惜春
今日は二十四節季のうちの穀雨で、読んで字のごとく稲や麦などの穀物の生長を助ける雨が降る時季とされています。春分から清明、穀雨ときて、次は立夏ですから、もう春は終わりに近いわけです。
わたしは晩春ってだるいような物悲しいようなところが好きなんですが、そうした時季を詠んだ和歌を集めてみました。
花は根に鳥は古巣にかへるなり
春のとまりを知る人ぞなき
崇徳院・千載和歌集
崇徳院についてはいろんな逸話がありますが、小倉百人一首の、
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の
われても末にあはんとぞ思ふ
という情熱的な恋の歌が広く知られていると思います。
花や鳥は帰るところがあるけれど、春はどんな港に行ってしまうのだろうというこの歌も同じように風物に心を寄せて表現しています。彼の歌の良さはあまり技巧を凝らさない率直なところだろうと思います。
暮れてゆく春のみなとは知らねども
霞に落つる宇治の柴舟
寂蓮法師・新古今和歌集
崇徳院の歌を本歌としながら、霞に消えていく柴を載せた舟を出してより絵画的になっています。もちろん宇治としたのは源氏物語の宇治十帖のヒロイン浮舟のはかないイメージなんでしょうが、「落つる」という表現がうまいなって感じです。
柴の戸をさすや日影の名残りなく
春暮れかかる山の端の雲
宮内卿・新古今和歌集
前にもご紹介した天才少女・宮内卿の歌を柴つながりで掲げてみました。「山家の暮春」という題によるものですが、陽射しが当たっていたのが夕暮れになって、消えてしまったという時間の変化が春の終わりに重なり、さらに遠景の山や雲に視点を転じているところがさすがって感じです。「名残りなく」によって、かえって春を惜しむ感情を呼び起こさせようというねらいでしょう。
めぐりゆかば春はまたも逢ふとても
今日のこよひは後にしもあらじ
京極為兼・玉葉和歌集
この歌は宮内卿の密度の濃い内容の歌に比べると、意味としては春はまた来るけれど、今夜はもう二度とないっていうだけです。
でも、新古今風と違った素直で新鮮な歌を目指した鎌倉時代の作品はまた別のよさがあって、歌うような語りかけるような口調は現代的と言ってもいいような気がします。新古今集まではどうも桜のような類型的な主題が多くて、想いを託したいような感じはずっと時代を下っていく必要があるようです。
なにとなく見るにも春ぞしたはしき
芝生にまじる花の色々
後伏見院・風雅和歌集
これなどはイングリッシュ・ガーデンに咲いているような花を想像したくなります。芝生もそうですが、桜、山吹、藤といった定番の花以外のものも鎌倉時代から南北朝時代にかけては積極的に採り上げようとしています。
風雅和歌集(1346年)は玉葉和歌集(1312年)とともに集名に新や続といった文字が入っていません。これは伝統重視、悪く言えば前例踏襲の勅撰和歌集ではめずらしいものです。勅撰和歌集の編纂って公共事業ですから無理もないのかな。
霞みつる空こそあらめ草の原
落ちても見えぬ夕雲雀かな
冷泉為尹・新続古今和歌集
室町時代に編纂された最後の勅撰和歌集、新続古今和歌集(1439年)から採ってみました。既に文芸の中心は和歌にはなく、連歌にあって菟玖波集(1356年)が準勅撰集として編纂されています。
霞んだ空の中で鳴く雲雀は見えないし、夕方になって原に降りても見えないという意味ですが、描こうとしている情景も言葉のスタイルもずっと後の時代の芭蕉や蕪村の俳諧に近いように感じます。
例えば蕪村の「春風馬堤曲」を想い起していただければいいんですが、こうやって見ると文芸の連続性といったものが見て取れるような気がします。