ボタン雪のごとく、華やかに、儚く
「どうやら、私、もう......」
そう言って彼女は言葉を切った。
家族でもない僕は会えるはずもなく、面会謝絶となってすでに......。あの日から、第4ステージという現実に、彼女は彼女なりにあらがおうとした。
「不思議ね。やっぱりあなたは何かを感じたのかしら」
僕は確かに彼女の何かを感じた。それゆえにショートメールを出した。
「腰が痛くなければ、ドライブに行かないかな?」
これに彼女はあのように返事を返してきた。そうか、春にドライブに誘った時に仕切りに腰の痛みを訴えていたのは、骨への転移だったのか......
「昨日、ステージ4の肺がんであると宣告されました。一週間前に胸水がみつかって、CTでその辺りに3センチの腫瘍があるって。昨日から二週間ほどはずっと検査の毎日です。これが現実だなんて......」
僕は何と答えたらよかったのだろうか。入院先の知人勤務医に、彼女の治療をよろしくと伝えるのが精いっぱいだった。
「驚きました。4週間先のはずが、来週から入院することが決まりました。貴方はわがままを聞いてくださるのかしら。私、独り身だからいろいろお願いしていいかしら」
銀座のママさんだった。確か、郷里に90歳のおふくろさんがいるとは聞いていたが。そして、独り身の彼女には厳しい検査結果が突き付けられた。
「有効な手段がないんですって」
彼女のショートメールはそれだけを言ってきた。「助けて」とも「どうしたらいいかわからない」とも、彼女は決して言わなかった。僕も言えることは一言だけだった。
「わかった。そうだったのか」
別ルートから聞いた限りでは、分子標的薬の可否判断のために遺伝子検査をしたところ、KRASG12DであることとPD-L1陰性という結果から、適当な抗がん剤が無いということだった。
「私、今のうちに母に会いに行こうと思います。来週のお盆に......」
そう言ってきたのは、検査入院が終わって退院した次の日だった。彼女の郷里は中国地方の日本海側。東京からどのように帰るのだろうか。
「自動車で送ってあげるよ」
「わあ、うれしい」
彼女の返事は大げさに感じられたが、今を一生懸命に生きたい、これからも一生懸命に生きたいという思いが込められた言葉だった。
築地近くの彼女のマンションへ。彼女はボストンバッグひとつだけをもって車に乗ってきた。
「おはようございます」
明るい挨拶をした彼女。和装に似合っていたかつての黒髪は、薄い夏服に合わせたような銀色に変わっていた。助手席に彼女を乗せ、僕はすぐにスピードを上げ高速道へ乗った。彼女の表情や会話にどのように反応したらよいのか、どのように反応すべきか。いや、ちがう、僕の心がどんなふうに反応してしまうか、怖かったから。
東名道で、ふと彼女を見てしまった。彼女は真っ直ぐに前を見たまま。声をかけるのを憚られた。そんな僕の心を見透かすかのように、彼女は僕を振り向いた。
「夏空が広がっているわね。外はとても暑いみたい」
「そうだね、せめて僕の隣にいる間は、よい時を過ごしてもらいたいと思うよ」
「今となっては、あなただけね」
孤独な彼女の言葉。その彼女にかけた僕の言葉は、祈りに近かった。そう、今まで僕は彼女のためにできることは、ただ祈ることだけだった。
天気は気まぐれに変わる。途中夕立もあった。夕闇から夜になっていく。途中のサービスエリアでも、あまり話をせずに付き添うだけ。ナトリウム光に照らされた彼女は、モノクロ写真のように、余分な色を削ぎ落して立っていた。それでも彼女は強く前に進んでいると感じられた。
次の日の朝に自動車は中国道を降り、山道を通って日本海側へ。緑燃える山々を縫い、谷あいから下っていくと、次第に彼女にとって見慣れた風景が広がった。その時、彼女に笑顔なく、ただ少しばかりの微笑みが見えた。
「ありがとう。ここまで送ってくれて」
彼女の家は、暑い日差しに焼かれている町の一角にあった。夏ゆえに通る人もない。僕は彼女を実家の玄関まで送ると、中に入るのを断ってそのまま城之崎へ向かった。それが彼女の顔を見た最後だった。
その後、彼女は親戚に送られて東京に戻ったという。
「昨日、戻ってきました」
彼女は簡単なショートメールをよこした。次の日からまた入院したという。
「とにかく頑張っているのよ」
そのショートメールとともに様々な処置が行われていることが記されていた。オブジーボとヤーボイの併用で免疫療法を始めたという。また、胸膜癒着術をほどこしたため、胸の痛みがひどいとも訴えた。
だが、秋が深まり冬となった月末、彼女からのショートメールから「頑張ってみる」との言葉は消えた。そして雪の季節を迎えた。
「腸閉塞で体調不良となり、退院が出来なくなりました」
......
「絶水食となり、すでに5日間寝込むようになりました」
......
「点滴になりましたけど、また食事を作ってくださるのを楽しみにしてます」
......
「やっと重湯をとれるかもしれません」
......
「あと一週間すれば......」
このショートメールを受けた時、外にボタン雪が降っていた。そして、その後、雪の降りしきる中に彼女の音信が消えた。
今、僕は雪の城崎温泉に一人で来ている。いつか、彼女とともに通った道を通って。そして、いつか彼女と再び会えるかもしれないと思い、今でもその道を進み続けていこうとおもう。いつか、行く手の雪の先で彼女に会えるかもしれないと期待し続けて。