夢の絵
市立図書館の三階催事場入口に女が立っていた。年は四十、如何にも退屈という表情である。しかし女は特段に怠惰な性質という訳でもなく、ただ客が来ないから退屈なのだ。先程の老婆二人連れ、続いてスーツの中年男がそれぞれ数分も滞在せぬうちに帰ってからというもの、階段を上って作品展に来る人は十五、六分も途切れている。
もう毎年のことであるから仕方が無い、と女の頭にはある種の割切りが生じていた。この役が回ってきたのも既に三度目なのだ。実の所女は図書館員ではなく受付嬢でもない一介の保育士。展示されているのも一流の芸術作品とは認め難い、五歳迄の幼児が殴り描いた絵ばかりであった。保育所の副主任に昇進して児童の受け持ちが無くなった結果、このような展示作品の保全といった雑事を回されるようになり、今年で三年目に入っていた。態々三階まで幼児の絵を盗みに来る、悪戯をする、そんな者には当然ながら未だ出会ったことがない。
女は廊下の吹抜けから下を見たりガラス越しに外の風景を眺めたりして暇をつぶし、閉館の時を待った。片側二車線の道路に走る軽自動車を目で追った。その先に子供が四人、小学生だろうか、無理に横断しようと道路脇から車の流れを伺う姿を見つけ、もし此処から声が届くのなら叱りつけてやるのに、と思った。その間にも女は何度となく時計を見た。退屈な時間もいつかは終わる。残り十五分で五時になり、そうなれば直ぐに扉を閉め鍵をして事務員に返却し保育所へ帰ろう、と考えていた。
その時、不意に足音を極近くから聞いたので、女は吃驚して手摺から身を離し振り向いた。すると視線の方角に、男が居た。女の目には二十代半ばと映った。顔色が芳しくなく、擦れたコートを羽織り、脚に故障があるのかやや細かく歩を進めていた。足音は不気味な程に小さく、女はその所為で男が階段を上がって来たのに今の今まで気づかなかったのだ。
こんにちは、と発した女の声は痰が絡んだようになり、慌てて口に手をやり咳込んだ。男は挨拶が自分に向けられたものだと認めて眼を多少見開いた後、首だけをヒョイと下げ会釈し催事場に入って行った。幼児の父親だろうか、と女は思った。他に客が来る気配もないので、女はそれと無く男の様子を伺うことにした。
男は大きく首を動かし会場全体を見た。暫く天井を眺めた後、ゼロ歳児の絵に向かって行った。時折首を傾げるようにしたり笑みを零したりといった仕種が、女には一々不快であった。まじまじと子供の名前を確認している。ひょっとしたら自分は犯罪者を会場に入れてしまったのではないか、と恐怖に駆られもした。殴り描きの絵と名前だけで何ができるわけでもないだろうが、陽の落ちかけて冷えた静粛な会場に自分と男しか居ない状況では余計に怖ろしかった。催事場は異様な程に静かで、男の足音や衣擦れや溜め息だけが響いていた。それが女には耐え難く、何度か咳払いなどしてみたが女の気は晴れなかった。
男は二歳児、三歳児と作品を順番に観て歩いては再度引き返し、多くもない作品をやたらに勿体ぶって眺めていた。漸く女は男への警戒心を失ってきた。この人は単純に絵が好きで観ているのだ、と理解した。男が五歳児の絵に差し掛かった時、既に五時を回っていたが、女は少し待ってやることにした。見ていると、不図見えた男の横顔には先刻と打って変わって血が通い、眼は幼時の輝きを取り戻したかのような印象を受けた。
しかし五歳児の絵の前をうろうろした後、男は再度ゼロ歳児の方に戻って今度は遠くから眺め始めた。それをまた一歳児二歳児と続けるものだから、もう時計は閉館時間を二十分も過ぎている。保育所に今日の仕事を残しているし、いい加減に帰らなければいけない。熱心に観てくれるのは有難いがそろそろお引き取り願おう、と決心して、女は男の居る四歳児のコーナーまで歩いて行き「子供の絵に、興味がお有りなんですね」と声を掛けた。
「ああ」絵に見入っていた男は多少狼狽えたように咳払いを一つしてから、しかし明晰な口調で返事をした。
「そうなんです。昔から絵の展示を見かけると、つい足を運ぶ癖がありまして。かしこまった美術も好きですが、子供の絵も良いですね。人間の成長がはっきりと表れますので」絵と女を交互に見ながら話す男の様子は、女の想像していたよりは社交的であった。
「確かに私もそう思います。自由に描かれていて楽しいですね。ただ申し訳ありません、当展示会は五時までとなっておりまして。随分と熱心にご覧の様子でしたので、心苦しいのですが」
「え、そうだったんですか。それは、すみません。本当に何も、何も知りませんで」男の声は急に小さくなり、卑屈な態度をとり始めた。女は二十年も大勢の子供を見てきた経験から、眼前の男は叱責を極度に怖れる性格なのだと解した。両親に厳しく躾られ羞恥心が人一倍強く育ったのだろう、そう女は思った。
「いえいえ、大丈夫ですよ。こんなに熱心に絵を観て頂けるのでしたら、描いたほうの子供達も幸せだと思いますわ」と、女は平時子供に接する時の笑顔のまま言った。
「すみません。あの、貴女は図書館の方、ですか」男は女の服を見ながら尋ねた。こんなジャージ姿の図書館員は居ないだろう、と女はまた少し笑った。
「いえ、私は保育所の副主任をしております。交代制で、保育所の者が番をしているんですよ」
「保育所の方、それでは少しお聞きしたい事があるのですが、ご多忙でしょうか」
「ええ、少しなら構いませんよ」女がそう言うと、男の表情が再度生き返った。
「此処にある子供達の絵は、それぞれの年齢で良く出来た物を集めたんでしょうか」
「はい。地域の三つの保育所や園から集めたものですわ」
「やはり、そうなんですね」男は少し昂奮した様子で二、三歩下がり絵を見比べ始めた。
「と言うのも、物の見方の発達加減が皆よく似ていますので、そう思ったんです。この位の年齢ですと、早生まれやら何やらで成長に大きな差が出る筈ですから」
「確かに、幼児の成長には個性が有りますので」女は同調する素振りで何度か肯き、その後に少し付け足した。
「ただ、この位の子供達だと、環境も大きいものです。お兄さんやお姉さんが居る子は道具も揃っていますし、上の真似をしたり教わったりで絵も上手に成ります」
「やはり、環境ですか」男の声が一段高くなった。もう話したくて仕方が無い、という様子だった。
「僕も冬の生まれでして、四月とか五月というわけでは無かったんですが、ああ、例えばこの子。色彩がとても写実的ですね。その三つ右の子は、形を良く捉えている」次々と絵を指差し批評を挟みながら、男は自分の幼時を語り始めた。
「しかし立体的な表現は、まだ出来ていないようですね。僕はそれも出来たんです。この絵の子は五歳ですが、僕はもっと小さな頃から出来たんですよ」
「立体的な表現を、ですか。はあ、そんな小さな時分から」感心と、多少の疑念が女の声色に混じった。そんな早熟の子は、長年子供を見てきた女でも見た事が無かった。しかし女の声を聞いても男は怯む様子を見せない。
「信じ難いとは思うんですがね、いやに呑み込みが良かったのと、僕は長男で一番上でしたから、兄や姉でなく親でしたが、両親に大層期待を掛けられる程ですから、本当に飛び抜けて上手だったんです」言い終わったかと思えば男は「ああ、こっちの下の絵も、線が独特ですね」とまた絵を指差した。
その時女は絵と、男の指を見た。伸び切らない人差し指の皮膚が厚く黄土色になり、固まった線維の隙間に絵の具であろう色彩が詰まっていた。女は、男の言うことが法螺では無いというような気になってきた。
「あの、失礼ですが、絵を専門に描いておられる方ですか」
「いや、僕は」男はその指で鼻の頭を掻き二、三秒考え込むようにした後、笑って言った。
「結局何でもない、普通の大人に成りました。親が期待したようには成れませんで」
女が再度口を開きかけた時、それより先に男が先程と違う絵を指差した。警察官らしき人物が五人並んで銃を構えて居る。下の名札には作者の名前に加えて、しょうらいのゆめ、と題名が書かれていた。
「この子は、こうなるのが夢だそうですよ。銃を持ってるように見えますが、漫画か何かの影響ですかね。銃を腰から抜いている警官なんて、実際には見た事ありませんが」また男は笑った。女はその表情を哀れな子供の愛想笑いだと思った。
「子供の夢、僕が親に成った時は、無理強いしないで自由にさせてやろうと思うんです。親の夢なんてのは、ただ重たいだけのような気がしますから」
「ご結婚は、もう?」
「いや、それもまだでして」
「それなら、お子様が生まれた時には、きっとまた考えも変わりますわ」
「そうですね、野球選手に育てよう、なんて言ってるかも。うちの親みたいに」
不図、男は時計に目を遣り、「僕の所為で、こんな時間になってしまいました」と頭を下げた。女は「いえ」と答え、二人共部屋から出た。
「また来年の今頃も、きっと展示をやると思います」と女は言った。
「そうですか。僕は半年程前に引越してきたもので、よし、来年もきっと観に来ます」男はやや急いたように言ってまた頭を下げ、ぎくしゃくと階段を下りて行った。小さな足音は直きに、女の耳には聴こえなくなった。
女は催事場の灯を落し、扉を閉めて鍵をした。廊下からガラス張りの外に目を遣ると、コートの男が道路を無理に横断している姿が見えた。さっきの青年か、と思ったが、別人であった。
その直ぐ後に、喧しく階段を上る足音がして幼児と母親が周囲を見回しながら歩いてきた。女は「大変申し訳ありませんが、もう閉館です。またお越し下さい」と、よく通る声で言った。(終)