第六話 藍色の髪
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二人が行き着いた先は、小さな水溜まりの様な所だった。
水源になっていたらしく、水の澄んでいる事この上なし。
現在、梅雨も終わり秋に近い。肌寒いほどの寒気であるが、薄着の秋冷にはこれと云って防寒具を持っている様子も無く。水は、人間を悴むほど冷たいものだった。この寒空の下、水に浸けるのは忍びない気がした司。
それ以前に、水浴びと云う物がない魔物には、禊をしている位で水に浸かる事を極端に嫌った。だが、そう云う訳にもいかず、司は禊の場所を利用しようとした。
髪を染めるため水辺に付いてから早数時間は経っていた。だが、渋る秋冷の上着を引っぺがせ、肌寒い間々待たせていたのである。
「綺麗な髪だが仕方がない。」
秋冷が肌を露にした状態で、切株の上に座っていた。もう抵抗する気力も失せた秋冷が頭を垂れている。
郭の樹の樹皮を煎じて、数分煮込んだ物を着色料として利用した。長時間丁寧にやれば黒が出来るが、時間短縮のため藍色に近くなった。
それを秋冷の頭の上から、丁度良い、温かさの侭、鍋を膝に乗せて、液体の中に髪を垂らさせた。
秋冷には熱い様で膝を諤々と震わせる。だが、時間とともに冷めたのか、静かになった。
「どうするのだ?こんな事して? 」
一抹の不安があるのか、秋冷が何時に無く不可解な顔付きになっている。髪を染めているため、鍋に額を接近させた侭なので、司には表情が分からなかった。
「髪を染めるに決っているだろう。明日中には、此処を出るぞ。」
「だから、無理だって……。俺は此処であの人を待つ。」
司が少し考え込んでいる。だが、真剣に考えている訳ではない様だった。
此の侭だと、髪先だけ濃く染まってしまうと、思い、直ぐ染め液を秋冷の後頭部に掛けていた。その様子は、司が秋冷に寄り添って立っている様に見えた。
「お前の過去に興味はないが、負けたのだから約束は守れ。お前は私の下僕だぞ。主人の意志は尊重しろよ。」
司は悪びれも無く、主張した。
だが、秋怜は何故か腹立たしくなかった。彼は、始めて会った時から、化け物である秋冷に悪い感情を向けなかった。その上、彼は秋冷を人間の様に扱う。この二つで、ポイントが高い。
どうしても秋冷を連れ出したいのか、彼は一歩も引かなかった。自分のためを思って云っている様な気がした秋冷。
「もしも、俺が付いていっても、魔物である上に、門が付いて来るぞ。」
秋冷は完全に鍋が膝の上に乗っている事を忘れていた。
急に立ち上がったもので、液体の入った鍋をひっくり返してしまった。その黒い物は、一面の青々とした草野割れ目から急激に吸い込まれて行った。
あぁ……と溜息を零してから、司が鍋を持ち上げて、清らかな水で洗い始めた。見る見る内に、どす黒く広まったが、直ぐに透明な色合いに戻った。
「魔物であるのは十分承知だ。だが、門とは何だ? 」
袂から手拭いを取り出すと、秋冷に向けて投げ付けた。
空中でキャッチする秋冷。
液体が髪から顔へ流れ出て、上半身に垂れていた。それをゴシゴシと拭いてから、頭に巻いた。
「祠の後ろにある門だ……。魔界と人間界を繋ぐ出口。魔物が人間界に来られるが、人間が魔界に行く事は出来ない門。魔物は俺が居る限り自由には出られない。但し、俺が呼べば出て来る事が出来る。」
司は息を呑み込んだ。
司は考えた。
もしこの門が開放されれば、人間が全滅する危険性を孕んでいる。秋冷が門の鍵となって、永遠に門を守ればそれはない。だが、秋冷が望めば、人間界は闇が支配する魔界となるのだ。
力の差は力然としている。大の男が数名挑んでも、下級の魔物ですら倒せない。人間は逃げ惑って……、考えるだけで恐ろしくなった。
「お前の行く所に何処でも門は出現するんだろ?この地が門を開ける場所なのか? 」
まだ水辺で鍋を洗いながら背中が語っている司。
「うぅぅん。確か、俺が何処かに動けば、門も俺の後ろに出現した。」
「要するに、お前がこの地に定住したから、門に立派な祠がたったんだな。それに、魔物もお前が呼び出さなかったら、動けないのだろう。それって損な役回りだな……。使い走りにされてないか?お前に……。」
「そうとも云う。」
「じゃぁ。今のお前と同じではないか。良かったな。弱者の気持が分かって……。」
事の重大さに理解していない司がアッケラカンとしていた。このお気楽極楽人間を物珍しく秋怜は見詰た。
そして、大きな声で説明した。
「良いか良く聞け!魔物が使えると云う事は、この人間界を虐げるだけの力を持ったんだぞ。」
直ぐに司が振り返ると、それにびっくりした秋冷。
彼は目の前に進んで来た。殴られると思って体を硬くしたが、司は、もう一つの手拭いを袂から取り出して自分の腕を拭いてから、秋冷の頭を撫でた。
「それでもお前は今迄、一般の人間を襲わなかった。魔物として馬鹿な事をしているのは分かるが……。でも、それで良いと思うぞ? 」
コソバユくて司の腕を払い除ける。
秋怜の思い人が云った言葉がダブった。昔そんな言葉を聞いた覚えがある。
「今迄、何度も何人もの人間を殺している。化け物だと云った人間は、あの茂みの中に沢山埋まっている。」
思い人が死んでからは、命の尊さを理解して彼等の骸を土に帰した。今迄気付かなかった無数の死骸は、痛々しくも白い骨になっていた。それが、彼女の儚げな最後の姿に見えて、涙が止まらなかった。
「それは仕方ないだろう……。殺されそうになったから、殺したのだろう。因果応報って奴だな。昔はどうあれ、お前はいい奴だ。それでは駄目なのか? 」
秋冷は、何を云っても、司は意見を曲げない頑固者の様な気がした。
でも、非道な行いを庇っていると痛感した。昔の事を知っているなら残虐非道だったのも分かっているはずである。なのに、司はそれを無視して今を見てくれる。昔死んだ彼女の様に……。懐かしく思えて来た。
もしかしたら、司は自分を理解してくれるかもしれない。そして、あの人の様に化け物ではない、自分を見てくれるかもしれないと秋怜は考えた。
「私は全て承知の上でお前に着いて来いと云っている。後はお前の気持次第だ……。でも、無理にでも連れて行くからな。」
「それじゃぁ。俺の気持なんて聞くな!! 」
良い事を云うのかと思ったが、案の定、司は自己中心であった。だが、重い過去話なのに司とは、どんなに辛い過去で悩んでいる自分が嫌になる。その反面、心が柔らかくなった。
「お前の恋人は、死んでもこの地に残る事を望んだのか?思い出に引き擦られて生きる事が大切なのか? 」
「分からない……。」
秋冷が黙ってしまうと、外には樹以外に何もなくて、水面に波打った空色が同化した。チラホラ聞こえて来る虫の声が彼等の言葉を黙らせた。森の中では、ヒンヤリとしている。
「それに……、秋冷……死ぬ前に何か云ってなかったか? 」
「何か……?」
口を半開きにしたまんま、顔を上げた。
「覚えてないなら良いよ。」
司は、初めての笑みを秋冷に向けた。親が子供に向けるそれに似ている。
秋冷が言葉を発しようとしたら、司が頭にもう一度手を当て、秋冷が頭に付けていた手拭いを剥がした。
「お前!手拭いが黒くなるだろ……。落ちないんだぞ。これ!」
司が秋冷の首根っこを掴むと、水辺に引き摺って問答無用に、頭を突っ込ませた。這いつくばった姿勢で頭だけ水中に浸けられて、もがいている秋冷に、水で黒く染まった髪を洗っている。
余りに暴れるので、黒い水が着物に飛び散ったがそんなのは気にしない。
濯ぎ終わると秋冷の金髪は綺麗な黒髪に変身した。だが西洋人の髪質よりも乱反射し易い。
水が滴ってベチョベチョになったが、上着を脱いでいて本当に良かったと秋怜は思った。
司は、今迄自分の手を拭いていた布を秋冷に渡すと、次は黒くなった手拭きを水に浸けた。
愚痴愚痴、愚痴を零している司と対照的に秋冷は鳶の鳴声に似た笑いをしていた。
化け物の自分がたかが人間に、慌てふためいている滑稽さ。
門の前であったら、奴等に何て云われるか分かった物ではない。だが、一瞬だけ自分が人間になったかの様に錯覚した。
「あ~ぁ。」
笑い疲れたので、溜息に変わった。
でも、この男と一緒にいれば退屈はしないだろうと秋怜は思った。
長い年月の長い時間を、少しでも短くしてくれる人間に又出会えた気がした。彼は、あの子が連れて来たのかもしれないと思った。ならその意志に従おうと頷いた。
「負けたのだから借りは返さないとな……。」
洗濯をしている司の側に顔を拭きながら腰を下ろした。
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