、違いますの?」
「ふふ、そうだとしたら辺境伯令嬢なのに随分と常識に疎くていらっしゃるのね」
「王都にいる時間がほとんどないお家でしょう? 辺境独自の常識があるのではございません?」
「残ったあのご令嬢、何事もないような顔をしていますけど、随分と……」
「私だったら慌てて家族か保護者のところに今の出来事を報告しますが、流石は非常識と有名なご令嬢ですね」
「謝ったのだから終わったと思っているのでは?」
「あらあら、随分とお気楽な思考回路ですのね」
「しかし、あの常識外れのご令嬢が家族と離れるように言ったのは至極真っ当だな」
「確かにそうだが、満足している本人からしたら余計なお世話だろう? ましてや友人でもない他家の人間に言われたのだからな」
「非常識と有名な令嬢には、真っ当な事とはいえ、言われて腹の立つ言葉だったのだろう」
あちらこちらで交わされる会話を、友人達の会話に耳を傾けながら聞く。
ロクサーナ様が非常識な令嬢と既に社交界で有名になりつつあるのは知っていたが、ミンシア様も先日の婚約披露の夜会と今夜の花祭で常識外れと認定されたようだ。
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