【八】
「お紅ちゃん平気だったの!?」
宿屋へ戻ると、バタバタと舞台で舞っていた踊り子たちが一斉に紅子に駆け寄ってきた。
「お紅ちゃん無理やり連れ出されてたから、うちら気が気じゃなかったんよ。何もされてない?」
梅夜は青白い表情で紅子の肩をつかんだ。
指先が微かに震えていた。
「大丈夫です。ご心配おかけしてしまい、申し訳ありません」
「お紅ちゃんが謝ることじゃないわ。護衛のはずがそいつとグルになっていたらしくて……もう!やっぱりお紅ちゃんも舞台に立ちましょうよ。そうしたら……!」
「そ、れは…………」
紅子が言い淀んでいると、女将代理が「お待ちなさい」と取り成す。
「紅子さんの立場を考えてくださいな……梅夜さんなら、分かるでしょう」
女将代理の言葉に、梅夜はぐっと声をこらえるように「……はい」と低く答えた。
「ですが、今回のことで私も少し肝を冷やしました。なので、給仕はいざというときに力が出せる者にしましょう。それから、皆に護身術を学ばせます。誰しもが今回のことに無関係なわけではないのだから。……そして、紅子さん」
「はい」
トキントキンと凍てつくような、何とも正常とは言い難い心臓の音に、紅子の聴覚が奪われる。
「あなたには、伴奏をやってもらおうと考えています」
「……三味線、ですよね」
紅子は俯いた。
「そうです。…………もしかしたら、昔のように………いいえ、何でもありません。とりあえず、紅子さんは他の給仕たちと一緒に護身術と体力をつけてください。それから、 大変とは思いますが、演奏の方も練習しておいて、踊り子たちと合わせられるようにしておいてください」
キビキビと指示を出し、
「では今日は解散。皆、早く寝なさいね」
と、手を鳴らした。
皆が寝静まる時間、紅子は一人、寝所近くの窓から見える蒼い月を眺めていた。
三味線は、もうずっと弾いていない。
彼女の母親が存命していた時は、二人でよく弾いていた。それに、滋宇がたまに加わって太鼓を叩く。
そっと、自身の部屋から持ち出した三味線に視線を落とす。
左の指に指掛けをはめ、軽く棹に力を入れ、撥を右手に持つ。
トロン、と音を出してみる。
何とも言えない感情が、ふと込上げる。
もう触りたくなどなかった楽器。懐かしい音。母の教え。母の笑顔。母の奏でる美しい音色。
ああ、こんなにも。
──こんなにも、寂しい。
「……っ」
ほろりと涙が頬を伝う。
溢れて止まず、三味線に雫が落ちぬよう手で涙を拭う。
「お紅ちゃん」
慌てて振り返ると、やはり、滋宇が長い髪をなびかせて立っていた。
「起こしてしまった?」
「ううん。目が覚めただけ」
「起こしたんじゃない」
紅子が苦笑すると、滋宇は「いいの」と隣に腰を下ろした。
表から私生活が見えぬよう、窓は玄関とは反対側に付けられている。紅子は少し身を乗り出し、足を立てて窓を跨ぐようにして座る。
そっと三味線を撫でる。
「少し、手入れをしなくてはね」
紅子が呟くと、滋宇は「ええ」とだけ応えた。
ふと、紅子を見上げた彼女は微笑んだ。
「ね、弾いて」
青白い光に照らされた滋宇の瞳が、青く煌めく。
「……大分弾いてないから、下手よ」
口から言い訳が滑り出る。
紅子は汗がじわっと手の平に広がるのを感じた。
「いいのよ。……ああ、あの曲がいいわ。昔あなたが作った曲」
覚えてるでしょ?
そう言わんばかりの口元に、紅子は眉を下げて笑う。
「……本当に、下手よ」
「いいのよ」
滋宇は「いいの」と繰り返した。
「……そこは別に、今はどうだっていいの」
滋宇はそう言って、膝を抱えた。
長い髪が、畳に落ちて軽く音を立てた。
「弾いて」
懇願にも似た響きのある声色に、紅子は黙って頷いた。
撥を構え直して、目を閉じて息を軽く吐く。
とろん、とろんとろん。
温かい響きを持つ音色が、大切に紡がれていく。
「綺麗な音色……──懐かしいわ」
そっと首をもたげて、紅子に顔を向けて穏やかに微笑んだ。
紅子はそれには応えずに、ただただ指と手首とを動かし続けた。
涙が、頬を伝うのを感じながら。
三味線の音は、明け方近くまで鳴り続けた。
「──綺麗な音色ですね」
眼鏡にツイと光が射し込む。
「ですが、何か胸に込み上げてくるような音です」
男は反射する眼鏡の向こう側にいるもう一人の男に声をかける。
「知りませんよ。もう気は済みましたか?帰ったら仕事なんて死ぬほどあるんですからね」
月の光に反射する茶髪を掻きながら、男は不機嫌そうに返す。
「全く……これで誰にも目を留めない、良い人などいなかったなど聞きませんからね」
「ああ、大丈夫です。居ましたので」
「ああそうですか。ならよかっ──……え?」
茶髪の男は目を点にした。
「居ましたよ。でもまぁ、あと二年……待ってからですけれど。その間に相手の相手が決まるやも、ですし」
「そしたらこっちが困るのですが」
呑気な主人に、茶髪の男は大きな溜息を吐いた。
「それに、この話は元々乗り気ではないんですよね。彼女の意思も聞きたいですし。何せ、親同士が勝手に盛り上がっているだけなのですからね」
「そんなもんですよ。ていうか貴方様は、もっと真剣に探してください。でないと」
「不細工だと言う得体の知れない女と結婚……まぁ僕は別にそれでも気にしませんが」
男が乾いた笑いを上げると、
「またそんなことを……まぁ確かに、大人しくしていればお母上様は──……」
と茶髪の従者は俯いた。
「そうですね……あの人が大事なのは自分の体裁ですからねぇ。それと、私の評判を落とすこと。ま、私も資金を頂いて新居へ移れるので、あと二年後が楽しみですねぇ」
「……早く、抜け出しましょう。あんな胸糞悪い所」
従者はぐっと拳を握りしめた。
ポン、と頭に手が置かれる。
「君が居てくれて、良かったです」
にこりと笑う主人に、茶髪の従者は口元を歪めた。
「貴方が能天気な方で良かったです」
「そうきましたかぁ」
ペイッと払われた腕をプラプラさせ、男はクツクツと笑う。
帰り道、三味線の音が、優しく彼等の背を押した。
紅子はもともと楽器演奏の素質が強く、将来は奏者になってもおかしくないというほど期待されていました。




