第十三話 橋の下
携帯を、携帯してませんでした。
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司が、ホッとした顔付きになった。秋冷に背中を向けると、司は自分の力で立っていようと、踏ん張った。
秋冷が石の掴むと、やはり冷たく、気分的に寒気が走った。
だが、石を握った手は熱く燃えている感じを受けた。
司は体を支えるのに精一杯で、気を抜けば足を崩して倒れ込んでしまう。
石を掴んだつもりが司の肉まで握ってしまっていたが、食い込んでいるので避けられなかった。
生きた人間の肉体から骨を抜き出す様な錯覚に襲われる秋冷。
司を励ます言葉を掛ける余裕も無い。
ずるすると音を発して、石が司の内部から取れる気配がした。渾身の力を込めて、秋冷が引っ張る。
指の先に石が食い込んで、紫色に変色した。だが、力を緩める訳にも行かず、無心で引っ張る。
秋冷の腕が軽くなったと感じたと同時に、司の体から紺碧だった石が取れて、空気に触れた。
その反動で、司は秋冷に凭れ掛かり、二人して倒れ込んだ。
すぐさま、しゃがみ込んで司を仰向けにし、息があるのを確かめた。取り出した石を手に握った侭である。
化け物の秋冷ですら、あれだけ拒絶感を持ったのだ。
人間の司が、今迄これを持っていたのは驚きである。その上、彼はこれを抜き取る事に絶えられる精神力と、剥がされる時の反動を受けても、倒れるぐらいで終っているのは凄い。
「大丈夫か……?おい……? 」
石を足元に置くと、透き通った紺碧だった石が、岩石の様な色合いになり、形状もゴツゴツした物に変化した。
美しかった石も、司の体を離れた瞬間から風化している様に見えた。秋冷は、自由に為った腕で、司の顔を二・三度叩く。
「その石を、橋の下に投げろ……。」
蚊の鳴く様な声だったが、秋冷はそれに頷き、放した石を思いっきり橋の下へ放った。
反射的に行なったので、秋冷が行なった全ての動作が、ゆっくりと一齣づつ流れていった。
石が地面に当たる甲高い音が聞こえると、橋の上で司を庇う様に秋冷は、覆い被さった。
音は聞こえない、地鳴りもしない、だが、嫌な予感はあった。瀕死の司を残して逃げる訳にも行かず、彼を抱き抱えると首元だけをずらして、橋の下を眺めた。
「どうなってるんだ……。」
秋冷は息を呑んだ。
石が大地に減り込んでいて、其処から水が湧き出している様に見えた。
石はそんなに大きくも重くもなく、この高さから投げても大地に埋まる様な事はない。その上、水は次から次へと尋常ではない量を、噴水している。
あっと云う間に、二人が居る橋の下に川が流れ始めた。堀は今迄、川が其処にあったかの様に役割りを果たしている。
此の侭、橋の下を覗き込もうとしたが、司を抱き上げているので動けず、この場所に寝かせて置く事も出来ず、事態を見守っていた。
やはり、石の所から水が湧き出てきている。止まる気配すらない。
司に説明を煽ろうとしたが、疲労を称えた顔色なので、困り果てていた。だが、やはり事態は進行し、川の縁から水が流れ始めて、見る見る内に、滝の様に溢れ出した。
人家が数十メートル先にある。それから立て続けに人家が連なっている。
秋冷は頭上を見上げた。太陽が少し右にずれている。
この侭行くと、昼休みに帰ってきた多くの人々が、犠牲になる。やばいと感じ、直に飛びだそうと秋怜が動く。
司を橋の上に寝かせ様と、下へ下ろす。
すると行き成り裾を捕まれ、司の意識が回復した事に気付き驚いた秋怜。
事態は秒単位で深刻になっている。司の手を払い除けて飛びだそうとした。
「まて……。」
辛そうに上半身を上げ、司が此方を見た。
「何で止めるのだ。この侭、行けば、村は全滅するのだぞ。」
この村は、丘陵地帯にあり、窪み部分に設置されている。もし水が堪れば、大きな湖になるかもしれない。
「いいから……。話を聞け。此処で待つのだ……。」
脂汗を掻きながら司は、秋冷の腕を引っ張って、力任せに座わらせた。
司は考えがあると分かり、その場で待機する事にする。
橋の上からは、農村が広がっていた。その村を大きな波が襲っている。
水は豊作だった畑を飲み込み、家々をなぎ倒し、水は直に人間の高さを越え、濁りのない透き通った液体は、逃げ惑う人間を飲み込んだ。
人は為す術もなく、動けないものから順に水の底に沈んで行った。高みに逃げる時間すらない。
居ても立ってもいられなくなった秋冷が立ち上がり、司を睨んで云った。
「何で助けない。こんな物、どうにでもなるだろう。」
司が直に動かない下半身を引き摺って、秋冷の体を押さえた。しがみ付いたの方が正しいだろう。
「お前は阿呆だ。良いか?今お前が出ていったら、もう駄目なんだよ。」
話が見えず、シドロモドロした秋冷。
司は何時でも冷静で、この洪水が予期していた様な口振りであった。そして、この後何があるのかも知っている。
村を飲み込んだ後、水は橋の高さまでやって来て、端から徐々に沈んでいった。だが、その水の底まで見透かせる透明度は、始めのせせらぎと変りがなかった。
橋を少し残して、水が満杯となると、木々が少し頂点を見せているだけで、大きな湖の様になった。音の全くしない無風状態。
橋の上、二人がいる一番高い所まで、目と鼻の先になった所、急に水は止まった。
秋冷は橋の中央まで、水が来る事を恐れたが、司は動こうとはしなかった。そして、満杯の水は、数分、其の状態の侭、景色が広がった。
全て水の下に埋まっていると思えないほど、とても静かだった。
「あっ……。」
司が声を発した。だが、秋冷はそれに気づかない。
ただ辺りを警戒して、うろたえているだけだった。
体を横にした侭、司は橋の外を見ていた。下の惨劇よりも、秋怜は、遠い空を見ていた。