【六】
塾は週に三日間、自身の習いたいことを教えてくれる。
「やっぱり、字が書けない子は少ないのね」
と、こそっと耳打ちするように桜は言った。
桜は背筋をしゃんと伸ばし、深緑に反射する髪を肩の高さに揃えている、格好いい女子だ。切れ長の瞳が、より一層彼女を惹き立てている。
聞けば、彼女は紅子と同じ年らしい。
彼女の家は由緒ある武家の家らしく、桜は親からすれば望まれなかった性別で生まれてきてしまったらしい。
だが、彼女はめげなかった。
自分の存在意義を、自分で確かめるために、或いは見つけるために、この塾へと赴いたそうだ。
「私は、できたらお嫁になんか行きたくないの。父のもとで剣術を極めたいのだけど……なかなか、そうはいかないわよね」
筆をことりと置いて、彼女は寂しげに笑う。
塾を出たら、即結婚。
それが、親に決められた道らしい。
「父は最後まで……私を認めてはくださらないでしょうね」
パチパチッと十露盤を叩きながら、誰に言うでもなく呟いた。
「桜さん………」
大丈夫ですよ、きっと認めて貰えます。
そんな気休めの言葉を、彼女は欲してなどいないだろう。ただ、誰かに聞いてもらいたかっただけなのかもしれない。
「……今度」
紅子はシャッシャッと筆の形を整えて紙へと押し付ける。
真っ黒な墨が、白い紙に色を付けていく。
「私にも、教えてくださいな」
目を少し細くして、紅子は唇をそっと曲げた。
桜はきょとんと目を瞬いたが、すぐに頬を染めて、
「ええ」
と嬉しそうに笑った。
「あ、紅子ちゃん」
と、隣の席に座っていた昭平が、紅子を呼ぶ。
紅子は内心ビクビクしながら、
「何でしょう」
と笑顔を向けた。
「これ、どうやるの?」
十露盤を手にしながら唸る昭平に、紅子はほっと胸を撫で下ろす。
秘密を知られてから、彼女は昭平が口を滑らせるやも、と気が気ではなかったのだ。
本当にうっかりしていた。
今、国はいい動きをしていない。むしろ他国との戦争の道を歩み始めている。国民の誰もが、それを望んでいる。
もし戦争が始まるのだとしたら、紅子の能力は決して人に知られてはならない。売られる、という危険の他に、戦地へと向かわされることになるだろう。
彼女の能力をもってすれば、死なない兵士がたくさん産み出される。彼女の祖母の時のように。
紅子はキュッと締め付けられた心臓にそっと手をおいて、ゆっくりと深呼吸した。
口が乾く。
彼女の祖母は能力を軍の者に知られてしまい、戦地へと連れていかれた。
そして、彼女の祖母は──。
「紅子ちゃん?」
心配そうに覗き込んできた昭平に、紅子はぎこちなく微笑んだ。
「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてしまって……どれですか?」
長く紅い髪を耳にかけ、紅子は昭平の手元を覗き見た。
「……いいよなぁ、昭平のやつ」
坊主頭が売りの柴田権次郎は大きな溜め息をついた。
「ほんとだよなぁ。美人で控えめで後ろ盾もあって、おまけに勉学まで優れてる紅子さんに仲良くしてもらって……まぁ、お似合いってやつだよなぁ」
権次郎のすぐ隣にいた汐留馬庄も首肯する。
「ああ、あいつの家って名家なんだっけか」
「あんななりしてても、確か昭平のやつ、剣の腕は……」
「なんのお話ですか?」
ふっと上から澄んだ声が降ってきた。
「あ、酒井さん」
「昭平の話だよ。あっ、座って座って」
と、二人は筆を置いて座布団を譲る。
「どうぞお気になさらず……昭平さんて、確か長男ではなかったかと思うのですが」
明菜の呟きに、二人は「あー」という肯定の声を漏らした。
「やっぱり、長男じゃないと女性陣としてはアウトな感じなのかい?」
馬庄は眼鏡をかけ直しながら力なく笑った。
「そうですね、大事です。私は特に……あまり言いたくはないのですが、家が大きいものですから、半端なところへは嫁がせて貰えません。いくら政略結婚が薄れてきたとはいえ、力を持つ家の風習というのは、なかなか……。いい人を連れてこれなければ、私は父様の言うところへ嫁ぐことになるでしょうね」
明菜は静かに書を閉じた。
目を伏せ、赤い唇をきゅっと引き結んでいた。
「私は父様のお人形ということなのかと、時々考えてしまいますわ」
「まぁ、女子なんて大抵そんな感じでしょうけれどね」
と、口を挟んできたのは桜だった。
「けれど、やっぱり……私は私の好きな人のもとへ嫁ぎたいのです」
明菜がそう漏らすと、男子二人は「え」と固まった。
「さ、酒井さんはもう……好きな人が……!?」
おろおろと狼狽える彼らに、明菜はクスリと笑ってみせる。
「内緒です」
人差し指を唇の前に立てながら言う彼女に、二人は頬を赤らめた。
「……いい人」
ぽつりと呟いた紅子に、昭平は視線を投げる。
「紅子ちゃんもいるの?気になる人」
腕を組んで机に突っ伏す彼に、紅子は「いえ」と首を振った。
「私は、嫁いだ人を好きになりたいなと思っています」
昭平はじっと腕の中から紅子を見つめた。
「それは、好きになった人とは結ばれることがないからってこと?」
昭平の言葉に、紅子は軽くかぶりを振った。
「それも無いとは言いきれませんが」
しゅっと音を響かせて筆を走らせる。
「何かの縁で結ばれていたのだと思うからです」
コトンと筆を置いて、紅子は昭平に笑顔を向けた。
彼女の笑顔に昭平は言った。
「君は嘘つきだね」
「え……」
思いがけない反応に、紅子は目を丸くした。
「君は、何も考えてなんかいないだろう」
むくりと起き上がりながら、彼は十露盤の珠を弾いた。
紅子は黙って続きを促した。
「君は、何も望んでなんかいないだろ?」
机の下で、紅子はきゅっと手に力を込めた。
「それを悪いことと言うつもりも毛頭ないし、口出す気もないけど。人生、もっと楽しんだ方がいいんじゃない?」
そっと視線を外して、「そうですね」と笑った。
笑ってみせた。
昭平もまた、にこりと笑みだけを返した。
帰り道、紅子はずっと俯いて歩いていた。
「お紅ちゃん……今度は何があったの」
滋宇は沈黙に耐えかねて口を開いた。
紅子は俯いたまま、ボソボソと小さな声を出した。
「人生、もっと楽しんだ方がいいんじゃないって言われたの」
滋宇はピタリと足を止めた。
紅子もつられて足を止め、ゆっくりと滋宇に身体を向ける。
「無理に、決まってるのにね」
諦めたような、寂しげな色を灯す紅子の瞳に、滋宇は何も言えずにいた。
明るい日差しの似合わない紅子の背中に、滋宇は拳を握りしめた。
タタタッと紅子に駆け寄り、腕にしがみついた。
「滋宇……?」
「さ、早く宿に戻ろ」
わざと明るい声で、滋宇は笑顔を紅子に向ける。
紅子は眉を下げて「そうね」と口角を上げた。
黒い雲の隙間から、一筋の光が漏れ出ていた。
桜は武家の娘ですが、女が武を極めることは良しとされていません。代わりに花嫁修業として生け花や舞を習っていますが、先生たちからの評判は良くても、どうも性に合わないようです。




