六日 午後 鳴かない蝉
僕と和正はおじさんの車に揺られて外の山道を眺めていた。特に風景に変わりはない。ただただ通り過ぎる周りの木々。僕はそんな木々を見つめながらボーっと油のことを考えていた。
これからどうすればいいのだろう。彼女にいつ僕が真実を知ったことを打ち明ければいいのだろう。もしかしたら、このまま言わずに彼女はいなくなってしまうのだろうか。
そしたら彼女は一体なんのために現世にやって来たというのだろう。
そもそも、何故彼女は自分が母親であることを和正に言わずにいるのだろう。打ち明けてしまえばいいのに。
彼女は幽霊じゃない。ここにいるみんなが見えている。触ることもできる。
だから、打ち明けてしまえば母親としてできることが増えるのではないだろうか。もう一度、少ない時間しか残されていないのかも知れないのだろうけど、母親として和正に接しってあげればいいのではないだろうか。
僕はそう思う。でも、僕は母親でもないし、どうこう言える立場じゃないし、それをどうするかは彼女次第であることは間違いない。
そんなことを考えながら僕は通り過ぎて行き木々を見つめ、時間の経過を感じていた。
おじさんは隣に座る和正に視線を少し送る。
「和正。おみゃー、掃除はしっかりやとっと?」
おじさんは九州訛りの方言で喋った。僕のような方言を知らない人にとっては何を喋っているのか、わかりずらいものがあった。
「もう昨日で終わったよ」
「早かね」
「四人もいたからね」
いや、まだやり残し感は僕はあると思う。掃除してないところとかもあったような気がすると僕は思う。もしかしたらあの物置の中に油の秘密がまだ眠っているんじゃないか。
目的地について車が止まる。
「わりゃ、ここで待っとるけん。なかなか行くことなか。ゆっくりお参りしんしゃい」
「ありがとうおじさん」
「ありがとうございます」
僕たちは車から降りて細い山道を登って行く。
細道は長く続いていた。
ためらいなく伸びる木々の葉を掻き分けながら僕は和正について行く。
そしてたどり着いた先にはとても開けた場所で景色もとても良かった。
ここから天草の街並みと海が一望できる。お墓の周りだけ木が生えていないから太陽の心地よい日差しだって入ってくる。一つ欠点を言うなればお墓の先は崖だということだ。一歩間違えて足を滑らせれば怪我だけでは済まされないだろう。
しかし、ここから見える景色はとても美しい。太陽に反射した海がキラキラと光ってまるで塩の結晶が海から溢れ出ているようだ。その上を行く漁船はさぞ気持ちがいいことだろうか。
「おい、裕太。あれ見てみろよ」
僕は和正が差した指の先を見る。
そこには一隻のフェリーがこちらに向かって進んでいた。
「あれは福岡県の大牟田市ってところから天草の島原沖に着くフェリーだ」
「へー」
「本当はあれに乗って天草に来ようと思ってたんだけどな。お金がなくて載せられなかった」
「別にいいよ。飛行機代とかすごいかかかってんだろ」
そういえばここまで来る交通費や食事代は全部和正に出してもらっているということを忘れていた。でも、それは掃除を手伝ってやっている御駄賃的なものだと僕は思っている。だって自分の実家を手伝わせているのだから、それだけの対価はいただいていいはずだ。それ僕はここに来たくて来たわけではない。真実を知ってしまった今は、どちらかというとここには来たくなかった。
「なあ、どうしてそこまでして僕を天草に連れてきたんだ」
「ん、言わなかったけ。夏美と」
「それは聞いた。でもわざわざここまでしてお前が僕を天草に連れてくる理由はそんなもんじゃないだろ」
「いや、理由はそれだけだよ」
分からない。その意味が僕には分からない。
「さて、お母ちゃんに挨拶するか」
僕と和正は暮石の前で手を合わせる。
ーー高島向日葵ーー
暮石にはそう刻まれていた。僕が見た写真の名前と全く一緒だった。だから、あの写真はやはり和正のお母さんの幼少期の写真であったことは間違えなかった。
僕は手を合わせて何を思えばいいのだろうか。
彼女は今ここに眠っているのではなく、この空と地面の間に存在している今この状況を知っている上で、僕は手を合わせて何を思えばいいのだろうか。
僕は横目で和正のことを見る。
彼は真剣な表情で目を瞑り手を合わせている。彼は今この暮石に向かってなんと心の中で言っているのだろうか。
和正はスッと息を吸いゆっくりと目を開ける。
「それじゃあ、掃除しようか」
「掃除?」
和正の手には雑巾があった。
「これで墓石を拭くんだよ。ほらここは墓地じゃないからさ柄杓とかそんな大層なもんがないからこの乾いた雑巾でふくの」
「ああ」
僕は和正から雑巾を受け取り墓石を拭き始める。この墓を拭いている今、彼女は何をしているのだろう。彼女は和正のことを考えているのだろうか。
いや、彼女が和正のことを考えていることは間違いない。和正の成長記録に新たな成長を刻み込んだり、和正が子供の頃に使っていたと思われるお皿を眺めていた彼女のことだ。考えていないわけがない。
「なあ、線香とかはあげないの?」
「ここ山だから火をつけるのは禁止されてる。だから線香は焚けない」
「じゃあ、お供え物とかは?」
「したいけど、この山は猪いるから食い荒らされちゃうんだよね」
「そっか」
ここは景色はいいがそう言ったところではデメリットがあるんだと思った。それになんだかこの場所は綺麗すぎで胃取りで見るには寂しすぎる気がした。
本来はこの暮石は和正の母親のもので僕からしたら他人の墓石だけどこの下に埋まっているのが今一緒にいる油のものだと考えるとそうではない気がしてならない。そんな僕は夢中で墓石を磨き続ける。
「もう、こんくらいでいいだろう」
「いや、もう少し」
「十分磨けたと思うけどな」
「でも、一年に一回しか来ないんだろ。だったらもっと細かく見て、汚れが少しでもなくなるまで磨いたほうがいいだろ」
本音はそうじゃない。僕は手を止めたくなかった。なんでかはわからない。ただ、手を止めたくなかった。だから磨き続けたいと思っている。彼女に対しての思いがそうさせているのかも知れない。和正に対して思うことがあるからそうしているのかも知れない。
でも、本当のところはわからない。
「なんかお前、一生懸命になったな」
「え」
「だってよ、高校の時はずっと本読んでばかりでさ。ボケーとしてたのに」
僕はあんまり自分が変わった自覚はない。そりゃ油がきてから色々変わったことはあったにしても根本的に自分が変わったとはあまり思えなかった。
僕は自身が変わったとはどうしても思えない。
「そうかな」
「そうだよ」
僕は変わったのだろうか。
「もういいよ」
和正は墓石を拭く手を止める。これ以上続けたって何にもならない。流石にそれにはもう気がついた。
「分かった」
僕は素直に止めた。
そのあとはボーッと墓石の後ろを流れる景色をかずまさと二人で座って見ていた。
流れる人々。生き愛愛とした街中は暖かさを感じる。
僕はふと疑問になったことを聞く。多分聞いてはいけないことなのだろうけど、僕が抱えているいまの悩みを解決するには聞いた方がいいような気がして聞いた。
「なあ、お前のお母さんってなんで亡くなったの?」
「え、なんでそんなこと聞くんだよ」
油が死んだ理由を知れば彼女がどうして自分のことを言わないのか知れると思ったから聞いてみたのだが、そもそも彼女が言わない理由をしたところで僕には関係のないことだ。
「ごめん」
「いや、別に謝んなくていいけどさ」
「だって、ほら」
「倒れた」
和正は唐突に言った。
「え」
「俺が山で虫とってる間に倒れたんだよ」
「どうして」
「なんかの病気で」
「なんかの病気って?」
「よくわからん。発作だったかな?あれ?」
和正は笑いながら軽々しく喋る。僕は本気で聞いたつもりだったのに彼は軽々しく言ってきた。彼は僕がお母さんに対してただの興味本位で聞いてきたとしか思っていないんだ。
「何で分かんないんだよ。自分の母親だろ」
「別に興味ないし」
「いや、それはおかしいだろ」
「何がおかしいんだよ」
「だって母親ことだろ」
「じゃあ、逆に聞くけどお前、自分の母親のことに興味ある?」
「それは」
僕は息が詰まったような感覚に襲われる。
確かにそうだ。母親のことに普通は興味を持つなんてことはしない。それに、少なくとも僕は興味を持って来なかった。親の気持ちなんて考えて来なかった。それを今更考えるなんて僕は罰当たりなのかも知れない。
彼に対する言葉が何も見つからない。
「そんなもんだろ」
「でもさ、なんかさ」
「何だよ」
「こういうのって言ったら悪いと思うけどやっぱりいないのって」
「まあ、確かに他の友達のお母さん見て最初は嫉妬したかな。でもそりゃあ仕方ないよ。だって高校の時、お前だって自分以外男は彼女がいて俺とかに嫉妬してただろ?」
「それとこれを一緒にするなよ」
「一緒だろ」
なぜ和正は平気でそんなことが言えるのかわからない。
「会いたいとか思わないの」
「思ったてしょうがないだろ。いないもんはいないんだし」
「そうだけど」
「だってお前それ、男に生まれたのに女になりたいって願いと一緒だろ」
「だから何なんだよそれ」
「あ、でも今は手術とかすればなれるのか。じゃあ、何に例えればいいんだ?」
「いいよ例えなくて」
なぜこんなにもふざけようとするのか。僕は真剣に聞いたつもりなのに。
静寂が訪れる。
風の音が山の中に響き、その音にハモりを入れるかのように蝉たちは鳴いていた。いつもだったらうるさく感じる蝉の声も心地よいものに聴こえた。美しく鳴く蝉に今の僕は聴き入っていた。
一呼吸置いて和正が喋る。
「今のお前みたいにお父さんも俺に気を使って女の人連れ込もうとしたことがあった」
「それでどうしたの?」
「俺はお父さんに断った」
ーー「だって俺にとっての母親は俺を産んだ人でしかないから」ーー
彼が言った中で僕は今この言葉が心の中に響いた。和正は適当な人間だ。自分の亡くした母親のこともギャグのように言ってくる。でも彼の中ではしっかりと母親のことを考えている。
僕はそんな彼に申し訳ない気持ちが溢れ出てきた。
それは今聞いたことも含めて僕が油の秘密を知っているからだ。
和正にはいったほうがいいと分かっていながらも僕は言い出せない。
「もう行くか」
和正は立ち上がった。僕も立ち上がる。
そしてまたあの細道を通っておじさんの車へと向かう。僕は一瞬墓石の方に振り返る。暮石は確かに美しい景色が見えるところで太陽が当たるようないいところだ。でもだからこそ寂しさを感じる。
そういえば和正はお母さんの顔を覚えていないのだろうか。
覚えていたら気づけるはずなのに気づいていない。
「お母さんの顔って覚えてないの」
「うーん。微妙に覚えてる。はっきりとは覚えてないけどなんとなくは」
なんとなくは分かっていたけれどやっぱりちゃんとは覚えていないんだ。
僕は木に止まっているクマゼミを見た。
クマゼミの羽は透き通っていてまるで・・・・・・。そう、まるであのとき見た油の羽見たいな感じだ。
クマゼミの羽が太陽の光を反射させ光が僕の目に飛び込んできた。
その光は暑く僕は目を閉じる。
目を開くと真っ白の世界にいた。ただ真白い空間に踏切があった。僕はどうしてここに立っているんだろう。なぜ夏美さんがこんなところにいるんだろう。
そもそも僕は今かずまさと一緒におじさんの車に向かうために細道を歩いていたはず・・・・・・。どうしてこんなところに僕は立っているんだ?僕はどうして・・・・・・。
どうして泣いている彼女を見て立っているんだろう。
どうして彼女は泣いているんだろう。
ーーカンカンカンーー
「お父さん、待ってよ」
彼女はそう僕に言った。
「ごめんな、最後に聴けなくて」
僕の口はそう言った。でも僕の言葉じゃない。僕の声でもない。これはだれの声?
ーーカンカンカンーー
僕は彼女に背を向けて歩いた。
ーーガタンゴトンガタンゴトンーー
「おい、裕太!裕太!」
体が痛い。頭も痛い。
「大丈夫か」
僕は目を覚まして起き上がる。
「お前急に倒れたぞ」
なんか今一瞬だけ夢を見ていたような気がする。
「具合が悪いのか」
和正は僕に手を差し伸べてくれた。
「いや、大丈夫。なんかめまいがしただけ」
「めまいって大丈夫かよ」
「なんか最近よくあって」
「医者に診てもらったほうがいいんじゃねえの?」
「そんなんじゃないと思うから」
「でもさ」
「本当に大丈夫。医者に行くったってお金かかるんだしさ」
体の痛みも頭の痛みも意識がはっきりしてくると治った。
「本当に大丈夫か?」
「ああ」
僕は普通に歩く。
和正は心配しているが僕はもう大丈夫だ。
おじさんの車が見えた。おじさんは車の中で寝ている。和正は車の窓を叩いておじさんを起こし車の鍵を開けてもらい乗り込む。
車は発進する。
僕はきた時と同じように山道の景色を見ていた。
何が僕の中で動いているのだろう。油に会う前にはなかった何かが僕の心を掴むようにして訴えかけているような気がしてならないのだ。
僕は窓の外の景色を見ながらボーっとそのことを考える。
「お昼はうちでくーか?」
「いや、裕太が調子あまりよくないみたいだし、二人を家で待たせてるんで帰ります」
車は油と夏美さんが待ってる家へと向かった。
僕と和正は送ってくれたおじさんにお礼を言って車を降りる。
おじさんの車が見えなくなるまで見送ってから僕と和正は家の玄関を開けた。僕たちは家の中に入る。
縁側で夏美さんと油が何かを話していた。
「し、塩おにぎり?」
和正はテーブルの上にあるものに気づく。
「そう、夏美さんと作ったの!」
「へー、いいじゃん」
「おやつにどうぞ!」
和正は一個、おにぎりを手に取りおにぎりを食べる。
「美味しい。だけど俺の塩おにぎりには勝てないな」
「どうして?」
「俺は世界一美味しい塩おにぎりを作ってくれた人から教えてくれたからねー」
「それって誰?」
「俺の母親」
油は少し動揺したように僕は見えた。でもすぐに表情を戻す。
「そうなんだ」
「顔はぼんやりとしか覚えてないけど一緒に作った塩おにぎりだけはしっかりと覚えてるんだよね」
僕は塩おにぎりを手に取る。手より少し大きめのおにぎり。
「そういえば俺の作ったおにぎり前に夏美にあげたよな」
「そうだね」
「あれ、よくよく考えたら迷惑だったよな」
「そ、そんなことないよ」
夏美さんは少し下を向く。
「あん時は、夏美に元気になって欲しくてどうしたら元気になれっかなって思ったら、とっさに出てきたのがお母さんが作ってくれたおにぎりだったんだよな」
油と夏美はかずまさの話を真剣に聞いている。
「愛情のこもったおにぎりって食べると暖かくなるんだよね。それにおにぎりって実際に包み込むように込めて作るから作ってる人の気持ちが入りやすい食べ物ってお母さんに聞いたことを思い出して、それで夏美に元気になって欲しいと思いながら作ったんだよね・・・・・・でも、よくよく考えると気持ち悪いな」
「そっか」
ーーそんなことも知らずに私はーー
「なんか言った?」
「ううん、今度また作って欲しいな」
「おう」
油さんは夏美を見て笑っていた。夏美さんもそれに気づいて油に笑いかける。
二人は今日一体何をしていたんだろう。なんか油と夏美さんが親密な関係になっているような気がした。
「んっじゃ、四人であしたの花火の祭りのことでも話すか」
三人は笑って話している。僕はそんな気になれない。
明日は花火祭りの日だ。そして一週間で最後の日。
蝉が力尽きる日。
僕は思った。
ーー明日は油さんにとって最後の日ーー