④遠征隊が出発しました
武装集団より少し遅れて図書館へ戻りました。彼らはユージン様を取り囲んでいて逼迫した様子ではありましたが、敵対している雰囲気とは違うようです。
できるだけ気配を消しつつ、彼らの近くへと歩を進めます。
「ギョーナム山ですか」
「ああ。聖女様は『この件をサー・タニーケへ伝え指示をあおげ』と仰せだ」
「わ……わかりました、10分、いや5分だけお待ちください」
一体何が起きようとしているのか、わたくしは不安で心臓が口からまろび出そうになりながら、さらに一歩前へと進み出ました。
ユージン様と目が合います。
「ツコリさん、よかった。ギョーナム山麓の地図を持って来てもらえますか。それからギョーナム山の植生に関する本と、あとはそうだな、もし雪山を攻略したような本があればそれもお願いします」
「はい! ムギエスト山を行軍した指揮官の手記がございます」
目録をめくり、タイトルを確認して該当する本のある棚へと向かいます。動き出したとき、じっとこちらを見つめる瞳と目が合いました。武装集団の中でもお若い方でしたが、装備に刺繍された紋章がわたくしの婚約相手として挙げられた家のそれです。
とはいえ今はそれにかかずらっている場合ではありません。該当の図書を見つけ出し、ユージン様の元へとお持ちしました。
「ありがとう。ツコリさんはこちらの手記から、山越えでの装備について書き写してください。特に雪崩の対策部分を中心に」
少し古い本でした。語調が今とは違い、1年前のわたくしならきっと読むことはできなかったと思います。今でも全て理解するほどに読み込むことはできないでしょうけれど、指定された部分を書き写すくらいのことは問題ございません。
わたくしがその作業をする間に、ユージン様は何冊もの本をめくっては地図とにらめっこをしていらっしゃいます。そのうちに、何かメモをとり始めました。
「おい、のんきに読書している場合じゃ――」
「お待たせしました」
しびれを切らしたひとりが……この中で恐らく最も階級の高い人物が声をあげると、ユージン様は今までせっせと書き付けていたメモを差し出します。印をつけた地図と、わたくしが書き写したものも一緒に。
「これは?」
「ギョーナム山で気を付けるべき点、対策が必要な点、準備しておくべき物です。聖女様に渡してもらえれば伝わるはず」
「わかった」
リーダーらしき方が受け取った書面へざっと目を通すと、大きく頷きます。そのまま回れ右をして図書館の出入り口へと向かったとき、婚約相手……本人かそのご家族かはわかりませんが、その方がわたくしのほうへ向き直りました。
「女性は女性らしくあるべきだ」
言われた瞬間、体が固まります。女性に奨励されるような詩集とは違う本を読む姿は、みっともなかったことでしょう。生まれたときからそう教えられて生きてきましたから、わたくしにはそれが痛いほどわかります。
同時に、結婚すればもう新たな知に触れることはない、世界が広がることはないと思い知らされたのです。
「時間がなかったんだ、そういうこともあるだろう」
リーダーがそう言って窘めました。
でもそういうことではありません。たったいま、わたくしの未来は暗く閉ざされたのです。
返す言葉を探す気力さえ失ったわたくしを隠すように、ユージン様が一歩前へと出られました。
「例え時間があっても、私は同様にツコリさんに依頼しましたよ。国内の本については彼女のほうが詳しいですから。そして今回の遠征から戻ったとき、また同じことが言えるのか聞かせてください」
ユージン様と衛兵たちとのにらみ合いは一瞬のことでしたが、わたくしにはとても長く感じられました。
彼らが出て行って図書館に静けさが戻ると、やっと緊張感から解放されたのです。わたくしはホッとしてへたり込んでしまいました。
「だっ大丈夫ですか、ツコリさん?」
「ええ、申し訳ありません。大丈夫でございます」
ユージン様の手をお借りしながら椅子へ座り直したとき、先ほど依頼した軽食が運び込まれました。
下女と一緒になってお皿をセッティングする姿は、こちらの世界へいらっしゃったときと変わりません。
ずっとここにいられたらいいのに。
また滲んできた涙を手の甲で拭って、わたくしもお茶の準備を始めます。
準備を終え、図書館の奥の執務室にはわたくしとユージン様だけとなりました。最近のふたりだけの慣例にしたがって、わたくしも椅子にかけてお茶をいただきます。
「魔物の大量発生ですか?」
ぱくぱくとつまめる軽食を召し上がりながら、ユージン様が頷きました。
「瘴気を払えば払うほど、行き場を失った瘴気が濃くなっていきます。まだ聖女様の浄化が終わっていない山や森が目下の懸念となっているのですが……」
「ギョーナム山も瘴気の発生ポイントのひとつでしたね」
「それに加えて、地盤が緩いことが考えられるのです。80年ほど前に大規模土石流が発生したという記録を見つけ、それから注意深く確認したところ最近でも小さな崩壊、岩盤崩落が随所に見られました」
それでギョーナム山での土砂崩れの対策と浄化とを優先的に行うべきだと、そう提案していたらしいのですが一歩遅かったと。
「そこへ魔物の大量発生による緊急遠征ということですか」
「はい。ただ魔物の種類によってはまた土石流が起こることが考えられます。いえ、起こるという前提で動くべきなのです」
ユージン様が聖女様へ宛てて準備した先ほどのメモは、その対策ということなのでしょうね。予め考えていたからこそ、すぐに指示ができたのでしょうけれど……。
彼が求めていた「功」は遠のいたかもしれません。
いつもより苦い紅茶なのに、水面に映る私の口元は少しだけ弧を描いていたように見えました。