満開の歌
東京では満開が近づいてる桜もある一方で、風雨が心配だって人もいるでしょう。昔から桜は我々の心をざわめかせてくれます。十二首の後半です。
桜狩り雨は降りきぬ同じくは
ぬるとも花のかげに宿らん
よみ人しらず・拾遺和歌集
紅葉狩りと同じように桜狩りって言葉があるんですね。馬を食べちゃうってことじゃありません。この歌は「同じくは」がキモで、どうせ濡れるなら花の下でという優雅な歌ですが、「ちょっと雨宿りさせてください。いえいえ、変なことはしませんよ」って「つくばねの歌」(わかるかな?)みたいな情景を思い浮かべちゃうのは……わたしの悪いクセです。
大空におほふばかりの袖もがな
春咲く花を風にまかせじ
よみ人しらず・後撰和歌集
こういう歌を思いつきだけのつまんない歌だと感じるか、イメージ豊かな雄大な歌だと感じるかは人それぞれでしょう。でも、「大空に」という初句によって、1本や2本ではなく、吉野のような見渡す限り桜が咲いている情景が捉えられていることだけは間違いないでしょう。
八重にほふ軒端の桜うつろひぬ
風よりさきに訪ふ人もがな
式子内親王・新古今和歌集
この歌には「家の八重桜を折らせて、惟明親王のもとに」という詞書がありますので、単なる招待の歌と解していいんでしょうが、内親王という立場から連れ添う相手を見つけることもできず、無為に老いていく我が身を嘆きながら、同じような境遇の親王に言葉をかけたものでしょう。ぽってりとした八重桜が彼女の濃い情趣にぴったりです。
桜花夢かうつつか白雲の
絶えてつねなき峰の春風
藤原家隆・新古今和歌集
これは古今集の中の、
世の中は夢かうつつかうつつとも
夢とも知らずありてなければ
というよみ人しらずの歌を本歌としています。したがって、はかない感じが素地としてあって、さらに雲が絶えて、つねなき風と念を押しているので、一層とらえどころのない桜の季節が白い雲のように漂い、流されていくといった趣です。
人知れずもの思ふことはならひにき
花に別れぬ春しなければ
和泉式部・詞花和歌集
最後に二首、代表的な女性歌人の名歌を挙げましょう。まずは和泉式部ですが、これは春の部ではなく、雑部に入っています。つまり歌の本意(この言葉の意味はちょっとややこしいのですが、一応中心的テーマとしておきましょう)は上の句にあると考えられたわけです。
「孤独に内省にふけるのはいつものことだが」と言って、花の散るのを見る春だからなおさら……と言うのが通常の発想ですが、下の句で「花と別れない春などないのだから」と言い、もう一度「もの思ふ」に立ち戻ります。自然に流れていく言葉とは裏腹に細やかで、複雑な感情の動きが表現されているのに驚かされます。
花は散りその色となくながむれば
むなしき空に春雨ぞ降る
式子内親王・新古今和歌集
もう一つは、ある意味で和泉式部以上に濃く、艶な式子内親王の歌です。ここにはもう桜の花はありません。情景だけを想像すれば葉桜に雨が降っているといったところですが、この歌をそのように解するのは完全な間違いです。イメージとして「花」、「色」といった言葉が喚起するあでやかさが「散り」、「なく」という言葉で否定されながらも残っていて、「むなしき空」はそういう過去の華やかさを重ね合わせた空であるはずです。
春の長雨(「ながむれば」が掛詞)も花の頃なら心騒がせるものであるわけですが、過ぎ去ってしまったという感慨とともに、これもただ無意味に降っています。もちろん彼女自身の空虚な人生の象徴詩でもあるわけです。
こうした定家を典型とする新古今集流の洗練された美意識と、個性的な深い感情が一体となって、比類のない世界を作り出しています。