四日 蝉の抜け殻
結局、僕は親と口を聞かず家を出た。家を出るときは親が起きる前に出たのでもちろんいってきますは言っていない。彼女はそんな僕を見てまたふてくされていた。
昨日のあの気まずい関係は解消されないまま、僕は油と羽田空港に向かう。彼女は遠出することに子供のようにはしゃいでいた。僕はそれを見て周囲の視線が気になる。頼むから本当に静かにして、そして大人になってくれと心の中で思う。
モノレールに乗って僕たちは羽田空港にたどり着いた。
和正達は空港の出発ロビーの大きな時計のがある場所にいた。
「おー、お二人さん!」
「やっほう!」
彼女が元気に和正に手を振る。本当に見ていて恥ずかしい。僕たちは和正の元に行く。
「よし揃ったな!忘れ物はないか」
「あったとしても取りに帰れないから!」
「確かにそうだな」
ハハハと笑う和正。正直、朝からそのテンションは疲れる。
「よーし、中に入るぞ!」
僕たちは荷物検査場で荷物検査をして空港の中に入る。
「時間はまだ少しあるな」
「そうだな」
「よし、俺と夏美は天草でお世話になる親戚のおじさんにお見上げ買うから二人は椅子に座って待っててよ」
「分かった」
「あ、荷物置いてくから見てて」
「ああ」
僕は和正と夏美さんの荷物を受け取り、油と椅子に座る。
「夏美!行くぞ!」
「うん!」
和正と夏美さんの二人はおみやげ屋さんに向かう。
「私たちも何か買う」
「買ってどうするんですか」
「買ってどうするって、それは思い出に!」
「それだったらここでじゃなくて向こうで買いましょうよ」
「あ、それもそうだね」
僕と彼女は気長に二人の買い物を待つ。
買い物が終わった二人が帰ってきた。
そして飛行機の搭乗アナウンスが流れ、僕たち四人は飛行機に乗り込むため列に並んだ。
「ちなみに、俺の実家は周りに人がいないところだから何でもできるぞ!」
「掃除するのが目的で行くんだろ」
そんな感じで他愛もない話をしながら飛行機に乗り込んだ。そして東京を出る。
ーー午後の三時。
福岡空港に着いて飛行機を降り、そこからは和正の親戚のおじさんの車で三時間移動して着いた熊本県天草市。天草と言ったら天草四郎が有名なあの天草だ。東京と違い、蝉の鳴き声がアブラゼミよりもクマゼミの方がやかましい。和正の親戚のおじさんの車から降りて和正の実家へと向かう。十分ぐらい急な坂道を登った。三人は平気のようだが僕はもうヘトヘトだった。そしてやっと目的地にたどり着く。
僕と夏美さんと油と和正が見上げるそこには大きな一階建ての屋根の低い古い家が見える。まるでとある映画に出てきそうな建造物だ。
その家は天草の山の中。緑に囲まれた自然の中にあった。
和正は少し傷のある扉を開け、みんなを案内する。
「ここが俺の実家」
和正が自慢げにいう。
「すごい。綺麗に残ってるんだね」
油が目を輝かせて見ていた。
「あたぼうよ!毎年お父さんと綺麗にしてるからな。ただ今回ばかりは仕事で忙しくてこれなかったお父さんの代わりに君たちが掃除するってわけだ」
「お前も掃除するんだろ」
なんか僕たちに全部やらせようとしているように聞こえたのでそんなことを言った。和正は口笛を吹きながら図星の顔をした。明らかに自分は楽をしようとしているのが見え見えだ。和正は僕たちに掃除を押し付けようとしているのは一目瞭然だった。
もしかしたら毎年お父さん任せで自分は掃除をしていなかったのかもしれない。
しかし、一年に一回しか掃除してない割にはこの家はかなり綺麗だ。
「とりあえず部屋はカップルで一つね」
和正はそう言ったので
「僕と油さんはカップルじゃないんですけど」
と突っ込んだのだが
「え、裕太君。私たちカップルじゃん」
と返されてしまった。僕はため息をつく。
もう、それでいいですと言うしかない。こういうときは諦めが肝心。
僕と油は一緒に寝る部屋へと案内される。
僕と油の部屋はかなり広い。部屋と言っても襖で仕切っているだけの場所なのだが。
僕と油は部屋に荷物を置くと夏美さんと和正が居る居間に移動する。
「じゃあまずは何から始めればいいんだ」
僕は今から掃除をすると思っていた。
「今日は時間も中途半端だし掃除はしないよ」
「今日しないのかよ!」
「だって疲れたじゃん」
僕にはそうは見えない。どう見たって有り余った体力があるはずだ。
「それに今日は何か別のことをしたいなと思って」
和正は相変わらずのマイペース。これから何をしようと言うのだ
「今日含めて四日間、掃除で終わると思ったか」
俺はそうだと思って来た。
「何かあるの!」
油が興味津々で和正に食いつく。
「そりゃあるよ。しかも最終日にはめっちゃいいことが」
「え!最終日に何があるの!」
「油さんは食いつきがあっていいね!そう!最終日にあるのは!天草の花火祭り!!いえええええええええええええええええ!フォオオオオオオオオオオオオ」
なんなんだそのテンションは。暑さのあまり頭が逝ってしまわれたのだろうか。しかし、先ほど疲れたと言っていなかったか。もう僕はついていけない。そもそも今日はまだ初日になのになぜもう最終日のことを話しているんだろう。そんなことより今から何をするのかということを教えてくれ。
「んじゃあ、これからすることなんだけど、まあ、散歩でもしようかなと思って。ほら俺がここら辺のこと案内してやるよ」
「えー」
「何がえーだよ!楽しいぜ!散歩」
「疲れる!」
「いや!絶対楽しいから!」
和正はそう言って無理やり僕のことを外に出す。
結局、四人で散歩することになった。僕は渋々と三人について行く。
「緑に囲まれていいところだろ!」
どこを見ても木と葉っぱ。同じ風景が広がる。高尾山とそんなに変わらないような気がする。
「なあ、いつまで散歩するの」
「何だよ、まだ散歩し始めて三分も経ってないぞ!」
和正は「これからこれから」という調子でどんどんと歩いていく。
僕の隣で何かしている。そういえば彼女は何か白い袋のようなものを持っていた。
「さっきから何してるの」
「蝉集めてるの」
彼女は木に止まっているセミを捕まえてどんどんと袋に詰めて行く。一体何を考えているのか。
「それどうするんですか」
「内緒!」
なんかすごく嫌な予感がする。
「あー!」
彼女が何かに気がついて走り出す。その先にはとてつもなく大きな大木が経っていた。ここは何かの映画のモデルになったとこなのだろうか。そう思うぐらいすごいデカイ木が立っていた。
僕はその木を見上げる。大木は夏の風に揺られて葉がカサカサと音を立てて揺れる。
「ここの木ってカブトムシがたくさん取れるんだよね!ほら、ここの穴の部分に虫が好む樹液が出てて!」
「そうだけど、何で油さんが知ってるの?」
少し焦りを見せた油。確かにどうして彼女がここでたくさんのカブトムシが取れることを知ってるのかは僕も疑問に思った。
「えっと、それは偶然そんな気がして・・・・・・。そうだ、図鑑!図鑑で大きな木からは樹液が沢山出てカブトムシを捕まえやすいっていうのを見たことがあってそれでこの木から沢山カブトムシが取れると思ったの!」
「へー!」
和正は彼女の入ったことに納得した。でも僕はなんか引っかかる気がした。
「ここで、俺は昔、沢山カブトムシを捕まえてお母さん自慢したんだよな」
「へー」
和正の過去に僕は興味ないので何の感情もない反応をする。
「ま、でもここの木のこと教えてくれたのはお母さんなんだけどな!」
なぜか、ガッツポーズをする和正。本当に元気がいいな。僕はもう帰りたい。
「じゃあ、そろそろ戻るか。裕太から帰りたいというテレパシーが受信されたことだしな!」
それはそれは悪うございました。僕はなるべく外には出たくないインドア派の人間なんで家にいたいんですよ。
僕たちは和正の実家に向かう。帰り道、油は何だか満足そうな顔をしていた。一体何かに満足したというのだろうか。
無事、和正の実家に戻ってきた。
帰ってきた途端、和正は今のテーブルの前に座りダランとする。僕も疲れたせいか和正の隣で横になる。こういう他人の家ではいつも遠慮した感じでいるのだが、今日は疲れがすごくて普通に人の家の居間で寝転んでしまった。和正は僕に話しかける。
「というわけで夕飯にしよう」
「和正、まだ四時だよ」
「でもさ、もう腹減ったじゃん」
どんだけマイペースなんだ。
「じゃあ、私が作るね!」
油が料理することをかって出る。油が料理できるなんて知らなかった。
和正も驚く。
「油さん、料理できちゃうんですか!」
「もちろん!」
「すごいですね!」
「私、こう見えて家事全般得意なんだよ!」
「おー!じゃあお願いしようかな!」
油は「任せて!」と言って台所に向かう。
「あ、調理道具の場所を教えますよ!」
「大丈夫!大体わかるから!」
彼女は台所で作業を始める。和正に言った通り、彼女は台所にある料理道具の位置を把握していた。和正は更に驚く。
「凄いですね!何でわかるんですか!」
「母の感ってやつだね!女にはみんなあるんだよ!」
「すげえな!」
彼女のデタラメに和正は納得する。そんなわけないと僕は思った。
油と和正ののやり取りを眺めている僕。
そういえば夏美さんがいることを忘れていた。彼女はここに来てからまだ何も話していなかった気がする。さっきの散歩の時も静かに和正の隣を歩いているだけだった。夏美さんはどうして和正のことが好きなったんだろう。こんなめんどくさい男よりもっといい男ぐらい夏美さんだったら見つけられたかも知れないのに。
僕は何となく彼女に話しかけてみようと思った。
「私ちょっと風に当たってくるね」
僕から話しかけようと思ったが彼女はそう言って立ち上がる。
「ねえ、裕太君」
僕は少しビックリした。彼女から僕の名前が出てくるとは思っていなかった。高校の時も彼女に名前で呼ばれたことはなかった気がする。彼女の声は少しばかり緊張していた。僕も彼女に声をかけられすごく緊張した。油と一緒にいるからもう女性には慣れたと思っていた自分だがそうでは無かった。
「一緒に来てもらって良い」
「いいよ」
僕は彼女について行った。僕と夏美さんは縁側に座る。
僕と夏美さんのことを不思議そうに見る和正と油の視線を背中から感じた。和正と油が台所から顔を出しこちらを見ている。
「あの二人、なんか似てるね」
「ああ、まるで俺たちみたいじゃね?油さん」
「それどういう意味?」
「うーん、恋人的な?」
「ダメだよ!裕太君は私の彼氏なんだから!」
「それ言ったら俺だって夏美は裕太なんかに渡さねえよ!」
なんか後ろからよく分からないことで楽しそうに喧嘩している二人がいる。
夏美さんはふふっと笑う。彼女の笑う顔、最高だ。
夏美さんの髪の毛が涼しげな風に揺られてなびく。彼女は靡く耳元の髪の毛を人差し指で耳にかける。そして僕の方を向く。
「油さんとは仲がいいですよね」
「いや、良くないですよ!」
「でも、さっき歩いてる時の話してる様子、すごく楽しそうだった」
「僕は楽しくなかったです」
「そうなの」
彼女は首をかしげる。
「私は理想の男女のお付き合いだと思ったけど」
僕は全力で否定する。
「確かに彼女は付き合ってるとかそんなこと言ってましたけど一切そんな関係じゃ無いです!決して!」
彼女は「そうなんだ」と言ってくすくすと笑った。僕はそんな彼女を見て心が癒された。こんなことを思う僕は変態なのだろうか。彼女がこんなに笑った顔を見るのは初めてだ。僕も彼女に釣られて笑った。
それにしても彼女と僕が顔を面と向かって合わせたのは初めてのことだ。僕は高校の頃の夏美さんを思い出す。あの頃は避けられているような気がしていた。
「僕、夏美さんに嫌われてるのかと思ってましたよ」
「どうして?」
「なんか僕って避けられたような気がして」
「そ、そんなことないよ」
高校の時は和正と一緒にいて夏美さんには何度か話しかけようとしたことがある。でもなんか彼女の視線が僕を受け付けないような目をしていた。だから僕からはあまり彼女に話しかけないようにしていた。それに僕はライトノベルの小説の中で生きていたような人間だから変な風に思われていると思い、話しかけていなかったのもある。
「私ね、何度も裕太君に話しかけようとしたことあったんだよ」
彼女はスッと顔を寄せて僕に言った。彼女もどうやら僕と同じように関わりたいと思っていた。それだけでも僕は嬉しかった。
「あのね、私男性がどうしてもダメで、それで裕太君にそういう風に思わせてたのかもしれない」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「そ、それなら仕方ないですよ」
僕は彼女がどうして僕に避けるような感じでいたのかということが分かった。そういえば彼女は学校で男子と関わることがほとんど無かった。でも、よくよく考えればそういうことだということは容易に理解できたはずだ。本の中でしか生きられないような僕だから気づかなかったのかもしれない。
「これからもよろしくね」
彼女はにっこり笑って言った。僕も彼女に笑い返す。僕は彼女と初めてあったような感覚だった。いつも和正と一緒にいて彼女いることはよく会ったのだがこうして話したりすることはなかった。だからとても新鮮だ。
「こ、これからもよろしくお願いします」
ぎこちない僕の言葉。でも。これで夏美さんと仲良くなることができた。
ーーカンカンカンーー
また急に踏切の音が頭に響く。
すごく頭が痛い。何だろう。耳鳴りもする。何かよくないことが起こるような気がした。
ーーガタンゴトンガタンゴトンーー
何かが僕の体に当たった。大きな何かが僕の体に思いっきりぶつかった。身体中がすごく痛い。僕はさっきものすごい衝撃を体全体で感じたのだ。この衝撃を例えていうなら
ーー「電車に轢かれたような」ーー
ーーガタンゴトンガタンゴトンーー
「ねえ、大丈夫?」
夏美さんが心配そうに僕を見る。
「うん、大丈夫。ちょっとめまいがしただけ」
僕の額から汗が流れた。僕は一体どうしたというのだろう。さっきの身体中の痛みがいつの間にか引いていた。だが、呼吸は荒くて先ほどの出来事は嘘のようには思えなかった。
「おーい!何を話してんだ」
和正が割り込んできた。
僕と彼女の間から顔を出す。
油は一人、台所でセッセと料理している。
「私手伝ってくるね」
夏美さんが油の手伝いに向かう。入れ替わりに夏美さんが座っていたところに和正が座る。
「夏美と何話してたんだ」
「色々だよ」
「なんかお前と夏美って似てるとこあるよな」
僕と彼女の共通点は静かなところだけだろう。僕と彼女を同じようなの人間に捉えてはいけない。それはきっと彼女にとって迷惑なことだろうし。
「なんかさ、雰囲気とかさ」
「それは彼女に失礼だよ」
和正は「そうかな」と頭を掻きながら言った。
「そういうお前と油さんだって気が合ってるように見えるけど」
「そう?」
あれだけ楽しそうにしておいて全く自覚していなかった和正。なぜあそこまで絡んでいたのに気が合ってると思ってないんだ。
「しかし、夏美も裕太と話せるようになったか」
和正は夏美さんを見る。夏美さんは油の支持を受けながら料理の手伝いをしている。
「あいつさ、俺以外の男と話せないからさ」
「さっき、聞いたよ。夏美さん、男の人が怖かったんだろ」
「怖い?それは多分違うな。怖いというよりはトラウマなんだよ」
トラウマって一体何があったのだろう。男性とは関わりたくなくなるようなトラウマ。電車で置換にあったとかそう言ったものだろうか。
「まあ、でもよかったよ。お前をここに連れてきたのはそれもあるから」
「それって」
「夏美が他の男と過ごしたり話したりするってこと」
「マジ」
「マジだよ。まさか掃除するだけのために俺がお前をここまで連れてきたと思ってたのか」
「思ってた」
「え、俺そんなにひどい人間だと思われてたの?!」
「ああ。だっていつも一方的だし、わけわからんこと押し付けてくるし」
逆に思われてなかったと思っている方がおかしいぐらいに和正は僕に色々と押し付けていたはずだ。
「そんなにお前に悪いことした?」
「うん」
どんだけ自覚症状がない人間なんだ。しかし、和正のさっき言った夏美さんが他の男と過ごしたり話したりするために僕が呼ばれたとなるとなんだか僕は夏美さんのことを意識してしまうような気がした。いや、彼は僕に意識しろと言ってるのかもしれない。絶対に言っている。でも、人助だと思って考えれば悪い気分じゃない。僕も女性には耐性がない人間だから彼女にも僕にもメリットがあることだ。きっと僕はこの天草で多くのことを学ぶことになるんだろう。
「おーい!二人とも手伝ってー!」
油が呼んだので僕と和正は立ち上がり油たちの手伝いに向かった。
遂に待ちに待った夜ご飯。僕たち四人は居間に置かれた大きなテーブルを囲んで座っていた。外はすっかり暗くなっていた。天草の夕焼けの静けさに包まれている。田舎だからこそ味わえる虫たちの合唱。それにしてもここは東京より南西だというのに東京よりは涼しい。日中は確かにものすごく暑かった。でも夜になると心地よい風が縁側から入ってきてちょうどいい温度まで下げてくれる。だからエアコンもいらず扇風機で十分しのげる暑さだ。
さて、お待ちかねの夜ご飯のことだが、まずは自分の手元にあるものから注目することにしてみよう。
まずはご飯に味噌汁といった普通の和食。僕のお母さんもよくこれを朝昼晩と定番の食事として作ってくれる。ちなみに味噌汁は九州で有名なワタリガニのだし汁らしい。確かに臭みが少しある匂いが味噌汁から香ってくる。でもけいして嫌な匂いではなく食欲を粗相ものだ。
手元にある食卓はなんの問題もない。いたって普通の食卓だ。
問題はテーブルの真ん中に置かれているでっかい二つの皿に入っている食べ物だ。
サラダの上に乗っかった大量のエイリアンのような形をした揚げ物。そうこれは蝉の幼虫の唐揚げ
そしてもう一つはもうそのまま揚げたたくさんの黒い物体を皿に乗せている。そう、これは蝉の成虫の唐揚げ
それを見た瞬間僕の食欲は一瞬で引いていった。
「じゃーん!どうぞ召し上がれ!」
油は笑顔で「さあさあ」と僕たちに真ん中のものを進めてくる。夏美さんは青ざめた顔で疲れ切っていた。彼女はこれを作る手伝いをさせられていたのだ。さぞグロテスクなものを見せられたのだろう。ひどい絵面のものを見せられたのだろう。僕は彼女に同情した。
「これはこれは、美味しそうな蝉の揚げ物!」
やはり食いついた和正。彼はこの得体の知れない食べ物を見て恐怖というものを抱かないのだろうか。
「食感はまるで桜えび。美容にもとてもいいんだよ。だから蝉を食べるとお肌がツルツル!」
和正は蝉の唐揚げを恥でつまみ口に運ぶ。
「うまい!」
和正は本当に美味しそうにそういった。夏美さんと僕は引く。
「ほら、油さんがせっかく作ってくれたんだから食べなよ」
「いや、無理」
「なんでだよ裕太」
「なんでって、虫はちょっと」
どう考えたって美味しそうには見えない。そもそも口にしたいという気持ちが一ミリも湧いてこない。これは僕の虫への偏見かもしれないのだが、とにかく食べることにおいては全くもって無理だ。
「夏美もどうだ?」
もちろん夏美さんも首を横にふった。彼女もやはり虫を食べることに対してかなりの抵抗があるようだ。まあ、そりゃそうだろうよ。こんなものを食べたいなんて思うのはなかなかにグルメの人間か、そういった虫を食べる地域の人ぐらいだと思う。
「なんでだよ二人とも!こんな美味しいぞ」
「そうだよ、蝉の妖精が作った蝉料理だよ!絶対美味しいから!」
蝉が作った蝉料理って彼女は自分がサイコパス発言をしているということに気づいていないのか。それはつまり共食いってことだ。君のやっていることは矛盾を通り越している。
「それは共食いですよ油さん」
「共食いじゃないよ。裕太くんが私を食べるのと同じことだもん」
「そうだぞ裕太」
「お前は何なんだよ!」
この二人はきちんとした日本語が話せないのだろうか。それとも人間には理解のできない思考をお持ちなのか。やっぱり僕とこの二人の考えていることは全く理解できない。
「私、食べてくれないと裕太くんのこと嫌いになっちゃうよ」
「いいですよ」
両手を顔に当てて油は泣いたふりをする。どう考えても、バレバレな鳴き真似。
「なんて酷いんだ裕太!油さん!きにする事ない!」
「ぐすん、私和正くんと付き合っちゃうよ」
「いいですよ」
「いや!否定してよ!私裕太くんのこと溺愛してるんだよ!それに夏美さんもいるんだし!」
確かに夏美さんがいる訳だし否定するべきだったかも。
夏美さんは笑っていた。そんな夏美さんの表情を見て僕は一安心した。またあの時のように僕と夏美さんの視線があった。
「あー!裕太くん!浮気!」
「裕太てめえ!俺の夏美に惚れたか!」
僕は二人に詰め寄られた。
そんなこんなで続く楽しい夜の茶番。ここにはとても幸せな空間が広がっていた。そう、こうやってふざけ合って楽しく過ごすことを幸せという。でもそんなことが叶わない人だっている。
そしてそれがもう直ぐ終わろうとしている人がいる。
僕はまだそれに気づかずにいた。