めざめ
―――天津麻羅が憶えている夢の内容は、ここ迄である。
この夢から目が覚めた時は決って涙が頬を濡らしており、自分の意思では其を止める事が出来ない。眼帯の下の疼きも酷く、目覚めとしてはいつも、良い方ではないのだった。
「・・・・・・・・・・」
「―――あ、起きた?」
ギュキ。車椅子に乗った、彼と同じ黒衣衣装の娘に声を掛けられる。―――もう、交替の刻か、と天津麻羅は頭を擡げる。
「―――お早・・・」
「起してごめんね?でも之、すごくない?流石は思兼神さまの御宅だと思わない?」
娘は興奮醒め遣らぬ表情で前へ後ろへ、車椅子を操作してみせる。天津麻羅は寝ていた畳に腰を掛け、嬉しそうな笑みを浮べた。
「良かったですね、蛭子」
・・・この男はいつだって、他者に起った出来事を自身の事の様に受け止める。今回も叉、娘の歓びを当事者と同じ割合で共有するのだった。
「思兼神に、後程御礼を云っておかねば」
思兼神とは、岩屋戸の件で接触があり(天津麻羅が一方的に、心理的に)随分と身近な存在となった。彼は思兼神を好いている。
と云うのも、この娘が、対面する以前より思兼に憧憬を懐いており、名を繰り返された影響もあるかも知れまいが。
出自も能力も弱き者に対する何心無い宛がいも、一見非の打ち所が無い思兼を評価する天津麻羅の構成員は多い。
・・・・・・本当はもう、いつ逢えるのも知れぬのやが
「―――大丈夫?」
―――天津麻羅の微笑みに、蛭子と呼ばれた娘は何故か問う。え・・・と天津麻羅は訊き返した。水滴が一粒落ちる。
青の眼から流れる透明の涙は、未だ止ってはいなかった。
天津麻羅から笑顔が消える。只管不思議そうに、掌で粒となった涙を受け止めていた。・・・手首を伝い、肘の先まで粒は流れる。
「・・・・・・偶にあるよね、そういう事」
蛭子は目を細めて云った。
「天津麻羅に居る神は皆そう。何かを失って、その“何か”が判らなくて苦しんでいる。いっそもうその夢の記憶ごと、金屋子神さまに御願いして消して貰ったら。どうせ、天津麻羅に入る時に其迄の記憶は消されているのだから」
無理矢理にではない。天津麻羅に所属する者達は皆、自らの記憶を自らの意思で破棄して入団してきた。元来はもう、思い出したくない記憶の筈だ。
―――鞴を一斉に踏む騒騒しい音が聞えてきた。
「―――まだ休んでいたがいいかも。代ろうか?」
「いえ・・・」
交替時間が終り、仕事が再開したのだ。踏鞴製鉄は24時間体制で行なわれており、所謂歯車である彼等は交替制で持場を担当する。天津麻羅は仮眠を摂っており、先程その哀しい眠りから目覚めた許だった。
「有り難きお言葉。併し、鞴の方に迄お願いする訳にもいきませぬ」
天津麻羅は立ち上がる。哀しみを直隠して、否、哀しみの感情や涙の意味さえ忘れて仕舞ったかの様に真っ新な笑顔を浮べていた。
蛭子が彼に代るかの如く、哀しみの表情で見送らんとす。その顔も何かがすっぽりと抜け落ちて仕舞ったかの様。
「嗚呼どうか、その様な哀しい表情をしないでください―――・・・私は、哀しくて涙が出る訳ではないのです」
天津麻羅は蛭子を振り返り、表情を微かに曇らせた。蛭子の頬に手を添えて、分厚い眼帯を巻いた額を、彼女の額にくっつける。
「只―――この様な欠陥のある私でも、受け容れて戴ける環境がある事に感謝して―――・・・」
蛭子は天津麻羅の柔かな髪に触れ、手を左右に動かす。・・・まるで、夢に出てきた熊の姉弟の様であった。
「・・・・・・どんな夢を見たのかは判らないけれど、貴方は貴方だよ。だから安心して。天津麻羅は皆、家族だから」
「有り難き―――・・・倖せ」
―――襖障子が左へ滑り、かたんと静かに木枠に触れる。蛭子は畳に忘れ去られた杖に気づいて車椅子を動かす。
狭い間を慣れぬ操作で漸く縫って、杖に届く位置まで進むと、遂に掴んで両手で抱いた。
当人は意識していない様だが、頑なにと云える程に、彼は杖を使おうとしない。金斗雲を乗り熟すのにも、随分と時間が掛った方だ。乗るという発想が先ず無いのだから。
片脚が上がらず引き摺っていても、転んで立ち上がる事が出来なくても、何かを利用する事も思わず唯前へ進み続ける。這って、跪いて水を啜り、其が泥水であったとしても。同じ様に、誰にも頼らず、日日を当然と全く思う事無く彼は常に感謝して生きる。毎日を、その日一日一日の記憶と決別するかの如く。彼の記憶が抜け落ちているのは、何も遠い過去だけではないのだろう。
若しかしたら、彼は毎日死んでいるのかも知れない。
「―――金錬人―――・・・」
同僚がいつか心を取り戻せる日が来ん事を、蛭子は独り、静かに願った。
完