六日 午前 鳴く蝉
ついに油が突然現れてから六日目の朝がやってきた。何かがガタガタと隣で動いている音がする。だがあまりにも眠くて目を開けることを僕は拒む。
だがその音はだんだんと大きくなってく。
「おっはよー!」
耳元で思いっきり声をかけられた。鼓膜が吹っ飛んで行くかと思った。さらに、僕は油に敷き布団を引き剥がされ床にゴロゴロと転がる。
「もう起きないと!」
油が大きな声で僕を起こしにかかる。
僕は昨日の夜、結局寝れなくて眠気が来たのは今さっき。頼むからもう少し寝かせてくれ。
「ほら、早く起きて」
仕方なく、僕は眠気に逆らいながら起き上がる。
僕は寝間着から私服に着替えて開かない目をこすりながらも居間に向かう。
和正が僕に朝の挨拶をする。
「おはよう!」
「ああ、おはよう」
「なんだよ、寝不足か!」
「そうだよ」
「夜更かしは良くねえな!」
「和正、頼むから今、僕にそのテンションで喋らないでくれ」
「なんでえええええ!朝から元気にいかねえと!一日楽しめねえだろおお!」
「うるさい」
「全く。裕太!それじゃあ!損することになるぜ!」
「しないよ」
「いや、するな!しょうがない!俺が元気をつけてやろう!」
「え」
和正がラジオを取り出す。まさかだと思うがラジオ体操とかじゃないだろうな。
「ラジオ体操をしよう!これで元気ハツラツな一日を送れるぞ!」
結局、三人でラジオ体操をするはめに。ちなみに、油はご飯の支度があるので参加しなかった。
朝から疲れる。
ーー八分後
やっとの事で終わった。第二までやるとは。僕を殺す気だったのか。
居間のテーブルには朝ごはんが要されていた。
定番の味噌汁とご飯。
僕は台所で手を洗って自分の食事の前に座る。
さっき、起こされた時は気づかなかったが油は昨日着ていたエプロンを今日も着ていた。相当気に入ったみたいだ。いや、昔着ていたものだったのだろうか。こうしてみると本当にお母さんみたいだ。
僕は手を合わせる。
「「「「いただきます」」」」
この言葉で僕たちの食事は始まった。
「なんだよ、裕太まだ寝不足気味か?」
「余計に悪化したわ!」
「なんで悪化するんだよ!身体動かしてアドレナリンが出てきて興奮状態になるはずだろう!」
「僕の体は動かせば元気になるみたいな、都合のいい作りにはなっていない」
「えー」
和正は不思議そうな目で見る。そんな和正の視線を感じながら僕は横目で油を見た。
「どうしたの?私の顔に何かついてる?」
「いや」
僕はすぐに油から目をそらした。
「そういえば今日さ、墓参り行こうと思うんだけど」
僕は和正に聞く。
「お母さんの?」
「ああ、お母さんの墓参り」
「こっから遠いんじゃなかったけ?」
「また、親戚のおじさんが送ってくれるって」
自分の墓の前に立ったら油さんはどういう気持ちになるのだろう。
「私、家で待ってるね」
夏美さんは苦い表情で言った。
「お墓はみたくないから」
和正は「分かった」と答える。
「じゃあ私も待ってるよ」
油さんもそう言った。
「そうだな、油さんにとっては知らない人だし。じゃあ、夏美と二人で待ってて」
二人とも頷く。
「裕太はもちろん行くよな」
「ああ」
そして僕と和正は身支度を済ませる。
程なくしておじさんがくる。僕と和正は夏美と油に「いってきます」と言っておじさんの車に乗った。
そして和正のお母さんの墓へと向かった。
ーージリジリジリーー
ーーカンカンカンーー
私は裕太くんと和正くんを送り家で油さんと二人っきりになる。
「夏美さん、私たちは何する?」
私は特にしたいことはなかった。
「ほら、家で待ってるのもなんだしさ。この近くの川にでも行かない?」
家にいてもする事はないのだし、それは良いと思った。
「いいですよ」
「じゃあ、出かける準備しようか」
私と油さんは支度をして家を出る。
ここは山奥で泥棒とか空き巣は来ないような場所だからって鍵とかはかけなくても良いと和正はいっていた。
私たちは蝉がなく山の中を歩く。
風で木々が揺れ葉が擦れ合う音が心地よい。
私の心を穏やかにしてくれる。
「私と夏美さんってまだあんまり話した事なかったよね」
そういえば油さんとちゃんと話した事なかった。
「そうでしたね」
「夏美さん、せっかく女子同士なんだし女子トークしようよ」
私たちはまだ女子という枠に入るのだろうか。
「女子トークですか」
「ほら、恋ばなしとか」
「恋ばなし」
私は赤くなり油はニコニコと笑っている
「どうして、和正のことが好きになったの?」
「どうしてって・・・・・・」
ーーあれ、待って・・・・・・今、和正ってーー
確かにそう聞こえた。今確かに油さんは和正君のことを『和正』って確かに言った。
「もしかして聞いちゃいけなかった?」
「いや、そうじゃないです」
私は横に首を振る。そして和正君のことが好きになった頃のことを思い出す。
ーーそう、あれは私に最悪の不幸があったあの日ーー
私がまだ中学二年生の頃。私は普通の家庭で普通の生活を過ごしていた女の子だった。当たり前にお父さんがいて当たり前にお母さんがいて当たり前に生きていて当たり前の日常。
これがいつまでも続くと思っていた。少なくともまだ今は絶対に当たり前が無くならない、そう思っていた。
その日はいつものように当たり前に学校に行く。お父さんとお母さんに言って来ますと言って当たり前に家を出ていく。
道中で友達に会って挨拶して友達と一緒に学校に向かって、他愛もないことを話しながら楽しくワイワイしながら学校に登校する。
いつものように。
学校でも同じで教室に入ったら中のいい子に挨拶して席に座る。
教室の中では男子がいつものようにふざけ合って遊んでいる。女子は一つの机を中心にして集まって普段の愚痴などを言い合っていた。教室に先生が入ってくる。
女子は素直に自分の席に戻って座るが男子は相変わらず先生が入ってきてもふざけ合っている。
「ほら、席に座れ」
そうやって言われてやっと席に着く男子たち。
「お前ら明日から夏休みだからって浮かれてんじゃないぞ」
先生は男子に指差して言った。そう、明日から夏休み。私は窓の外を見て今年の夏休みはどうしようか考えていた。どこかに行くのもいいし家でまったりするのも良いよなあ。あ、お母さんの実家に帰ることは確定かな。
そんなことを考えながら授業が始まる。
男子のほとんどはいつも通りに熟睡。腕を机の上で組んで寝ている。先生はいつもの事だから起こす気にもなれずに授業を続けている。女子は何やら先生に見つからないように隣の中のいい人と喋っている。
もちろん真面目な人はちゃんと先生の授業を聞いてノートにまとめている。私も先生の授業を聴きながらキチンと内容をノートにまとめていた。
一日はあっという間に過ぎて行く。
そして放課後の部活の時間。私は吹奏楽部でクラリネットを吹いていた。九月には吹奏楽部の甲子園と言われるコンクールがある。ここで私の学校では優勝を狙っている。私も優勝したい気持ちがある。何故ならその姿をお父さんに見てもらいたいからだ。
私が吹奏楽でクラリネットを吹いているのはお父さんの影響でもある。
お父さんの通っていた高校はこのコンクールで優勝している。お父さんはその時、トランペットを吹いていた。お父さんはいつも優勝したときのことを自慢げに私に話していた。
だから私もそのコンクールに出て優勝したい。そう思って吹奏楽部に入った。
だから一生懸命に練習している。
集中して練習していたらいつの間にか部活も終わり、後片付けをして家に帰る。
家に帰れば当たり前のようにお父さんとお母さんがおかえりと言って私の帰りをいつものように歓迎してくれた。
「コンクールの練習はどうなんだ」
お父さんはいつもの優しい顔で聞いてきた。
「うん、順調だよ」
練習もスムーズに行っており、一切ミスをしないところまで追い込んでいた。あとは審査員の判断に任せられるぐらいのレベルまでには到達しているはずだ。
だからは私は自身に満ち溢れていた。もし、優勝できなかったとしても私は悔いのないように練習を重ねている。
「そうか、じゃあ父さんも仕事頑張らないとな」
お父さんは笑いながら言った
「明日、出張に行くんだ。だからその前にちょっと聴かせてくれよ」
私は「うん」と頷いた。
部屋に取りに行こうとするが学校においてきたことを思い出す。
「ごめん、学校に置いてきた」
「そうか、じゃあ帰ってきたらコンクールの前に一度は夏美のクラリネットを聴かせてくれよ」
だからお父さんが帰ってきてから聴かせることにした。お父さんが出張に帰ってきてからでもコンクールまでの日程は十分にある。だからいま聞かせなくてもいい。
そんな当たり前の毎日。
私はこの時は幸せだった。そしていつまでもこの幸せは続くと思っていた。
だって、突然幸せがなくなるなんてありえない。
お父さんが出張に行って三日が経つまではそう思っていた。
あのニュースを見るまでは
ーーえーただいま入ってきたニュースです。ーー県ーー市で男子高校生がふざけて踏切内に立ち入り、電車に轢かれそうになったところを救出にあたった男性、花南里村さんが電車と衝突し病院へ救急搬送されましたが間も無く死亡が確認されましたーー
私は夕食を食べながらそのニュースを見ていた。
私はその時何も思わなかった。何も思えなかった。
きっと同姓同名の人が轢かれたんだろう。そうとしか思えない。
人というのはいざという時に堅実とは目をそらそうとするものだ。
そのまさかが自分にはあり得るはずもない。それか私の見間違え。そう、いつものように適当に見ていたニュース。適当に見ていたのだから気のせいだ。
廊下からお母さんの泣き声が聞こえる。
まさか、なんでお母さんが泣いてるの?
これは現実じゃない。
だって、そんなことは
それは葬式の時まで続いた。
これは誰の葬式?だってお父さんはもう帰ってきていて家にいるはず。
私はどんなに現実を見せられようが私は見ようとはしなかった。だって受け入れられるはずがない。
だから、お父さんの葬式で私は泣けなかった。
何も感じなかった。
ただ真っ白な風景が広がっていた。
私は部屋に引きこもり、お母さんは毎日のように泣いていた。私は暗い日々を夢の中でお父さんと過ごした。
そんな毎日が続くある日、家に男が訪ねてきた。
「ここは、花南夏美さんのご自宅ですか?」
お母さんが出ていた。
「はい、そうですが」
「僕は同じクラスの高島和正です」
その男は私と同じクラスの和正くんだった。でも私はその時までは一度も話したことがなかった。もともと私は男子と関わることが少なく、見舞いに来てくれる男子などいないものだと思いっていた。何故彼は私のところに来たのかすごく疑問が湧いた。
「ごめんなさいね。夏美は今、ショックで寝込んでいまして」
「あ、別に大丈夫です。そうですよね。こちらこそすいません」
「これよかったら、夏美さんに渡してください」
お母さんにそう言って紙袋を渡して彼は帰って行った。
私は彼がお母さんに渡した紙袋をお母さんから受け取った。
私は紙袋の中身を見た。
中に入っていたのは塩おにぎり。
訳がわからなかった。彼がどういうつもりでこれを渡したのか。普通、不幸があった人間に対してこんなものは渡さないと私は思う。しかし、彼の中では人に不幸があった場合は塩おにぎりを渡すの風習でもあるのだろうか。もしこれがふざけて渡したものだったら私は許さない。そう、思っていた。
だから、私はこの彼の行いに腹が立っておにぎりを捨てた。
それから毎日にように和正が私の家に来るようになっていた。彼がどうして私の家に毎日訪ねてくるのか分からない。クラスで話したこともないような男子がどうして今、こんな状況になった私に会いに来たがるのか。正直、寒気さえ感じた。
それにお母さんはいつの間にか和正と仲良くなっていった。何を話していたのか、私には分からないが彼が帰った後、何やら嬉しそうにしていた。
彼は毎回おにぎりを渡して帰っていった。私は受け取らない。そんな何を意図して作って持って来たのか分からないようなものを口にしたいとも思わない。だから代わりに母が食べていた。
それから何日も経って、彼が来てからお母さんが元気を取り戻して行った。でも、私は相変わらず部屋に引きこもったまま。
「和正くん、今日も来てたよ」
お母さんは私の部屋の扉の向こうから話しかけて来た。
「だから何」
「毎日来ている和正くん。あの子、悪い子じゃないよ」
「だから?」
「夏美のことも心配してる」
「関係ないじゃん」
「それに、和正くんも小さいときに母親を亡くしているんですって」
だから私に彼なら同情できるとでも言いたいのか。
「あの塩おにぎり、美味しいよ。夏美も一緒に食べない?」
食べたくない。だって、わけが分からないもの。
「いつまでも、そうしてたってお父さんは帰ってこないよ」
分かってる。そんな事は分かってる。分かってるよ。
そんな事は分かってるけど私のお父さんに会いたい気持ちはどうすればいいの。
辛い。胸が締め付けられるこの痛みは一生続く。
死ぬまで果たしはこの苦しみと一緒に過ごさないといけない。
だったらいっその事死んでしまおうか。だって生きていたって仕方がない。ただ苦しい日々が過ぎていくだけ。もう死にたいよ。死んでお父さんと会いたい。死んだら楽になれる。
お父さんとまた楽しい日々が送れる。そうに違いない。
もうあれから何日が経っただろうか。久しぶりに開いた携帯を見てみると今日は吹奏楽のコンクールの日。もうお父さんが死んでから一ヶ月が経とうとしていた。
吹奏楽のコンクール。お父さんが来るはずだった。私の姿を見てもらいたかった。でももういない。
私はカーテンを開けて外をみる。外は大雨だった。
ーーピンポーンーー
インターホンの音がした。またいつものように和正君がきたのだと私は思った。
そしていつものようにお母さんが出る。
「私、磯萱晴美と申します」
その声は聞いたことのない女の人の声だった。
「私はそちらの夫を殺した息子の母です」
その女の人は泣きながら言った。私は葬式の日から初めて部屋の外に出た。そして玄関に行く
「こんなことをして許されるとは思いません。ただ、謝らせてください」
その女の人はお母さんに土下座をしていた。ずぶ濡れの体を地面に押し付けて土下座をしていた。土下座というのはドラマや映画の中でしか見たことがない。お母さんは動揺している。私もなんとも言えない気持ちがあった。
「申し訳ございませんでした」
女の人は誤った。叫ぶように誤った。
「本当に本当に申し訳ございません」
ただただ誤っていた。その姿を見て私はお父さんを失った時のようになんとも思えなかった。
「何にもならない事は分かっています!こんなことをしても許されない事は分かっています!旦那様をお返しできないこともわかっています!だから、ただ謝ることしかできません!罪を一生背負うことしかできません!」
お母さんはしゃがみ
「お顔をお上げください」
女の人は顔を上げる。
「確かにあなたの息子さんのせいで旦那を失いました。でも私は許します。だって誰だって間違いはおかすものじゃないですか」
お母さん何言ってんの?
私は腹がたつ。お母さんにもこの女にも。許せない。たった一人の掛け替えのないお父さんを奪ったこと。そんな簡単に許せるものではない。なのにどうしてお母さんは許したの?私は絶対に許せない。
私の心は怒りに満ちていた。
私は両腕の拳を固める。怒りの限界はすぐそこまできていた。
そして、止められなくなった。
「じゃあ、死んでよ」
私は冷たく放った。その瞬間、私はお母さんを突き飛ばし女の人に掴みかかる。そして押し倒した。
「お父さん返せないんだったらここでお前が死ねよ!」
私は抑えられなくなって言った。とにかく罵声を浴びさせて女に私の苦しみを伝えたかった。女は私の顔を見ていた。まるで同情しますと言っているように。でもその顔がさらに私を苛立たせた。
「お前の息子もお前も死ねばいいのに!」
そう言い放った瞬間私はお母さんに背中を引っ張られ女から引き剥がされる。
ーーバシッーー
私はお母さんに思いっきり打たれた。私はただうつむき地面を見つめた。なんで私がこんな目に合わなきゃいけないの。どうしてこんなことにならなきゃいけないの。
女は立ち上がり
「娘さんの言う通りです」
女はそう言った。そして次の瞬間バックからナイフを取り出し
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
叫びながら自分の手首を切り裂いて行く。女の手首からはぼたぼたと血が流れ出していた。私は恐怖にかられる。お母さんは必死で止めようとナイフを持っている女の人の腕を掴む。
「奥さん。やめて下さい」
お母さんは必死で止めようとしていた。私は恐怖で体が動かせない。その時、男の人が走ってきて後ろから女の抑える。彼は和正君だった。
「夏美さんのお母さん、警察と救急車!」
和正は女を抑えながら言った。お母さんは携帯で警察に電話する。
程なくして警察と救急車がやってきて女は警察と一緒に病院へと連れていかれた。
その頃にはすっかり雨もやんでいた。
「大丈夫?」
和正君は私に話しかけた。私はうなづいた。
お母さんは事情を話すために警察の所へ行ったため私と和正と二人っきりになってしまった。
「もしよかったら気分変えてどっかにいかない?」
確かに彼の言う通りここにいるのは気分が良くなかった。私はあまり気が進まなかったが彼に頷いて自分の部屋に戻り服を着替えた。彼が外で待っていた。私は彼の元に行く。
「じゃあ、行こうか」
彼が私の手を握る。初めての女性に対してこんな積極的な男性は初めて見た。そして彼が私を握る手。彼の手はまるで包み込むように私の手を握った。まるでお父さんの手を思い出すかのようだった。
和正は私を先導する。私は彼の背中を見てお父さんの背中を思い出してしまった。
お父さんの背中が見えて私は初めて涙が出た。
今まで溜め込んでいた感情が溢れ出てきた。
彼は私が泣いてることに気がついて振り返る。
「あ、ごめん。痛かった?」
彼は申し訳なさそうに私を見た。
「ううん。そうじゃないの」
私は首を横に振った。涙で溢れる目をこすりながら。
「今、あなたの後ろ姿がお父さんに見えてそれで涙が出てきちゃって」
私がそう言ったら彼は私のことを抱いた。
「辛かっただろ」
彼の体は冷えた私の心を温めてくれた。
「もういいんだ、泣いていいんだ」
ーー私は泣いた。大声で泣いた。周りのことも気にせず泣いた。今までお葬式の時から泣けなかった分も全部泣いたーー
「それからなんです。和正君を好きになったのは」
油さんは私の話を真剣に聞いてくれた。そういえばこんな話まだ誰にも話した事なかった。
「そういえば、おにぎりってなんだったの?」
確かにおにぎりはどう意味があったんだろう。もうすっかり私は忘れていた。
「今度聞いてみようと思います」
油さんは「そっか」といって笑った。
気づけば川のほとりに私たちはいた。
私は今、幸せだ。この気持ちをお父さんに伝えたい。
ーーお父さんに会いたいーー
私は久しぶりに涙が出てくる。
お父さんにこのことを伝えたい。
「夏美さん、ごめんなさい。悪いことしちゃったね。こんな話だとは思わなくて」
「ううん、良いんです」
私の涙を見て油さんは申し訳なさそうな顔をした。
「大丈夫です」
私は目から出る涙を拭いてなんとか止めようとした。でも止められない。どうすれば良いの。
そう思った時、油さんが私を抱いた。
「泣いて良いよ」
私を抱きしめる油さんも泣いていた。
私は抑えられなくなって声に出して泣いた。
「お父さんに会いたい」
私は言葉にしていった。大声で声に出して泣きながらいった。
その瞬間、私の前に万華鏡を覗いたような風景が広がる。そして油さんの頭からガラスのような蝉の形をした羽が生えているように見えるような気がした。
涙でぼやけてそういったように見えるのか。
ただ、その先にお父さんらしき人が見えた。
どんどんと遠ざかっていく。
「お父さん、待ってよ」
ーーカンカンカンーー
私の前に踏切の遮断機が下りた。
「お願いだから行かないで」
私と油さん以外、誰もいない山の中。静かに川は流れる。