③世界の広さを知りました
ユージン様と聖女様のご歓談があった翌朝。わたくしは寝不足のぼんやりした頭でユージン様のお部屋へ向かっています。
城内を歩きながら、やはり昨日のことが頭から離れません。
あのとき、結婚という単語が出た直後に聖女様が「声が大きい」と注意をなさって、声をひそめてしまわれたので詳細はわかりません。
歴代の聖女様は、当代の王族またはその近縁とご結婚されることが普通であったと、最近読んだ歴史書に記載されていました。でも今までは、ユージン様のような同郷の方はいらっしゃいませんでしたものね。お相手にユージン様を指名されるのは当然と言えば当然かもしれません。
「結婚、ですか……」
そうですね、普通でしたらユージン様はとうの昔にご結婚なさっているであろうご年齢です。以前の世界ではわたくしたちよりも結婚年齢が少し遅いらしく、独身でいらっしゃったそうですけれど。
わたくしはエプロンのポケットを上から叩きました。カサリと音がします。
実家から定期的に送られてくる、様子伺いの手紙が入っているのです。日ごろは領地の近況などが記されていますが、先日届いたこれはそうではありませんでした。
結婚せよ、と。
ユージン様の元で図書の仕分けを手伝っていることが耳に入ったのか、そのような「はしたない」ことはやめて身を固めるようにとのことでした。
お相手として、代々近衛を輩出する名門の子爵家のお名前が記されています。わたくしにはもったいないほどの方です。
「結婚だなんて」
ユージン様のお部屋の前に立って、自分の頬を両手でパチンと叩きました。
……が、すでにお姿はなく。従者曰く、いつもより早起きをしてお支度を終えるとすぐに出て行かれたと。まさかと思って図書館へ向かうと、彼はさっそく調べものをしていらっしゃいました。
「お早いのですね。あら、それは地層に関する本ですか?」
「おはようございます、ツコリさん。はい、これはティディーノ領の断崖から見るギョーナム山の地層についてですね。こっちが地下水に関する……」
「聖女様のため、ですか」
意図せず言葉がぽろりとこぼれて、ユージン様が驚いたように顔を上げました。口を少しだけ開けたまま、右手の中指が眼鏡を押し上げます。
わたくしはハッと我に返って口をおさえました。なんてことを言ってしまったのかしら。
「もっ、申し訳あり――」
「そうですね、聖女様のためでもありますし、いつもならこの国の人々のためと答えるところですが……。でも今回は、自分のためなんです」
わたくしが首を傾げると、ユージン様は照れくさそうに笑って続けました。
「生活には困らず、自分が存在する証としての仕事もいただいてますから、多くを望むつもりはなかったのですが。あさましいかな、『功』が欲しくなりまして」
「ああ……。そっ、それは人として当然の欲求ですわ。朝のお食事はまだでいらっしゃいますね? こちらでも食べられる軽食をご用意するよう手配して参ります」
無作法なお辞儀をひとつして、わたくしは図書館を飛び出します。
なんのために功を欲したのか、聞くことはできませんでしたし、聞きたくもありませんでした。
やはり、聖女様がご結婚相手にユージン様を指名なさったに違いありません。
ただその場合、たくさんの功績や武勲をあげていらっしゃる聖女様と、形ばかりの騎士爵であるユージン様とでは釣り合いがとれませんから。
功が欲しいとおっしゃったユージン様の表情、初めて見ました。
彼がいらっしゃってから今日まで、ほとんど毎日一緒に過ごして来ましたのに。あんな笑い方をするだなんて。
城の中を行き交う人々はいつもより忙しなく見えます。私もあれくらい忙しく走り回っていたら、こんな風に心乱されることもなかったのかしら。
用事を済ませた後もなんだかすぐに図書館へ戻る気にならず、庭を少しだけグルリとまわることにしました。
花を見て花言葉を思いだすのは貴族の教養のひとつでしょう。ではあの紫色の可憐な花が、その茎や葉に猛毒を隠していると知る人はどれくらいいるかしら。
あの奥に見える古い東屋の装飾が、東南地域の国の文化を取り入れたもので当時は国中で流行ったのだと知る人は?
庭の中心に据えられた彫刻、慈愛を司る神マ・サキーマがなぜ天秤を持っているのか答えられる女性は。
ユージン様と出会う前と今とで、世界がこんなにも違って見えるだなんて思いもよりませんでした。知識を求めるのがはしたないことだと、なぜ疑問を持たずにそう信じていたのか。
わたくしはもっといろいろなことが知りたい。願わくは彼のそばで。
そう思ったとき、わたくしの瞳に涙がにじみました。ふふ、いやだわ。もう図書館へ戻らないといけないのに。
以前より広くなった世界の中で、わたくしは大きく息を吸いました。
と、そのとき。
図書館のほうへと急ぐ集団の姿が見えました。誰もかれもが武装しています。
わたくしも慌てて図書館へと戻りました。