⑧知らなかったらとは考えなかったのですか
ただぼんやりと、ユージン様のお戻りを待っていました。
どれくらい時間が経ったのか。外の音は聞こえてきませんが、カーテンをめくって窓の外を見れば日はほとんど沈んでしまったようでした。東の空はもはや真っ暗で。
時間が経つにつれ、後悔が押し寄せてきました。わたくしの気持ちはきっとご迷惑だったに違いありません。
「はぁぁ……」
わたくしの深いため息は、黄昏時のざわめきにかき消されました。顔を上げると、扉の前には泥と汗にまみれた婚約者……候補の方が。
「君たちのおかげで、命拾いした。多くの命が救われた。それを、伝えに来た。本を読むのは悪いことではないかもしれない。先日は、すまなかった」
彼はそれだけ言うと、すぐに背を向けました。
生きてお帰りになったのは大変喜ばしいことですし、本を許していただけるのなら願ったりかなったりだと言うのに。気分は重くなる一方で。
「同じ、言葉は、……言えましたか?」
「――いや」
開いたままの扉の一歩向こう側で、話し声が聞こえました。
そして入れ違いに入っていらっしゃったのはユージン様です。
「ツ、ツコリさん。おま……たせしま、した」
「あっ、はい、おかえりなさい」
彼は肩で息をしながら膝に片手をつき、もう一方の手は布に包まれた何かを大切そうに胸に抱えています。
水差しから水をグラスに注ぎ、ゆっくりこちらへ歩いていらっしゃったユージン様へお出しします。彼は一気にそれを飲み干して大きく息を吐きました。
「ツコリさんのおかげで、ドラゴンの飼育が実現しそうです。聖女様と騎士団長さんは完全に例のドラゴンを制御下におけるようで……あ、いや、今はその話は置いておきましょう」
「はい……?」
「陞爵が、いえ、私の場合は叙爵が正しいですね。叙爵が内定しました。子爵、ですけど」
ユージン様が照れくさそうに笑います。
わたくしは驚きのあまりすぐに声が出ませんでしたが、細く息を吐いて呼吸を整え、口を開きました。
「そう、ですか。おめでとうございます」
「ありがとうございます。大きかったのは今回の土石流対策とドラゴン対応でしたが、今までに進言したことや作成した資料についても、全て考慮してもらえました」
欲しがっていらっしゃった「功」ですね。なんだか遠い存在になってしまったような気がして、わたくしは上手に笑えているか不安になります。
ユージン様はそこで言葉を切って、大切に抱えていた物を手近な机へ置きました。くるんでいた布をひらくと、そこには金に輝く天秤が。
「天秤……」
「私は聖女様から聞かされるまで何も知りませんでした。貴女に、ツコリさんに子爵家のご長男との縁談が持ち上がっていたなんて。俺、こっちでは自由恋愛と結婚がイコールじゃないことわかってたつもりだった。でも自分の身に置き換えて考えたことなかったんだ」
ユージン様の手が再び私の肩を掴みました。離すまいとするかのようにしっかりと、でも、優しいタッチで。
「功をたてられたのはほとんど貴女のおかげだ。情けないと思われるかもしれない、でも、やっと、やっと男爵令嬢の貴女にこうして気持ちを伝える権利を得ました」
そう言って彼は天秤に視線を巡らせました。一方の皿にはコインが2枚乗っています。もう一方は空っぽで、天秤は大きく傾いていました。
彼の言葉は続きます。
「私はこの地について知らないことのほうが多いし、貴族のことは何もわからない。先ほどの彼のような武力もないしずっと頼りない男だ。でもこの天秤が私の武器だと信じています」
わたくしが天秤に目を向けると、彼の手が肩から離れました。軽くなった肩が寂しくて、求めるように天秤へ手を伸ばします。指が震えて、コインを上手に掴めない。
慈愛の神マ・サキーマが天秤を持つ理由を知る女性は多くありません。これは裁定なのです。ある男には功も罪も愛も憎しみもあった。でもひとりで持つには重すぎて、神々の住まう地に渡ることはできなかった。だから女はそれを半分持つことにした……。
つまんだコインを、もう一方の皿へと乗せました。天秤がふわりと動いて小さく揺れながら均衡を保ちます。
「これを知らなかったら、とはお考えにならなかったのですか」
「知らないはずがないです、優秀な貴女なら」
ユージン様がわたくしの両手を握りました。わたくしの目を見つめたまま、時おりぎゅっ、ぎゅっと握る手に力が入る様子は、まるでわたくしの存在を確かめているようでくすぐったくて。
「ツコリさん。お……俺と結婚してください。何も持ってはいないけど、でも貴女のことだけは何より大切にしていくから」
ここにきてやっと、わたくしは何が起こったのかを正しく理解しました。
知識を求めることを勧めるだけでなく、わたくしの得た知を信じてくださるユージン様と、結婚。
涙があふれて視界がぼやけていきます。
「せ、聖女様とご結婚なさるのかと」
「えっ。あり得ません、聖女様には騎士団長さんもいますし、そもそもあのひと威圧感すごいし……いやそうじゃなくて。私はツコリさんが」
「ユージン様……っ」
わたくしがユージン様の胸に飛び込むと、彼はふらついて何歩か後退し、背後の机に倒れこみました。
「わっわっ、すみません。ああ本当に情けないな」
「そっ、それは大丈夫です。わたくしが悪かったのです、けど、その、ユージン様」
「わっ! すっすみませんっ、決してわざとでは!」
彼の左手がわたくしの胸のふくらみから離れました。
両手をわたくしの目の前で広げ、降参をアピールする彼と目が合います。ふふふ、とどちらからともなく笑みがこぼれて、そのうち図書館いっぱいに笑い声が響きました。
わたくしは、わたくしの世界を広げてくれた方と、荷物を分け合いながら生きていきたいと思うのです。
お読みいただきありがとうございましたー