アルフリーダ・ルドグヴィンストの回想
私が十歳のとき。
女性が空から堕ちてきた瞬間を見てしまった。
何もない空間から、優しく抱えられているかのように、ゆっくりゆっくりと。
幼い私は、よくわからないうちに走った。
辿り着いた草原の上に、大人の女性が倒れていた。額に張り付いた金髪が鈍く輝いていた。
それは二回目の世界大戦が終わってしばらく経った、十一月の肌寒い夕暮れだった。
驚くことに、彼女は私と同じ言葉が話せなかった。
「あの、はい、どーぞ」
私が差し出すトレイを受け取ると、何か言葉を話してくれたけど、私にはさっぱりわからなかった。
彼女は悲しそうな笑みでトレイを受け取った後、ベッドの上で、祖母が用意したクリーム入りのサーモンスープにスプーンを入れる。
「ねえ、あなた、おなまえは?」
私が尋ねると、また困ったように微笑んで、自分を指さして何かを喋った。上手く聞き取れなかったのか、私の知ってるような名前じゃなかったのかはわからない。
「えっと、わたしのなまえはアルフリーダ」
「ある?」
「アルフリーダ」
自分を指さして、もう一回名乗ったのを覚えてる。
「あるふりーだ」
私の名前を繰り返した後、彼女が僅かに頬を染め、ニコリと微笑んだ。
顔に小さな傷があったり、髪の毛が痛んでたり、頬が痩けていたりする。
しかし、よくよく見れば、すごく綺麗な人だ。微笑むと余計にそう見える。
背中にかかる金髪は少し疲れてるけど綺麗な輝きで、目は大きく鼻は小さくて、唇は柔らかそうだった。
歌劇のプリマドンナか何かかな、と思って見取れてしまう。
彼女は自分を指さし、
「……りあ……」
と消えそうな声で呟いた。
「リア?」
そう問い返すと、困ったように笑う彼女が、小さく頷く。
それっきり彼女は何も喋らずに、スープを口につけた。
こうして、言葉も通じない彼女が我が家の同居人となった。
まだ戦禍の傷も癒えない頃だった。
彼女の髪は少し痛んでるけれど、羨ましいぐらいのブロンドだ。
私の髪は青みがかった黒色で、当時の私は、金髪になりたくて仕方なかった。理由はもう覚えていないけれど。
だけど金髪の下にある背中には、小さな傷がいくつも隠れていると知っている。
いつか指先も触れたときも、硬かったのを覚えてる。まるで職人さんの手みたいだった。
「ねえ、リア」
母のお古のワンピースを着て振り返ったリアは、不思議そうに小首を傾げる。
「あるふりーだ? どうした?」
彼女は少しだけ、私と同じ言葉が喋れるようになった。
リア、というのは、私がつけたようなものだ。どうも本当の名前は他にあるらしいけど、私が呼んだ名前で良いと彼女が言う。
そんなリアが来て三ヶ月。
もはや彼女がいるのが当たり前の日常になりつつあった。
言葉がわからない彼女は妹のようでもあり、また優しく視線を合わせて笑いかけてくれる姿は姉にも思えた。
「リア、ワッフルは作ったことある?」
「わふる? いつも、たべてる?」
彼女が首を横に振る。
「そう。今日はワッフルの日なの。だからワッフルを作ったの。食べてくれる?」
当時の私は、控え目に言うなら、こまっしゃくれたガキだった。
周りの人間たちより頭の発達が早かったのか、言葉のわからないリアに対してお姉さん振っているときが多かった。
だけどリアも優しい性格なので、私の作ったワッフルを手に取って口にしてくれる。
「おいしい」
ほわんと、顔つきが笑みへと変わるのが、とても嬉しかった。
「ほんと? まだあるから、こっちのベリーは会心の作なの!」
「ありがとう、あるふりーだ」
そう言って彼女がまた一つ、手に取る。細長くて少し硬い指は、唇に残った赤いベリーを手に取った。
とにかく私がこの思い出に対して思うことは、三つ目のワッフルをリアが取る前に父が来てくれて良かったということである。生焼けということを教えてくれたからだ。
後に聞いたけれど、彼女は、そういうタイプのワッフルもあるんだと思ってただけらしい……ほんとゴメンね、リア。
一年も経った頃だろうか。
秋学期が始まって寒くなった頃の話だ。
すっかり体調も良くなったリアだったが、行き先がないので我が家で居候をすることになった。
幸い軍医帰りの父のおかげで、我が家は裕福ではないが余裕がある。
母は亡くなってしまっていたので、彼女の仕事はあった。家事はおばあちゃんがしてくれてたけども、それでも手があって困ることはない。
「あるふりーだ? どうしたの?」
ワンピースにエプロンを重ねたリアが小首を傾げる。
背中で揺れる彼女の金髪を眺めていただけなのだけど、私は気になっていた質問をすることに決めた。
「ねえリア、あなたってどこから来たの?」
庭に干した洗濯物を取り込む彼女を見ながら、十一歳の私が問い掛ける。
亡くなった母親のお古を着てるせいか、当時は父の後妻だと思った人も多い。
「リアは……」
洗濯物を持ったまま、青い空を見上げる。
私は彼女が空から落ちてきたことを知ってた。でも、どこから落ちてきたのかは知らない。
「ねえ、リアってやっぱり宇宙人なの?」
当時、学校では宇宙人とか未確認飛行物体の話が流行っていた。
大戦中にUFOを見たなんて先生が言ったからだ。男の子なんてUFOを見たなんて嘯く子までいた。
そんな他愛のない流行の中、私は家にいたリアのことを思い出したわけである。
「うちゅうじん?」
リアはとてもキレイだ。
小さな傷や痩せた頬にくたびれた金髪も、栄養と睡眠をしっかりと取っているうちに、輝きを取り戻している。
でも一つだけ知ってる。
彼女の胸の真ん中に、うっすらと赤く光るものがある。
その場所を抑える癖があるみたいで、時々抑えている。さっきもそうだ。空を見上げたまま、胸の真ん中を抑えて泣きそうな顔をしていることがある。
「宇宙人っていうのは、地球の外から来た人のことなの。リアって空から降ってきたから」
「ふふっ、リア、うちゅうじんか。そうなのかも」
まだ辿々しい言葉使いの彼女は、腕に私のシャツを抱えたまま、胸元を押さえて泣きそうに笑った。
その日は、よく走った。
学校から帰ってくるなり、洗濯物を持ったリアの前を走り抜けて、部屋に閉じこもって泣き出した。
母がいない私へ、自分の母のことを、執拗に自慢してくる同級生がいたせいだった。
当時の私はとても悔しくて、部屋に鍵をかけて泣き続けた。
気づけば寝入っていて、日もとっぷりと暮れていた。
「あるふりーだ、おきた?」
まだ言葉に慣れていないリアがドアの向こうからノックする。
「いらない」
「あるふりーだ? ぱぱ、しんぱいしてるよ」
「いらない!」
金切り声で叫んだ。幼い頃の私の声だ。さぞ家中に響いただろう。
次の瞬間、自分が目を丸くして驚いたことを思い出した。
鍵をかけたはずのドアが勢いよく開いたのだ。
「あるふりーだ!」
エプロンをかけたリアが、食事の載ったトレイを持ったまま開いたのだ。
「り、リア?」
「ごはん! たべないのは、だめ!」
彼女は相変わらずカタコトで喋る。彼女曰くこの国の言葉が難しいらしい。
「いらないの!」
毛布を被って世界から逃げ出そうとした。
「だめ!」
だけど簡単に私の隔壁は剥がされてしまった。
空中に飛んだ毛布が地面に落ちれば、少し怒った顔のリアが立っている。
「やだ! リアなんて嫌い!」
心ないことを言ってしまったとすぐに思ったけども、リアはトレイを私の机に置いて近づいてくる。
「あるふりーだ」
「近づかないで」
思わず手を振ってしまうが、所詮は子供の力。簡単に受け止められてしまった。
「ごはん、たべりゅ。わたしと、えっと、いっしょに! たべりゅ!」
言葉を覚え立ちの子のような言い間違いだった。
「りゅって」
悔しいかな。
そのカタコトに思わず呆然として、次の瞬間に吹き出してしまったのだ。
少し目を丸くした後、彼女は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「……あるふりーだ、きらい」
もちろん、本気で嫌ってるわけじゃないぐらいは、当時の私にもわかっていた。
ただ冗談めかしてポーズを見せていたのだ。とっくに機嫌を直していた私を、素直にするために。
「うそ、うそよ。大好き。ごめんって」
「ほんと?」
「ホントよ。だってお母さんがいる家にもリアはいないもの」
まあ、つまりそういうことなのだと、私は後に知る。
友達は私と町を歩いていたリアを母親だと勘違いして、キレイなママのいる私に嫉妬していたのだ。
それを知るのはずっと後だけど。
「……わかった。じゃあ、ごはん」
不服そうに文句のような言い方だ。
それが少し珍しくて、私はつい、
「食べりゅ」
とからかってしまった。
「あるふりーだ、きらい!」
またリアがそっぽを向く。
「うそうそ、ごめんってば、リア。リア大好き」
「ホント?」
「ほんとほんと」
まあ、媚びを売るような言い方だったけども、これもまた無邪気な子供のことだと笑って欲しい。
とにかく機嫌を直したリアは、私を引っ張って父親のところまで連れて行き、いっしょにご飯を食べることになったのだ。
ある日、私は学校で遊んでて、腕を怪我してしまった。
大したことのない擦り傷だった。けど汗まみれで気持ち悪い体を洗うには、右腕に撒いた包帯が邪魔だった。
シャワーを浴びることを諦めた私の前に、リアがお湯の入った桶とタオルを持って姿を現す。
「あるふりーだ、体、ふく」
未だカタコトの彼女が、笑顔で言うので、少し戸惑ったけど私は従うことにした。
上半身裸になって、リアのされるがままになる。
彼女の仕事はいつも丁寧で、優しい。真面目だなって思うことがある。与えられた仕事に対して、一生懸命だ。
逆に、暇になると持て余すようだった。手が空くと空を眺めていることが多い。首が痛くならないのだろうか。
お湯に浸したタオルで、丁寧に私の体を拭いていく。
「あるふりーだ? 痛くない?」
「うん、気持ち良い」
「そう? じゃあ、つづける」
桶に入れたお湯が漂う中、リアが私の背中を洗っていく。
チラッと背後の彼女を肩越しに見た。濡れても良いように、薄着になっている。その胸の真ん中に傷のようなものが見えた。
「あるふりーだ?」
「う、ううん、なんでもない」
「……ごめん、わたし、きずだらけ。みたら、きもちわるいかも」
「……そんなことないよ」
彼女はとてもキレイだと思う。
言葉もあまり通じなかったときから、どこか達観しているような目を見せていた。
「ごめんね」
「……何も悪くない。リアは綺麗だし」
その頃の彼女は、栄養状態も良くなっていたのか、髪にも艶があって見事な輝きを見せている。
改めてみると、とんでもない美女だ。どこか幼い雰囲気が危ういけれど、と年増になったときに振り返るのだけども。
リアは、空をよく眺めている。
ここ一年ずっとだ。
宇宙が恋しいの、と冗談めかして尋ねたら、彼女は悲しげに「そうかも」と答えて踵を返す。
ある日、夜空に一つ、星が流れていった。
リアが両手を胸の前で合わせ、それから天に手の平を抱え上げる。まるで何かを差し出すかのようだった。
父が言っていた。
彼女は、おそらく戦禍に巻き込まれたか、もしくは自ら戦ったのだろうと。
大きな傷はないが、小さな傷はいくつも残っていた。
「うう……」
小さな嗚咽が聞こえた。
泣いてるのだと気づいたけど、当時の幼い私はかける言葉が思いつかなくて、ずっと隠れたままだった。
彼女が来て数年経ったぐらいかな。
ある日、私が学校に持って来なきゃいけない物を、家に忘れた。
学校まで、リアが届けに来てくれた。大事な課題を受け取った私が、リアに手を振って見送っていると、後ろから数人の男どもが身を乗り出してくる。
「うっわ、何、あの可愛い人!」
そう色めき立つのも、わからないでもない。
「ふふん、うちのお手伝いよ。綺麗でしょ」
つい、そう自慢してしまう。
彼女は出会った頃からあまり変わってない。いや、痩けてた頬や小さな傷が消え、綺麗になったぐらいだ。歳を取った感じはしない。
思春期の男どもだけじゃなく、女子生徒まで出て来て手を振ってるぐらいだ。
「でも、フリーダの家のお姉ちゃん、変わらねえなぁ」
幼馴染みの一人が呟く。
別に深い意味などなかったのだろう。
でも、少しだけ心に残った。
そう、彼女は綺麗になっただけで、それ以外は全然変わっていないのだ。
国の義務教育を終え、十六になった私は高校に入った。つまり、リアが来てから六年が経っていた頃だった。
六年もあれば、私も大きくなり、思春期も迎えるというものだ。
彼女は未だに我が家の居候だったけども、もはや家族の一員とも言えた。
いつも家で迎えてくれるリアを見て、少し気になっていることがある。
本当に空から落ちてきたときから、変わった様子がない。
もしあの頃、二十歳だったら、今は二十六歳だ。でも少しも老けた様子はない。このときの彼女は、髪はばっさり切っていたけども。
もちろん、数多の小さな傷は治っていたり、髪や肌に艶が出て美人度が増したというのはある。
まあ、六年ぐらいだし彼女も若いのだから、そこまで変わらないかと思った。
「フリーダ、おかえり」
テレビを見ていたリアが立ち上がって迎えてくれる。
彼女は幼児向けの番組を見ることが多い。何が楽しいのか、ニコニコとテレビをずっと見てたりする。
それとワッフルが好きなのか、家事の合間におやつ代わりにつまんでいて、今日もそうしている。
「ただいま、リア。飽きないわね。私にもちょうだい」
「チョコレートソースかけてるから、食べ過ぎないように気をつけてね。……あれ? 今日はどうしたの? 何かあった?」
言葉もすっかり流暢になった。
彼女は父よりもよっぽど私を見ているせいか、ほんのちょっとした変化にもすぐ気づく。
今日も大方、私の眉間に寄った皺を見つけたのだろう。
「ちょっとね。学校で自由討議の時間があって、議題が今のうちの国だったの」
「この国の話?」
リアの横をすり抜けて、私はソファーにドンと腰を下ろす。
「ほら、一院制が本当に良いのかとか、憲法を改正すべきではないかとかね。それでちょっと熱くなっちゃって」
「ふーん」
「リア、全然興味なさそう」
「ごめん」
「まあいいわ。私だって別に興味がそんなにあるわけじゃないし」
これはウソだ。
最近、父がどうも共産主義被れになってきてるせいで、私は父とよく討論することがある。
うちの国は西側だけど、ソ連が遠いわけじゃない。
共産主義のすばらしさを説いてくるけど、とてもじゃないけど私は好きになれなかった。何せ働いても働かなくても一緒なのだ。
父は国への義務を果たすために軍医として戦場に行ってた身だ。そこで何かを見たのかもしれないけど。
「リアはどっちが良いと思う?」
「どっち?」
「共産主義」
「わからないけど……でも、みんな幸せなら良いかなと思う。ここは良い国だから、あまり変わらない方が良いかな」
「なにそれ、また宇宙戦争の話?」
テーブルについて、ワッフルをかじった。
私はもうずっとこの味だ。
「そう……かな?」
リアはあの流れ星の夜から、たまに宇宙戦争の話をしてくれる。
高校生で、少し血気に逸っていた私は、戦争の話が好きで嫌いだった。
野戦病院で働いていた父の悲惨な話が、複雑な感情を育ててしまったのかと自己分析をしていた。まあ、後になって違うと気づく。いつも後になって気づくのが、私の悪いところだ。そして、取り返しのつかないことが多い。
「ねえリアの戦争って、どんなのだったの?」
ベッドに腰かけて、洗濯物を持つ彼女を見上げた。
「……私の戦争?」
彼女は初めて見たときから、一つも変わっていない。時が止まったようだった。
「そう、宇宙戦争」
珍しく、彼女の話を深く聞く気になった。
彼女の語る話の節々では、とても親しい人がいたようだ。
婚約者? と冗談めかして聞いたことがあったが、とても悲しそうに目尻を下げたことを覚えている。
その顔を見た私は、その男に憤慨を抱いたものだ。こんな綺麗で優しい彼女に悲しい思いをさせるなんて、とんでもないやつだと。
同時に、彼女を取られた気にもなる。
学校のどんな仲の良い友達よりも、リアと一緒に暮らした時間が長い。
姉であり友達であり、たまに妹分のようにも思う。
「戦争なんて、しない方が良いよ、フリーダ」
言葉もとても流暢になった。といっても、私の話を静かに微笑んで聞いていることが多いのだけど。
「そんなのわかってるわよ。でも戦争しなきゃいけないときだってあるでしょう?」
私たちの国は、潜在的敵国がすぐ近くにある。このときも冷戦と呼ばれる状態で、時々事件が起きて、みんなが緊張状態に陥ることもあった。
「……そうかも。でも私は」
街でもすっかり慣れて、挨拶をする人も増えた彼女だ。
そして美人で可愛らしい。声をかけない人の方が少ない。
でも、男の話にも乗ることがない。興味がなさそうだった。
「ねえリア。リアはその……」
「うん」
「……どんな戦争を経験したの?」
幼い頃には、彼女は大人だった。戦争を経験していてもおかしくない。
まあ、当時の私が鈍感すぎて、今となってはビックリだけど。
「酷い戦争」
「酷い?」
「それで悲しくて……優しい、そんな戦争だった」
その中身を聞くことは、私が死ぬまでなかった。
初めて出会ったときのことを思い出す。
言葉通りの宇宙人というわけじゃないだろうけど、それでも彼女と自分が違う存在だということに、気づいた。
一度だけ、リアと大げんかしたことがある。
まあ実際には、私が一方的に怒っていただけなのだけれど。
十七歳の秋の頃だった。
彼女が庭に干した洗濯物を取り込んでいるのを、自分の部屋から見ていた。
長くなった金髪が、夕日で少し赤く染まってる。
……何となく、血に濡れたようだと思った。
そんな彼女が男物のシャツを広げて、ジッと見つめた後、ふふっと柔らかく微笑んだ。
――あれは、父のものだ。
この頃の私は少し潔癖な性格ではあった。
だから彼女の動作に少し苛ついてしまい、部屋から飛び出して庭へと走り出したのである。
「リア!」
「フリーダ?」
肩を怒らした私を見た彼女の顔は、本当にきょとんとしていて小首を傾げていた。
「……どうして、そんなことするの!」
「そんなこと?」
「それよ!」
彼女が今、抱えているシャツ。袖口が少し擦れていた。
「あ、え?」
「父さんの、でしょう! それをそんなに大事に!」
何を言っているかようやく理解したリアは、首を何度も横に振った。
「ち、違う、違うのフリーダ!」
「ひょっとして」
「全然違う、違うよフリーダ! そういうこと言わないで!」
必死に否定するということは、やましいことがあるんだ、と思った。まあ、本当にバカだなと当時の私を叱ってやりたい。
「出てってよ、そういうことするなら!」
「違う、違うの、違う……の」
「バカ!」
語彙も乏しく皮肉めいた言い回しも何もない、本当に子供っぽい罵倒を吐き捨てて、私は走り出した。
少しだけ言い訳をさせて貰いたい。
当時の私は、精神的に潔癖なところがあった。思春期特有の、男とか!ってヤツだ。それに輪を掛けるような事件、まあつまるところ淫行を学舎内で行っていたという事件があったのだ。
付け加えるなら、発見してしまったのが私、というのもある。
この事件で私が失ったものは初恋であり、得たのは男にマトモなヤツがいないという認識であった。二十代後半で優しい夫に出会えるまで、治ることはなかったのだけど。
というわけで、私の知らないうちに父とリアが、そういう関係になっていたとしたらと想像し、反発したのだ。
冷静に考えれば、そんなことはないのだとすぐにわかる。父も彼女も、距離を置いて付き合っている。
だけども冷静ではなかったのだと、どうか分って欲しい。
その夜、鍵をかけた部屋の外から、父が声をかけてきた。
「フリーダ、アルフリーダ」
「なに……」
「リアが出て行った」
まあもちろん私は、本気で出て行って欲しいと思ったわけじゃない。
彼女のことは家族だと思ってたし、大事な親友のようで、理解のある姉みたいに思っていた。
「……何で出て行くの? お父さんと」
「私がなんだい?」
「……その」
言葉にするのは恥ずかしかった。
それに、父に理解者を取られたような気もした。
「勘違いしているようだが、言っておくけれどね」
「勘違い?」
「彼女は対人恐怖症の気がある。今はだいぶ落ち着いたけれどね」
「え?」
「フリーダのことは信頼しているみたいだが」
「嘘だ! リアは!」
街に出れば、私と一緒に歩いていれば、よく声をかけられる。男にも人気だ。そりゃああれだけ美しい彼女だ。当たり前だ。
でも、今まで浮いた噂一つなかった。
「フリーダといるときだけは、大丈夫なんだそうだ。だから、彼女には私の仕事の手伝いもさせていない」
そうだ。私の父は医者であり、診療所を開いている。人手があるに超したことはない。
だけどリアはそちらを手伝ったことはなかった。
「……君の大事な家族は今頃、街で怯えているかもしれないが」
嘘だ、と思った。
六年間も一緒に過ごしてきた。ずっと一緒だった。
「やるべきことは、夜は寒いから二人分のコートを持って、部屋から走り出すことだろうな」
父の足音が聞こえ、人の気配が部屋の前から消えた。
でも一つだけ、心当たりがある。
彼女は大きな戦争を経験したと言ってた。
それで何が酷い目にあったのかもしれない。
わかることがある。
彼女はいっつも、子供向け番組を見てた。家の中で一人でずっと。
父の言う通りだ。
こうして、私は短い反抗期を終え、コートを掴んで走り出した。
「リア!」
「フリーダ?」
簡単に見つかって良かったと思った。
「なんで出て行くの!」
「だって……」
情けなく肩を落とし、小さなバッグだけを持って街路樹の下で立ち竦んでいた。
「……ごめん」
「フリーダ?」
「全然気づいてなくって……」
私は子供で、彼女は出会ったときから変わらず大人だった。
いつも家で私を待っていた。
でも今は、目を離せば消えてしまいそうな雰囲気だ。
「……フリーダ」
「私、私ね……」
「ごめん、フリーダ。誤解させちゃって」
「誤解……」
「なんとなく……男物の服って大きいなって思っちゃって」
「それってリアの大事な……人?」
「大事……だった人かな。幼馴染みがいたの」
「幼馴染み?」
「大人になって戦争で再会した彼はね、敵だった。憎み合うような敵だったの」
それがあの宇宙戦争の話だと、すぐにわかった。
彼女が語りたがらないけど、きっと心の中心にずっと残ってるもの。
「……もう、何も言わなくても」
「ごめん。でも」
「リア」
「フリーダに甘えすぎてたみたいだね。私も、少しずつ歩き出さなきゃいけないのかも」
力なく笑う彼女は、冷たい風に攫われて消えそうだと思った。
「でも」
「でもフリーダ。もし、フリーダが嫌じゃなかったら……」
弱々しく、こちらを覗うような態度の彼女に、私は何も言えない。
まだコートすら差し出してない。
「……うん」
「もう少しだけ、一緒に歩いて貰えると、嬉しい」
だからコートを広げて彼女に被せ、その上から抱き締めた。
「……当たり前でしょ、家族だもん」
大学は、家から通えるところにした。
当時、女で大学に通う人間は少なかったけれど、父の進めで地元の大学に入ることなった。
私も手がかからなくなったし、リアは少し前進して、街でパートタイマーとして働き始めた。
もちろん接客業はやめて、女性ばかりの縫製工場だったけれど。
「リア、お仕事は慣れた?」
「うん、楽しいよ。物が出来上がるのがこんなに楽しいなんて、思わなかった」
彼女は出会った頃から変わらない。
「そう」
たまたま帰り道が一緒になって、並んで歩く。
女性にしては少し高い私は、今ではリアを追い越している。
「フリーダ、綺麗になったね」
「え? そ、そう?」
最近は少し身だしなみも気にするようになった。そこまで媚びた服装はしないけれど、女性もそれなりに着飾るべきだと思い始めた。
「その黒髪も素敵だと思う。羨ましいかも」
「リアのブロンドの方が羨ましいんだけど……でもリアってほんと」
変わらないね、と言いそうになって、私は言葉と息を飲んだ。
彼女は本当に変わっていない。歳を取った風には少しも見えない。九年近く経つというのに、老けた印象が少しもないのだ。
確かにそういう人もいる。リアも老けにくい体質なんだと思ってた。
「ん?」
「ううん、綺麗ねって思って」
「え? そう……かな?」
珍しく少し照れたように、頬を赤くした。
「ホントホント。昔っから、フリーダのお姉さん、綺麗だよねって言われ続けてきたんだから」
「そ、そうなんだ。知らなかった」
そういえば、友達が家に来たとき、オヤツを出してすぐにどこかに引っ込んでたなぁ。
それが今では街で働いてるんだから、すごい進歩だと思う。
「でもフリーダもとっても大人になったね。少し……」
「ん?」
寂しい、という言葉は風に攫われた。
「リア?」
「早く帰ろう?」
「え、ああ、うん、そうね」
そんな一日もあった。
私は大人になっていく。
私がどこの職場で働くか、そのために家を出るか悩んでいたときだ。
「フリーダ、少し話をしよう?」
「どうしたの? 改まって」
「うん、これからの話」
そう紅茶を作り始めた彼女の背中は、私が幼い頃と何も変わってなかった。
ううん、変わらなすぎた。
テーブルについた私は、キッチンでお湯を沸かす彼女の背中を見続ける。
ずっと一緒にいてくれた。
母を亡くした私が、少しも寂しいと思わなかったのは、このどこか放っておけない姉のようなリアがいたからだ。
色んなことはなかった。
ただ、穏やかな毎日に、リアが寄り添っていてくれた。
もしかしたらこれから離れてしまうかもしれないと思ったら、とても寂しくなった。いっそ、一緒に来てくれないかなと考えてしまうほどに。
そんな私に彼女が言った、
「私、フリーダが働き出したら、ここを出て行こうと思うの」
という言葉には、とても驚いて腰を浮かす。
「え? え? なんで!?」
「フリーダも立派になったし、私もいつまでもここにお世話になるわけにもいかない」
「お、お父さんが何かした!? ついに何かしでかした!? ぶん殴ってくる!」
「ちょ、ちょっと待って! 何もないよ! 何もされてない!」
「な、ならなんで!?」
「フリーダもそろそろ気づいてるでしょ?」
「……リア?」
「私が、全然歳を取ってないってこと」
それは、ずっと心にわだかまってたことだった。
ストンと、浮かした腰を椅子に落としてしまう。
出会ったときの彼女は、二十歳ぐらいだったと思う。彼女もそう言っていた。確かに老けにくい人だっている。
でも、十年が経ったのだ。だけど、彼女は少しも変わらない。
皺なんて一つも増えていなくて、私が追いついただけの風景だった。
だから、変わらない日常の象徴のようでもあった。
「……どうして」
「周りの人に気づかれる前に、出て行こうと思うの」
カップに香り立つ紅茶を煎れてくれる。甘いお菓子も出してくれる。
ずっと変わらない、彼女との光景だ。
反抗期すらなく、私は彼女が大好きだった。優しくていつも私を気遣ってくれる、ステキなお姉さんだ。たまに茶目っ気を見せたりするけど、それも可愛い。
彼女が作る変わらない光景が、大好きだったのに、私は大人になってしまうのだ。
「……いつまでだって、ここにいて良いのに」
「ううん。フリーダもこれから変わっていくから、変わらない私がいるのは変だと思うし」
「自分でわかるの?」
お父さんも少し老けて、白髪が見えるようになった。お婆ちゃんも亡くなった。
幼馴染みたちもみんな大人になったし、私だって同じだ。
変わらない彼女がいれば、周りが変に思うし、何か良くないことが起こると思ってるのだろう。
「うん。私はフリーダと出会ったとき、二十歳を過ぎてたから。変わらなくてもおかしくないけど、自分が少しも変わらないことに、気づいてしまったし」
「で、でもいつまでも若い人なんて、いくらでも!」
「ううん。絶対にわかっちゃうと思うの」
彼女が手の平を私に向ける。
……女性にしては少し硬い手の平のままだ。
「私はここで幸せだったから。だから大丈夫だよ、フリーダ」
「……もう、決めたの?」
「うん。フリーダが働き始めたら出ていく。お父さんにも伝えてる」
「……なんて言ってた?」
「今までありがとうって。お金も少しくれたよ。良いお父さんだよね」
「リア……」
「泣かないで、フリーダ。会いに行くから」
「え?」
「一緒にいるのは難しいけど、でも、会いに行くよ。それにフリーダが何かあったら、助けに行く」
「リア……」
「ありがとう、フリーダ。私の友達、私の……妹って思って良い?」
私にとって彼女は、ずっと大事な家族だった。
その彼女が、別れを決めた。
引き留めたい。
でも、彼女の初めての我が儘だとも思う。
「……ずっと」
「なぁに?」
「リアを家族で当たり前の存在だと思ってたから、どっか行くなんて」
「私、フリーダのこと、大好きだから」
「……わ、私も」
「だから、離れても一緒だよ。何かあれば会いに行く。それが家族、だよね?」
どこか恐る恐る覗うような彼女の顔に、私は首を横に振った。
「いつでも会いに来て! 私の、お姉ちゃん!」
彼女のいない家は、少しだけ冬が寒く感じた。
「リアー、ねえ私の……ってそうだっけ」
昨日、彼女は僅かな荷物を持って出ていった。
どこに行くかは教えてくれなかったけど、手紙をくれると言ってくれた。
「……しっかりしなきゃね」
もう、あの頼りになる姉はいないのだ。
私が初めて、大人になったなと思った出来事だった。
久しぶりに彼女に会ったのは、それから十年近くが経ったときのことだった。
外交関係の役所で働いていた私は、他の人からは少し遅れて職場結婚し、実家を出て夫と一緒に平和な家庭を作っていた。
よく思い出すのは、娘が生まれて三年になったときのことだ。
買い物をしている最中に、子供を見失った話である。
「どこ行ったの……!」
我がことながら三歳になる娘は、贔屓目に見ても可愛らしかった。夫が男前なのが一番の理由だと思う。
最近、街で変質者が出たという話もあったし、余計に心配だった。
少し焦り始め警察に声をかけるか、と悩み始めたときだ。
「ママ!」
子供の声が聞こえ、振り返る。
トテトテと娘がこちらに走り寄ってきた。私もしゃがみ込んで、それを受け止める。
「もう……心配したんだから」
安堵だけが先走る。本当に無事で良かったと、抱き締める手に少し力が入った。
「あのひとが、つれてきてくれた」
「え?」
娘の言葉に従い、ようやく目の前に誰かがいることに気づく。
「すっかりお母さんだね、フリーダ」
懐かしい声、懐かしい呼び方。
「リア!」
そこには、昔と少しも変わらない、私の家族が笑顔で立っていた。
「リアは今、何をしてるの?」
公園の芝生の上で遊ぶ子供を眺めながら、ベンチの上に並んで座る。
「色々とね、旅をしてるの」
「へーいいわねえ。どこに行ったの?」
「欧州はもうかなり回ったかな。東側には行けないから、今度はアメリカに渡ろうかと思って」
「アメリカ! 引きこもってたのに、今じゃ随分と国際的なのね!」
そう冗談めかして笑うのと、リアは少しばつが悪そうな顔になる。
「そうでもないよ。仕事……みたいなものかな」
「へえ……それにしてもリア、厚着ね」
「だって昔から思ってたけど、この国寒いの」
マフラーに口まで隠している彼女が、とても可愛らしい。
「そうかな?」
「そうだよ。でも今日は良かった。フリーダの顔を探しに来たら、たまたまあの子を見つけて」
「ほんと助かったわ。ありがとう、さすが私の姉ね」
「……フリーダ、ありがとう」
「なんでリアが感謝するのよ」
「なんでもない」
「あ、そうだリア、うちに来ない? 一晩ぐらいだったら」
「ごめんね、ちょっと急ぎで」
「……そう、なの」
「また、戻ってくるよ。フリーダは私の家族なんだから、帰る場所はそこだけだよ」
そう言って、彼女は立ち上がる。
「そういえば、あの子の名前、なんていうの?」
「あれ? まだ呼んでなかったっけ? リリアナ、こっちにいらっしゃい!」
もちろん、娘の名前はリアに因んでつけたものだ。名前をつけるとき、ふとリアの名前を聞いたときのことを思い出したせいだった。
笑顔でとてとてと走ってきた娘を抱き上げて、
「ちょっと似てるでしょ」
と隣のリアに振り向いた。
彼女はなぜか、すごく驚いたように目を丸くしている。立ち竦んでいるようにも見えた。
「……そう、なんだ」
「どうしたの……? リア?」
「う、ううん! 何でもないの。フリーダ、ありがとう」
また泣きそうな笑みを浮かべて、彼女は自分の髪を少し撫でて俯いた。
「おねえちゃん、どうしたの?」
娘のリリアナが手を伸ばして、ペタペタと触れる。
「こら、ダメでしょ……リア、本当に大丈夫?」
先ほどから何も言わない彼女を心配して、覗き込もうとした。その瞬間、リアは顔を上げて、今度は少し照れたように微笑む。
「ねえリリアナちゃん、これいる?」
そう言ってリリアナは手に持っていた紙袋を取り出した。
小首を傾げる娘に、私の家族はワッフルを取り出した。チョコレートをたっぷり塗った、甘そうなものだ。
今度は私が驚いた。
それは、私が小さい頃からずっと食べてきた、彼女お手製のものだ。
少し考えた娘のリリアナだったが、すぐに元気良く
「たべりゅ!」
と手を上げて答える。
上手く言えなかった元気な返事を聞いて、私はぷっと笑いを吹き出した。
リアが頬を膨らませて、こちらに非難を向けている。
「もう! そんなこと覚えてたなんて!」
「ごめんごめん。ごめんってば」
まだ彼女の言葉が辿々しかったときの思い出だ。
私だけじゃなくて、彼女も記憶に残っていたらしい。それが嬉しい。
不思議そうに私たちの顔を交互に見比べる娘に、リアが微笑みかける。
「食べていいんだよ。ほら?」
「あい!」
小さな手でしっかりと掴み、ワッフルを食べ始める。
その様子を見て微笑んでいたリアだけど、残りが入った紙袋を私に寄越した。
「そろそろ行くね、フリーダ」
「もう行くの?」
「うん。船の時間もあるから」
「そう……また会えるわよね?」
「もちろんだよ、私の可愛いフリーダ」
背中を向けて、彼女はゆっくりと歩き出す。
町中を歩いても、もう昔みたいなおっかなびっくりな様子はない。
確かに彼女の容姿は変わらなくても、心は成長してるんだなと思った。
「リア! またね!」
大声で呼ぶと、彼女は振り向いてから、ニコッと笑ってくれた。
「すっかり老けたわね」
冬の寒い日、鏡の前で青みがかった黒髪を整えて、ため息を吐く。
「いってきまーす」
家の入り口から娘の声が聞こえる。学校に行く時間になっていたようだ。
「はーい、気をつけてらっしゃい! ……さてと」
私は片手間で地元の政治家の手伝いをするようになっていた。
娘も大きくなり、手が空いていたのもある。医師だった父の伝手だ。何でも戦場で助けた人らしい。
あと、その政治家が戦争が嫌いな人だった、というのもあった。
私の幼い頃には戦争は終わっていたけど、二次世界大戦と呼ばれるようになって久しく、父も従軍していた。
これは私のカンだけど、リアが言ってた戦争とは違う気がする。
当時の私の国は、隣国との直接的ではないイザコザがあった。そうなるとやはり、政治は乱れる。
比較的平和な国だとは思ってたけど、隣に潜在的ではない敵国があれば、やっぱりみんなの関心はそっちに向いた。
中にはイザコザを強硬的に解決すべきだという意見もある。若い人間の中には過激な意見を述べる人もいる。
政治家たちは戦争を経験してる人間も多い。やはり慎重派が大半だ。
私はそんな政治家の秘書紛いのことをしているせいか、文句をつけてくる人もいた。
戦争のことを思うと時々、リアを思い出す。
彼女は今、どこで何をしているのだろうか。
「お母さん! 忘れ物したの!」
出かけたはずの娘が帰ってくる。
「はいはい、走らないの。まだ間に合うから」
バタバタと家を走る娘を軽く窘めながら、鏡から離れた。
この子も大きくなった。おそらくあの人は今も変わらないままなのだろう。
「ねー、お母さん、みつからなーい」
「もう、だから片付けときなさいって言ったでしょう?」
ため息を吐きながら、娘の後を追う。
リアも元気だと良いのだけど、とすっかり老けた私は思うのだ。
それから彼女に再会せずにまた長い時がたった。
娘から結婚を考えていると聞いたのは、あれで何度目だっただろうか。今度こそは絶対に大丈夫だと言うが不安だった。
言い出した原因も知っている。とあるパーティーで出会いがあったからだ。
比較的大きな地方都市である故郷は、ニホンの都市と姉妹都市として提携をした。その関係で出会ったニホンの政治家秘書の男に、一目惚れしたそうだ。
正直、ニホンという国のことはほとんど知らない。経済発展が目覚ましくアジアじゃ一番の国らしい。だけど私にとっては、見知らぬ遠方の国だ。
一時期であれ娘に夫と認識されていた男は、アジア人らしからぬ彫りの深い容貌が特徴的な男だった。
「はじめまして、お母さん。将来有望な政治家志望とお伺いしております。色々と教えて貰えると嬉しいですね」
少し訛りはあれど、流暢に私と同じ言葉を喋る。
彼はこの国に留学しているのだそうだ。それで姉妹都市提携の手伝いをしているとのことである。
この頃は、隣国がかなり騒がしくなっていた。
内政不安やクーデター未遂を受け、植民地の独立なども起こり、そんな関係の折衝の手伝いをしているうちに、私も一端の政治家扱いされるようになっていた。流れで言えば、そんな感じだった。
「ええ、よろしくお願いするわ」
あまり良い印象がない男だったが、その印象通り、この男は最悪だった。
娘と結婚した直後、冷戦が一応の終わりを迎え、ニホンに一時帰国をした。
そして、戻って来なかったのだ。
私も見知らぬニホンまで、この男を探しに行った。娘が身重だったからだ。
……そこで、リアに再会するとは思ってもみなかったのだけれども。
「貴方がこんな遠くまで来てるとは思わなかったわ」
ホテルのロビーでソファーに座り、私は懐かしい家族と向かい合い笑いかける。
「ちょっと仕事があって近くにね。フリーダが来るって聞いて、ここまで来たの」
リアも嬉しそうに双眸を崩し笑ってくれた。
「元気だった?」
「うん。フリーダはどう? 元気だった?」
「私は元気よ。ちょっとおばちゃんになったけれど」
皺も増え、少し体も弛んできた。
まだまだ元気なつもりだけど、五十も超えた。黒髪にも白いものが増えてきた。
対してリアは変わらないままだ。
しばらく近況を告げる会話をしていたが、軽く深呼吸をし、
「娘が悪い男に騙されてね」
と吐露する。
「日本人なの?」
「政治家の卵だったはず」
「……あの男かな、えっと確か」
彼女が告げた名前に、私は頷いて同意する。彼女は少し困ったような顔をしてはいる。
「どうかしたの?」
「たぶん、こっちで結婚してる」
「はぁ?」
最悪だ。
膝の上に頭を抱えてしまう。
結局、娘は都合の良い現地妻として甲斐甲斐しく世話をし、そして捨てられたのだ。
……どうしたら良いの。
これを帰って娘に伝える?
私にはとてもつらい。
「……何はともあれ、あの男を見つけて文句の一つでも」
「わかった。伝手があるから、私に任せて」
「で、でも」
「お姉ちゃんに任せなさい、フリーダ」
彼女は項垂れた私の手を握り、安心させるために笑ってくれたのだ。
翌日、リアはその男を引きずってきた。文字通りに襟首を掴んで、ロビーで待つ私の元へ。
「ち、父の恩人だというから、ついてきたというのに!」
「うるさい、黙れ」
私のわからない言葉でやり取りをした後、ポイッと軽々しく投げる。
「あ、アンタは」
こちらを見上げる男を、私はさぞ冷めた目で見下ろしていただろう。
小さな悲鳴を上げ、揺れる目で怯えている。
「何か言いたいことは?」
「ち、違うんです、そんなつもりは」
「……立ちな」
「ひっ」
「良いから立て!」
ロビーが騒然とし始めるが知ったことではない。私はこの男を殴らなければ、気が済まない。
腰が抜けているかのように立てない彼の襟を、リアが掴んで無理矢理に立ち上がらせる。
丁度良い位置に顔が来たので、思いっ切り引っぱたいてやった。
そうしたら、男はまた無様に転んだ。
「いいかい? アンタはしちゃならないことをしたんだ。その責任は絶対に取って貰う。今のは手付けだ!」
手にも顔にも皺が増えた。
それでも女性にしてはそれなりに体格の良い私が、思いっ切り引っぱたいたのだ。
相手の頬は酷く赤くなっていた。
娘を誑かした男は、がくがくと情けなく何度も頷いている。
立ち上がれない彼の耳元で、リアが何かを呟いた。
『事件にしようと思わないこと。少なくとも、貴方の父に聞きなさい』
私にはわからない言語だったが、頬を赤くした男が青ざめていくので、内容は何となくわかった。
「リア、行くわよ」
「わかったよ」
立ち上がって二人で歩き出す。
四十も超えたおばさんと、未だ二十歳と変わらぬ彼女が並べば、どういう関係か悩む人もいるだろう。顔立ちも髪の色も似ていないので、血縁と思うものも少ないようだ。
だけどリアは、娘のリリアナのために怒ってくれた。手を尽くしてくれた。
私たちは家族なのだ。
見かけは私がずっと上のオバサンになってしまったけども、彼女は今でも頼りになる優しい姉のままだった。
「ねえリア、何か美味しいものでも食べていかない?」
「いいよ。言葉も多少はわかる。ニホンは美味しいものが多いよ。ワッフルだって美味しいんだから」
「そうなの? でも貴方のより美味しいワッフルに会ったことがないわ」
少しスッキリしたので、茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべる余裕もでてきた。
「それは言い過ぎだよ。でも嬉しいな、私の小さなアルフリーダ」
私はリアと別れ帰国し、色々な問題に取り組み始めた。
娘は落ち着きを見せ、彼女のようなシングルマザーが、独りでも充分に生きていけるようにと微力を尽くす。
そんな中、夫が急死した。寒い冬だった。
幼い孫の面倒を見ている最中に倒れ、そのままいなくなった。
三十年間も一緒にいた彼がいなくなり、私の胸の中もぽっかりと穴が空いたようだった。
どこかリアと似たような印象を受ける彼に、私はずっと助けられてきた。
そうして益々政治にのめり込んだのも、仕方ない話だったかもしれない。
髪の半分以上が白くなったぐらいのときに一つ大臣職に就任して、北欧の鉄血宰相と呼ばれるぐらいにはなっていた。
だけど任期途中で職を辞し、私は政治家を引退する。
理由は、家族の世話をするためである。
――なぜなら娘が私の孫、つまり自身の息子を虐待していたからだ。
政治活動に勤しんでいた私は、そのことに全く気づかなかった。
「お母さんはすごいわよね。でも、私は貴方みたいになれない。それに、貴方がいつも言う姉のようになんて、絶対になれない」
警察に保護され、面会した娘がようやく開いた口から、そんな虚ろな言葉が聞こえた。
娘は私に大きな劣等感を抱いていたそうだ。私にも、私が向ける目線にも。
孫の世話も亡くなった夫に頼り切りだった。娘のリリアナが落ち着いたからと、もう大丈夫だろうと目を離していたせいである。
夜中の病院で、私は目を瞑っていた。
秋の夜に外で凍えていた十歳の孫を、一人の若い女性が見つけた。それが発覚の始まりだった。
「フリーダ」
悲しげにこちらを慈しむような、いつもの彼女だ。
ずっと変わらない姿。
年老いて大事な者も見えなくなった、哀れな私とは大違いだ。
「ごめんなさい、リア。今は何も言わないでちょうだい」
まだ十歳になったばかりの男の子を抱え、リアは私の元から立ち去っていった。
娘のリリアナを、そういう人間を保護する施設に預けて、私は孫の世話をすることに決めた。
そうして、久しぶりに生家へと戻ってくる。娘と孫が暮らしていたのが、この場所だったからだ。
父はとうに亡くなっており、閑静な住宅街なら落ち着いて暮らせるだろうと私が配慮したからだ。
久しぶりの家に入った私は、その惨状に言葉を失った。自分の情けなさに、頭を殴られたようだった。
生活感など一つもない。
放置されたゴミ、洗われていない洗濯物が散乱し、そのくせ寝室だけは病的に綺麗だった。
娘は未だに、あの男がここに帰ってくるのを待っていたのだろうか。
ひょっとしたら彼女は全てを置いて、ニホンにまで追いかけていきたかったのかもしれない。
ドアに縋って泣き崩れる。
「……リリアナ」
どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
手で顔を覆えば、私の肌はかさかさで、涙が落ちても潤うことはない。
髪もすっかり白髪になり、皺が眉間を侵していた。腰も肩も痛い。目も近いものが見えない。
「おかえり、フリーダ」
そんな私を迎えてくれたのは、あの頃と変わらない服とエプロンで立つ、懐かしい光景だった。
そこだけが、時が止まったかのように、神々しささえも感じさせて。
彼女の腰には、一人の少年がしがみついている。孫はすっかり懐いたようだ。
「……リア」
「また、ここで暮らしても、良いかな?」
明るい茶髪の孫を撫でながら、彼女が問い掛ける。少し自信なさげだった。
「……私はお婆ちゃんになっちゃったわ。何も見えない、お婆ちゃんに」
泣き言しか出てこない、ただの老婆に。
だけど昔と変わらない彼女は、座り込んだ私に近づいて、ゆっくりと抱きかかえてくれる。
「今も私の可愛い妹だよ、フリーダ」
昔と変わらない暖かさだった。
私は情けなく、そして年甲斐もなく彼女の胸に縋って泣き続けたのだった。
それからは、穏やかな日々が続く。
ずっと続けば良いと思うけれど、私も老いた。
たまに来る客の相手をしながら、孫と姉に囲まれた生活を送っている。
「リア、あの子はどこに行ったの?」
杖をついて歩く私は、庭で洗濯物を取り込むリアに問い掛ける。
「遊びに行っちゃったみたいよ。最近、友達ができたみたい。女の子だったけれど?」
「あの子は、男前だからねえ……」
少し孫の将来が心配になる。だけど何にせよ、外で遊ぶようになったのは、良いことだ。
「リア、ワッフル作って。うんと甘いヤツ。チョコレートかけて」
そうして家に誰もいないとわかり、私は甘え始める。
「もう、いつまで経っても子供だね、フリーダは」
「そういうのいいから、ねえお願い?」
真っ白な髪の私が幼子のように頼むのは、傍から見れば滑稽だろう。でも、ここには家族しかいない。
「はいはい、わかった、わかりました」
呆れたようにため息を吐きながら、彼女は洗濯物を抱えて家の中に戻ってくる。
「さてと、今日も良い天気だったわね」
私はゆっくりと、庭の隅にあった岩の上に腰掛けた。
最近、胸が痛くなり、夜中に起きてしまうことが増えた。政治家時代に、無理をし過ぎたツケだろうか。
長く生きるなら、病院にでも引きこもるべきだと思うけれど。
空を見上げる。
幼い頃、リアはここでいつも空を見上げていた。
「明日も、良い天気だといいわね」
懐かしい、思い出に抱かれて死ねる方が良いと思う私は、贅沢なのだろうか。
結局、この家が私の終の棲家となった。
倒れるまでの四年間を、ここで過ごすことになる。
「フリーダ? いつまで外に出てるのー?」
相も変わらず幼子にかけるような言葉に、私は笑ってしまう。
「はいはい、わかりましたよ」
彼女は若いまま、私は年老いた。
羨ましいと思うことはない。
ただ、彼女と離れてしまうのが、悲しいだけだ。
ゆっくりと目を覚ました。
外では、雪が降ってる。
懐かしい夢を見たせいだ。
「フリーダ、起きたの?」
「ああ、リア……」
ソファーに深く座ったまま、いつのまにかうたた寝をしていたようだ。リアがかけてくれた毛布に気づいて、ホッと安堵のため息を吐く。
チラッと老眼鏡越しに視線を動かせば、少し寒がりな彼女がテレビを見ていた。あの頃と同じような、子供番組だった。
「好きね、前から思っていたのだけれど、子供好きなの?」
「うーん、嫌いじゃないかな。でも、フリーダやあの子が特別なだけかも?」
パクッと何かを食べる音が聞こえる。
地味なワンピースとエプロンをしたまま、何かオヤツを食べてるようだ。おそらく甘いお菓子だろう。
「そう……嬉しいわね、それは」
「考えたことなかったかも」
「ねえリア……良い人とかできなかったの?」
最近は、喋るのも億劫だ。でもリアとの会話は大事にしたい。
おそらく残された時間は、少ないのだから。
「できなかったなぁ。どうしても、あの人のことが浮かぶし」
特に感情を込めた風もなく、気もそぞろな答えだった。
「また……宇宙……戦争の話?」
悪戯っぽく問い掛けるのが、精一杯だ。
「幼馴染みだったから……かな」
少しだけ悲しげなトーンの声で、それが未だに彼女の胸に、大きな影を落としているのだとわかる。
「……そう」
「でも」
「……で、も?」
「フリーダと一緒にいたおかげかな。少し消化できたのは」
彼女に言葉に、ふふっと笑おうとして私は咳を返すことしかできなかった。それが悔しかった。
「大丈夫? フリーダ?」
近寄ってきた彼女が、顔を近づけて私の頬に触れる。
いつまでも若々しいリアの手を、私の皺だらけの手で握った。
「……ごめんなさいね、リア」
「何が?」
「……面倒なんか……見させて」
「何を言ってるの。妹の面倒を見るのは、当たり前でしょ?」
こんなお婆ちゃんを、彼女はいつまでも妹と言ってくれる。
だからつい甘えて、彼女の手の平にカサカサの頬を擦りつけた。
本当に……暖かい。
この暖かさに、私の意識が遠ざかっていく。
次に目を覚ました私が見たのは、白い病院の天井だった。幾人もの白衣の人間たちが囲んでいる。
「……お婆ちゃん? お姉ちゃん、お婆ちゃんの目が覚めたよ!」
「本当?」
体が上手く動かない。
ああ。
そうか。
「顔を……」
「お婆ちゃん?」
涙声の男の子が近づいてきたんだろう。よく見えない。視界がぼやける。
――カッコイイのが、台無し……だねえ。
目尻に涙を貯めた彼が、私の手を優しく握る。
夫に目元が少し似ている。それがとても嬉しい。
もう一人の女性が近づいてきて、
「少しお話しても良い?」
と孫に声をかけた。
「う、うん!」
彼が頷いたのを見て、リアがこちらを覗き込む。
「……あり……がとう、最……後まで」
よく見えなくて、おぼろげな輪郭だけど、それが私の姉の姿なのだとすぐにわかる。それが妹の特権だろう。
――できればもう少し生きていたかったのだけれど。少なくとも、孫が大人になるまでは。
もし私に何かあれば、政治家時代の信頼できる友人に、孫を預けるようリアに話してある。
リアは自分が面倒を見るつもりだったようだが、それは丁重にお断りした。彼女にも、仕事があるのだ。そこまで迷惑はかけられない。
「あなたの娘のリリアナも何度か見舞いに来たの。残念ながら、あの子と会わないようにしたけれど」
――そう。あの子にも辛い目に遭わせたわ。
声には出せない。唇が小さく震えるだけだろう。
「……あり、がとう、私のお姉……ちゃん」
「ううん……こっちこそ、ありがとう、フリーダ。私の可愛いアルフリーダ」
私が老いて死ぬというのに、彼女は若いままだった。
私が置いて死ぬというのに、彼女は若いまま生き続けるのだろう。
――人生は色々とあったのだけれど。後悔も思い残しもある。
「フリーダ、ありがとう……」
彼女が私の手を握っているんだろうと思う。もう感触がない。
嗚咽を上げる声が聞こえる。
――ああ、悪くない。彼女がずっと見守ってくれていた人生だった。
でも最後に、
――貴方の本当のお名前、教えてくれる?
そう問いたかった。だけどさすがはリアだ。察してくれた。
彼女は小さく、娘と同じ名前を呟いて、フフッと笑う。
――やっぱり、そういう名前だったのね。妹のカンも間違ってなかったわ。
どこか誇らしげに、私は力を失っていく。
部屋で誰かが泣いている。
私は色んな人に泣かれて、旅立つのだ。
置いていく貴方を、思いながら、微笑んで、消えていく。
ありがとう、リア。
どうか、幸せにね、私のお姉さん。
それだけを祈りながら、私の意識は溶けるようにして、消えていった。
こうして私は……アルフリーダ・ルドグヴィンストは生涯を終えたのだ。
■■■
一人の女性が、真新しい墓石に花を添えてから立ち上がった。
「おや、アルフリーダさんのお知り合いかね?」
通りがかったのは、墓の掃除を日課にしていた老人だった。
「はい」
「私も、生前の彼女にはお世話になったもんだ。面倒見の良いお人だったなぁ」
金髪の女性は立ち上がって、老人に背中を向ける。
「それでは」
「ああ、また来なさい」
立ち去っていく彼女に、墓守の老人は少し疑問に思ったのか、
「そういえば、アンタはアルフリーダさんとどんな関係なのかね? お孫さんかい?」
と問い掛けた。
立ち止まった彼女は、少しだけ考え込む。
数秒の後、晴れやかに笑いながら、肩越しに老人へ向かい、
「お姉ちゃんなんです」
と楽しげに答えたのだった。
老いを忘れた彼女の人生は続く。
どこまでも、いつまでも。