第二、三話 少女
2
秋冷の動きが止まる。彼の覗いた下には、人間が居た。地上から枝は見えない。よって、秋冷がそこに居ると女は気付いていない。
杉の先端から見下ろすので、顔までは判断出来ないが、上質の着物を着ている。苦しそうに歩いている。
秋冷ほどとは云わないが、中々の上玉。
「女が?こんな所まで……? 」
秋冷は目を疑った。
此処までの道程は、大の男で三日歩いて付けば良い方で、女の足なら相当困難な事。
下の村までは楽に数日、掛る。
「おい女! 」
声と同時に飛び降りた。振って湧いてきた様な、秋冷に驚いた。後ろに尻餅を付いてから、大きな瞳を彼に向けた。
その表情を見て秋冷は驚いた。
昔の記憶が呼び覚まされる。懐かしい臭いのする彼女の面影がある。泣出しそうな位の懐かしさが込み上げた。彼女と出会ったのも、今の表情であった。
昔の秋冷は、人間が鳥居に一歩でも近づけば、首を刎ねた。
首を見せしめに、村の赤子の側に残して帰る事を繰り返した。彼は残虐さを絵に描いたような、人格で、その容姿とは裏腹に瞳だけが、血生臭かった。
だが、大分前の或る日、彼女が現れた。始めて、人間とは美しいと感じた。
懐かしさを感じ続ける訳にはいかず、秋冷は目を見開いて現実を直視した。
「あぁ……。あぁ。」
悲鳴にならない声で、女が体全体を震わせている。額には脂汗が垂れている。
確かに、秋冷は魔物の部類である。どんなに美しくても、金色の髪に、琥珀色の瞳、真珠の様な肌は、この世界では考えられない。その上、この国は外界との交流を避け、今でも長い事自国の文化しか知らない。
秋冷が魔物と気が付いて、慄いている様に見えた。これは可哀想なので、カラカウ訳にもいかず、秋冷は溜息を吐いた。
「冷かしで来たのなら、帰りな……。此処はお前の来る所ではないよ。」
久々の人間は、自分の顔を見ただけで、恐れてしまうのでは仕方ない。日が暮れる前に帰してやろうと考えた。
この付近は秋冷のお陰で、盗賊もいないし、追いはぎも出ない。
近頃秋冷は、天狗として呼ばれていた。枝と枝とを渡る姿が、何処かの山の天狗に似ていたためだろう。
又一人の時間を持て余すのかと、憂鬱になった。しかし、女の大きな眼が恐れ以外の鋭い光を放った。
「いえ……。」
女は起き上げる。まだ震えている足を振り絞って、秋冷を真っ直ぐ見た。
「この山の主とお見受けします。どうか私の話を聞いて下さい。」
喉の奥から絞り出している声。秋冷は身じろぎもしない女に、やはりあの子の面影を重ねていた。
体全身を小刻みに震わせながら、声もシャガレテいる。だが、瞳が強い印象を残す。
やはり、秋冷の印象に強い子を思い出す。記憶の中では、もう輪郭すら思い出せないほど、昔。彼女は秋冷を恐れもせず、この山を登って来た。一目で気に入る気丈の強さ、そして美しさ。秋冷に昔やって来たあの子と同じ事を云うこの女の話を聞いても良いと思った。
「分かった……。ついて来な……。」
秋冷は人と同じ歩調で進んだ。彼なら数秒で移動出来る距離だが、敢えて地べたを這う様に歩いた。
この頃、人間に優し過ぎるのでは……と門の中の奴等は云う。
秋冷もそれが良く分かっていた。だが、想い人……の顔が過ぎる度、自分が甘い奴でも良いと思った。
二人は祠のある一本杉の前に立つ。彼はしめ縄が重々しくぶら下がっている祠の真っ正面に腰を下ろした。
3
「で……、俺に何かようか? 」
湿気が、不快な暑さを誘う。だが、人間でない秋冷は、汗一つ浮べない。
祠の中から声がする。久々の女だ。頭から丸呑みに……地鳴りの様な音。無造作に掻き出される多数の声。
「俺を怒らせたいのか? 」
と心で一喝すると、祠の声は収まった。
秋冷は門番と云え、魔物の下っ端ではなく、それなりの権力者である。だが、祠の裏にある門を守っているのは、理由があった。
女は思い詰めたように少し黙って、大きな声を発した。
「お願いが有ります。どうか、私の大切な人を助けてください。」
女は目に涙を浮べ、力強く叫んだ。
始めは驚いて声も出なかったが、時が経つにつれ、笑いが込み上げる。声を高らかに上げて笑う訳にもいかず、歯を食いしばった。
この女は、あの子と同じ事を同じ様な素振りで云う。昔の彼女も第一声はそれであった。
狂おしいほどの思いを抱いて、秋冷の前に現れた女。心が痛くなる。
秋冷は、苦し紛れに言い放った。彼女の面影を避ける様に……。
「お前、俺が願いを聞いてくれる。何かと勘違いしてないか……。我々は、人間の陰でしかない。それが何故、お前の私利のために動かなくてはいけない。」
気分を害した秋冷。
昔の事と瓜二つなのが気に食わない。秋冷は立ち上がり、杉の木に飛び移ろうとした。だが、涙もなく、正面に端座している女の哀れさは伝わった。口を一文字に閉め、秋冷を見詰ている。
其の動作も同じ……、ただこの娘と居ると昔の記憶が呼び起こされ過ぎると思った。
忘れたい訳ではない。思い出したい訳ではない。ただ昔の事過ぎて、切ないだけだった。
「貴方のお力をお借りしたいのです。どうか……。」
引き下がろうとしない決意に満ち溢れた瞳が、どうしょうもなく、苦しかった。
彼は泣き落としや、下手な美辞麗句を並べられたなら、その場を立ち去るのは安易だった。だが、女はビクリともせず、此方を見据えている。
「生き返らせたいのは誰だ? 」
女に秋冷が背の侭で喋った。
「村の長者様の息子様です。」
飛び跳ねる様な声を出した少女に、その侭、言葉を続けた。
「私の想い人は、村の長者の息子様で、家柄も段違いです。あの人には、良い縁談が山の様に来るでしょう。私は知っていますが、あの人は私の顔さえ知りません。気付かれなくても其れで良かったのです。でも、事の流行病で村の半数が倒れ、数日前に息子様がお倒れになって……。」
女は言葉に詰った。泣きもしないが、唇を噛み締めていた。
「自分の事を好きでもない男を助けるのか?自分の顔さえ知らない男を? 」
「はい……。」
娘は、微動だにもせず、強く言い放った。屋
こんな所まで、秋冷の思い人と似か寄っていると下手な笑いが込み上げた。嬉しさではなく、悲しさから来る切なさが彼の顔を一杯にした。
「なら……。何が必要か? 」
助けるつもりはないと、心で反対したが、言動が狂った。だが、仕方がないと思う。
多分これが本心。
秋冷の昔やって来たあの子の代わりに助けようと感じた。
「祠の中にある魔の者をお貸しください。」
静寂が走る。杉で囲まれているなら余計一層。
「何故それを知っている? 」
押し殺したような声が秋冷から発する。彼の背後、祠からどよめきと、多くの怒声が聞こえる。外気が張り詰められた。
「昔に、長者の子孫を救った魔の者が、この山奥の祠に眠っていると……。其処には門番が居て、彼と交渉すれば、死人が生き返る魔物が手助けしてくれると聞きました。彼を助けたいのです。どうか……。どうお願いします。」
何度も何度も頭を下げる女。
後ろ向きの侭、動けない秋冷。
だが、祠の中が騒がしく、思考を纏める事が出来ない。
彼を困惑させているのは、女の後ろにある秋冷の想い人かと思うほど、心の嵐が吹き乱れた。
人間が死ぬと土に帰り、そして人として生まれ変わると聞いた事がある。
巷の俗な宗教思想であるが、今の秋冷には、忘れられない言葉であった。
そう、彼の想い人はもうこの世の人ではない。彼の手によって殺され、事実を知らずに今迄苦しんで来たのである。後悔は、全てこの杉達が吸い込んだ。だが、苦しみは彼の体の中を逆流する。
あの子が生前云った言葉の中に、「この場に居続けて……。そうすれば、又会える。」と口癖があった。
彼は十数年以上も、あの子の言葉を信じている。例え、その淡い希望が、嘘だとしても……。
もしかしたら、女がその生まれ変わりかもしれない……と、拙い約束を覚えていてくれたのだと思いたかった。記憶はなくても、また出会えるのだと思いたかった。
「それで……?魔物を貸せと。」
精一杯平常心を装う。
祠の中は余計怒号をます。しめ縄がさわさわと揺れ出した。張り詰めた空気が押し寄せる。
女は顔を上げると、爛々とした目付きで大きく頷いた。
「お貸しいだだけるのですか? 」
「あぁ……。」
秋冷が小さく頷くと、より一層空気が盃曲した。どうやら祠の門内部が盛り上がりを見せているらしい。
その筈、秋冷があの子と会う前は、魔物を使って、悪さをしていたから、ちょくちょくこの門を開いていた。しかし、あの子が逝去してからは、全く開いていない扉なのである。
門番の秋冷が呼ばない限り、この世を行き来する事は出来ずにいる魔物達が久しぶりのこの世を垣間見ようとするのも頷ける。
秋冷は体を翻し、祠のある岩の上から地べたに飛び降りる。体を揺さ振って、女を手招きした。
「お前の代わりに、力を貸してやろう。さあ、手を取れ。」
自分の背丈よりも二、三倍ある岩に易々と、女が登れる訳がない。秋冷は手を差し伸べた。
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