第4話 対の望み その1
満月の夜。水没した旧市街。
水面に反射する光の筋を眺めた。月に向かって伸びていく、光の道。追いかけようとしても、ずぶずぶと水に浸かるばかりで、月の向こうまでは歩いていけない。人の身では至れない道。
テンは鉄筋コンクリートの残骸の上に腰掛けて、月の道を眺めていた。実際に歩いていって確かめるほど、無邪気ではなくなってしまった。歩いていけない道に、それでも希望を信じられるほど強くもなかった。
ため息をつく。誰かを救いたいと、そう言った少年。自分にとってはあまりに遠い、果てしない。だって――。
自分は誰かを傷つけることは出来ても……、助けるなんて、救うなんて、出来ないから。そう、思っていたから。
大切な人だったのに。殴って、骨を折って、もうやめてと言われても、ただ、ただ……。父の言葉に従って、その通りに。
誰かを傷つけることは、悲しい。もう二度と、そんなことがないように、気をつけようと思った。傷つけたくないのなら、もう誰とも仲良くしなければいい。何も言わず、何もせずに大人しくしていよう。父の言う通りに、ただ、ただ……。
教室の隅で、ぼんやりと眺める景色は、なんだか点描みたいで、だんだんと霞んでいった……。
だけどくれたのだ。ことばを。
――それは、あなたが決めることです。
テンの欲しかったことば。まだ強くなくて、信じることは出来ないけれど。それでも。傷つけるばかりの人間じゃないって、何も感じないただの箱じゃないって。優しくしたり仲良くしたり、大切な人に何か返せる人間なんだって。自分で決めて、自分でなれるんだって。少しだけど、思えたんだ。
――さあ、テンさんは、なんの役が欲しいですか?
(黒はね、私は――)
白く瞬く月の道。望む向こうまでは、行かれないと知っていても、その道を行きたい。
ゆっくりと翼を広げる。白い小さな翼は、鉄筋コンクリートから飛び降りるのに、少しだけ浮力を与えてくれた。
放課後。学園の洋弓場。
カラフルな羽根のついた矢が、これまたカラフルな的へ吸い込まれるように飛んでいく。トッと、鈍い音がして、黄色く塗られた的の中心に矢が増えていく。
木立に囲まれた洋弓場は、普段はきっとシンとしているのだろうが、今日だけは少し騒がしかった。急ごしらえの観客席は、満席とはいわないまでも人が集まっていたし、それを受けて部員の方も張り切っているようだった。
生徒会後援の洋弓部のイベント。部員数の少ない洋弓部が、生徒会に頼んで、新入部員募集のためのデモンストレーションを行っているのだ。先ほど部長が挨拶をして、今は部員による実演、この後は集まった一般生徒にも射させてくれるらしい。
トッ。また矢が的に当たる。
「やるわねー、あの中三」
隣に座る会長が感心して、そんなことを言うが、ケイタはアーチェリーのことはよく分からなかった。今実演している部員が、どの程度の実力なのかケイタにはさっぱりだ。
反対の隣に座るテンの様子を見る。テンはぼんやりした表情で、黙って部員の方を見ていた。矢の飛んでいった的の方は見ないで、ただ部員の姿を、じっと。
不思議だと思ったのだ。テンはスポーツにはあまり興味がないと思っていた。テンは運動神経は悪くないが、運動部には所属していない。ケイタとの間でもスポーツの話題が出たことはなかった。そもそも、テンの関心はほとんどが食べ物のことだった。
そんなテンが、ホームルームの時間に配られたチラシを見て、洋弓部を見に行きたいと言った。ケイタには不思議だった。
「さて、ケイタ君、テンちゃん、私そろそろ次の準備に行くね」
会長はそう言って、席を立つ。その後を、ノートパソコンを抱えたセイジが追う。ケイタはその姿を見送って、再び部員の実演へ視線を戻す。
トッ。
誤っても矢が飛んでこないように、観客席は競技者の立つ場所より後方に作られた。だから、今弓を射ている部員の顔は、ここからは見えない。
先ほどから矢を射続けている男子部員。オレンジ色の髪の間から、ハチマキのように巻いた包帯がヒラヒラと伸びている。背はそんなに高くはない。会長が中三と言っていたのだから、中等部の三年生なのだろう。ケイタもテンと同じように、オレンジ頭の男子部員を見つめた。
しばらくしてテンが席を立った。ケイタが見上げるとテンは「行こう」と呟いた。
テンに続いて、歩いていく。洋弓場から続く小道には、今日のイベントの受付があって、会長とセイジはそこで何か作業をしていた。
「もう帰っちゃうの?」
会長がこちらに声をかける。テンが頷いて、言った。
「会長、お仕事頑張ってね。《ワカメ先輩》も」
会長はくすくす笑って、ありがとう、と答える。その後ろで、開いていたノートパソコンをバシンと閉め、セイジが立ち上がり、驚愕の表情でテンを見た。
確かに、セイジの髪色は深い緑色で、ワカメの色に似ているけれど……。きっと育ちのよさそうなセイジのことだ、こんな遠慮のないあだ名で呼ばれることに慣れていないのだろう。唖然としている。
「行こう、黒はね」
テンはパタパタと駆けるように行ってしまう。テンが駆けると、ふわふわのツインテールは跳ねるようになびく。ケイタは会長とセイジに会釈をして、テンを追いかけた。
後ろの方から「よかったわねえセイジ、素敵な呼び名をもらって」と会長の笑う声が聞こえる。セイジの方はあまりのことに絶句しているらしく、声は聞こえてこなかった。
三時間目。屋上。
フェンスに手をかけて、ケイタは何を見るでもなくぼんやりとしていた。風が吹いて、髪を撫でていく。授業時間中の校内で、教室の外にいるのはなんとなく落ち着かない。中途半端な時期に、今のクラスへ編入したケイタは、週に何度か履修済みの授業があり、その時間は自習ということになっていた。しかし監督者がいるわけでも、課題があるわけでもなく、ケイタは自習時間を屋上や旧体育館で、気ままに過ごしていた。
「北見」
風音の中に名を呼ぶ声を聞いた。振り向くと、自分一人だったはずの屋上に、新しくやってきた男子生徒がいた。
「神楽坂さん」
クラスメイトだ。飴色の髪は少しくせがある。確か、部活は写真部だったか。ケイタとは出席番号が前後なので、話す機会は何度かあった。
今はケイタ以外のクラスメイトは教室で数学の授業を受けているはずだが――。
「自主休講だよ」
神楽坂はケイタの非難めいた視線に、答える。
「お前は自習だっけ? いいよなあ」
神楽坂は伸びをするとケイタの横に並んで、フェンスの向こうを眺めた。
「……北見ってさあ、南條と仲良いよな」
なんとなく、含みを感じて、ケイタは戸惑った。
南條テンは、ケイタにとって大切な人物だった。ただテンがテンであるという理由だけで、彼女を助けると、誓った。それがケイタの、生徒会特命使としての仕事だったし――、ケイタのこころを慰めるごっこ遊びでもあった。
ケイタが黙っていると、神楽坂は勝手に話を続ける。
「なんか南條、元気になったよな。お前と仲良くなってから、さ」
「……そう、ですか?」
「うん。俺、南條ってもっと大人しい子だと思ってたよ」
あはは、と笑う。その笑いの裏に、なんだか悲しさがあって、気付く。
この少年は――、きっと、テンのことが好きだったのだ。
テンは、かわいい。ふわふわした髪をいつもツインテールにしていて、ツンとすました顔は、確かに文句なくかわいいだろう。そんなテンを見初める男子が、クラスにいたっておかしくない。
だけどケイタは知っている。テンの中身は、見た目とは全然違うのだ。豪快だし、乱暴だし、おおざっぱで面倒くさがりだ。己の欲望――主に食欲、次に睡眠欲――に忠実で、嫌だと言えばはてこでも動かない、興味のない話は聞きすらしない。そんな子だ。だけれど本当にかわいいのは、そんな中身の方だ。テンはまだ、どこかぼんやりしていて、泣くことも、笑うことも少ないけれど、それでも教室にいるツンとしたテンよりも、お昼休みの校舎裏でお弁当を前に喜びをあらわにするテンの方が、ずっとずっとかわいいのだ。
「なあ、北見はさ、付き合ってるの?」
「――いえ、テンさんはお友達です。でも、とても大切なお友達です」
「……そっか」
諦めだろうか、何か心に整理をつけたような神楽坂の表情。ケイタはなんと言えばいいか分からなくて、でもきっと何も言わなくてもよいのだと思って、ただ並んで、空を見上げた。
昼休み、校舎裏。
いつもの通りに、テンと一緒の昼食。
「数学の時間、一緒だったな」
お弁当を広げるケイタに、テンが言った。何のことか分からなくて、ケイタはテンを見返す。
「神楽坂。一緒だったな」
「あ、ああ、はい」
あの後、神楽坂とは何でもない世間話をして、チャイムと共に一緒に教室に帰ったのだ。テンはきっと、ケイタが神楽坂と一緒に教室に帰ってきたのを見たのだろう。
「何か言ってた? あたしのこと」
うへえと、心中で変な擬音語をあげて、ケイタは息を呑んだ。テンは何でもない風に聞くけれど、簡単に答えてはいけない気がした。
「どうして、そう思うんですか?」
テンの瞳を見返して、静かに聞き返す。
「ん……」
テンは唇を尖らせて、思案し、言った。
「前、神楽坂に誘われたことがある。映画見に行こうって。だけど、断ったから。黒はねと、初めて会った日」
初めて会った日……そう言われて、思い出すのは、放課後の教室に忘れ物を取りに行った時のことだ。確かにそれより以前にテンがケイタを《黒はね》と呼ぶことはなかったのだから、《黒はね》と初めて会った日は、その日なのだろう。
その日のテンのことは、覚えている。虚ろな瞳で、膝を抱き、灯りもついていない教室でじっとしていた。テンの異様な様子に――テンの持つ傷に――、ケイタが目を留めたのも、その時だった。
「もし、もしだけど。神楽坂があたしのことで……黒はねに何か言ったり、したり、したら……その時は、ごめん」
テンはうなだれて、背の小さな翼もうなだれて、言う。ケイタはなんだか申し訳ない気分になった。
「神楽坂さんは――テンさんのことで、気を悪くしてはいないと思います」
テンが顔を上げ、「そう?」と言う。
「ええ。テンさんが、元気になったって言っていました。だから」
神楽坂は、強がっているようでも、嫌味を言っているようでもなかった。ただ純粋に、恋した女の子が、元気になったことを――自分の見込みと違ったことを、受け止めているように見えた。
「あたし、謝った方がいいと思うか?」
テンは眉根を寄せてこちらを見つめる。
「いいえ」
ケイタは首を振った。
「殴ったわけではないのでしょう? だったら、いいと思います」
ただ、神楽坂が誘って、テンが断ったというだけなら。どちらが悪いというわけではないのだから。
テンはため息をついて、空を見上げる。
「ねぇ、じゃあ……黒はね。もし殴ったら……その人には、謝らなきゃ、いけないよね」
悲しい響きに、ハッとする。テンを見つめる。けれど、テンの瞳には、憂いよりも強さが見えた。
テンには、同級生とケンカして、怪我をさせて、停学になったという過去があった。それは、テン自身の口から聞いたことではなく、生徒会長の勅令を受けるにあたり、生徒会を通して知ったことだった。
ケイタがテンから聞いたのは、以前、自分に何かしようとした子の、肋骨を折ったということだった。テンがしたのはケンカじゃない、恐らくはテンの一方的な暴力だろう。そしてテンがその同級生に暴力をふるったのは――、テンが養父からきつく言いつけられていることを、守った故なのだ。
テンは言った。自分は箱なのだと。空っぽの箱なのだと。テンは空っぽだから、養父の言いつけを――養父がテンの中に入れたことを、守らなくては生きられないのだと。
泣きそうな顔で、自分は本当に空っぽなのかと問うテンを見て、ケイタは誓ったのだ。テンが自分で自分を決められるように、助けようと。彼女がひとりで歩けるように、彼女の歩みを助けたいと思った。
テンは選んだ。ケイタの、《黒はね》のお弁当を食べる役、それがテンの選んだ役目だった。だからケイタは毎日、テンにお弁当を作っている。自分が何になるか自分で決めてもよいのだと、そう言った時、テンが最初に選んだ役だから。
次に、テンがテン自身を決めるのならば、その時も自分はテンと共にあろう。テンがいつか、ケイタを必要としなくなるまで、側で彼女を助ける。
「きれいですねー」
夕暮れ空を眺めて、ミオが言う。海浜公園から見える夕暮れは、いつもいつもきれいだ。
週に二度のミオとのデート。どうやらミオは、夕空を眺めるのが好きらしく、観覧車だったり高台だったり滑り台の上だったり、場所は色々だけれど、よく空が綺麗だと言っては足を止めて眺めた。
ゆるい風が、ミオの髪を撫でる。水色の長い髪が、サラサラと揺れる。
「先輩、最近お昼に来ないですね」
ケイタはぽつんとそんなことを言う。ミオと出会ってから、テンとケイタの昼食に彼女は欠かさず顔を出していた。けれどケイタがミトと――ミオの双子の「兄」であるミトと決闘して、ミオを守るに相応しいと認められた日から、ミオはあまり昼食に顔を出さなくなってしまった。ミオとしては、放課後のデートでケイタと会えるのだから、昼食まで毎回来る必要はなくなったと言うことなのだろうが。
ケイタが見上げると、彼女はくすくすと笑った。
「寂しいですか?」
悪戯っぽい表情で、ケイタを見返す。ケイタがなんと返せばいいか戸惑っていると、ミオはまた笑った。空を見ながら言う。
「昼休みに一緒にいないと、ミノリがなんだかしょんぼりしてしまうんです」
ミノリというのは、生徒会長の名だ。彼女と会長とは、中等生の頃からの親友なのだという。
「それに私がミノリを放っておくと、調子に乗る人がいますから」
ニヤリと、不敵な笑みを見せる。その笑みがあまりにも、「ミオ」に相応しくなくて、ケイタは背筋がゾッとした。
彼女は――学園の名簿に乗っ取るなら、万里谷ミトは、とにかくややこしい人だった。普段は男子生徒の制服に身を包み、ミトと名乗って男子のように振る舞う。だけれど、時々――主にケイタの前に姿を現す時、女子の制服でミオと名乗り、ひどく乙女っぽい仕草で本当に別人のようになってしまうのだ。
優しくて笑顔が似合うミオを、ケイタは好きだったけれど、ミトの方は時にとても冷たい表情するのだ。氷みたいな目つきのミトを前にすると、こちらの体温が奪われるような気さえする。ケイタは時折見せるそんな「ミト」の冷たさが苦手だった。
「ケイタさんとは、こうして会えますし……」
ニコリと「ミオ」の暖かい笑顔に戻る。ケイタは胸をなで下ろした。
「テンちゃんとはいつも夕食を一緒に食べてますしね」
ケイタは初めて聞く話に、少し驚いた。
「そうなんですか?」
「ええ。私たち寮で一緒ですから。仲良しなんですよ」
ニコニコと笑うミオ。そういえば、二人とも学園の寮生だった。
ケイタと三人でいる時の姿はよく知っているけれど、彼女たち二人だけの時はどんな話をするのだろう? 想像がつかなくて、ケイタはポカンとしてしまった。
夕食の時。ミトは食堂でテンを見つけると声をかけた。
「テンちゃん、隣いいですか?」
テンはぼんやりと顔を上げて、こちらを確認すると、どうぞと言った。どうも考え事をしていたらしく、反応が鈍い。頬にはご飯粒がついている。ミトが手を伸ばしてそれをとると、テンは「あっ」と声をあげた。今日のテンはすっかり昼行灯だ。
「水色先輩、最近、お昼来ないな」
テンがぽつんと言う。その言い方が、なんとなくデートの時のケイタと似ていて、ミトは少し笑ってしまった。《水色先輩》というのは、テンがミトを呼ぶ時の呼称だった。ケイタの話では、テンは変なあだ名をつけるのがくせらしい。
「すいません、お邪魔かなって思ったんです。せっかくテンちゃんがケイタ君と二人っきりなのにって」
自分は後から来たのに、二人の間に割って入ってしまった。そう思ったから、少し遠慮していたのだ。ミトは、ケイタのことは好きだし、テンのことも好きだ。だから二人が二人の時間を大切にするなら、邪魔したくない。
「あたし、先輩のことお邪魔だなんて思わないよ」
「優しいですね、テンちゃん」
笑ってみせる。テンははぐらかされたのが気にくわなかったのか、むうと唸った。
「ねぇ、先輩……先輩はさ、なんで男の子みたいにするの?」
今度は少し、深刻そうな響きで、テンが問う。ミトはしばし思案して、答えた。
「忘れないため、です」
箸とお茶碗を置いて、ため息をつく。忘れないため、そう、忘れないため……。
「大切な人がいました。だけど私は、その人を失ってしまった。忘れたくなかった。忘れないために――あんな恰好をした。そうすることでしか、私はあの子を忘れないように出来なかったんです」
言ってまた、息を吐いた。
「ケイタ君は優しいから……私は彼を利用しているんです。自分が失ってしまった人を、忘れないために」
胸の底の方が、少し痛くなる気がした。自分の望みを満たしてくれる人物は、あまりいなかった。この人こそはと思って、結局上手く行かなくて、傷つけた。だけど忘れたくなかったのだ……。
「そうだね。黒はねは、優しいけど」
テンは言う。
「でも、言ってたよ、黒はねは誰かを助けたいんだって。だからきっと、先輩が黒はねと一緒にいて、先輩が救われるなら、きっと黒はねはそれが嬉しいんだと思う」
テンは、いつも少し言葉が足りない。それでもなんとなく、言いたいことは分かった。自分がただ、優しく愚かなケイタを利用するのではなく。ケイタはケイタで願いがあって、それを叶えるために、自分と付き合っているのだと。
「あたし思うんだ。だからきっと、あたしも、先輩も、ちゃんと救われてあげなきゃいけないんだって。黒はねのために」
あ、と思う。なんということだろう、自分が救われることが、彼のためになるなんて。
「ねぇ、でも、救われるってどういうことかなって思う。黒はねと一緒にいると、楽しいし安心する。あたし水色先輩のことも大好きだよ。三人で一緒にご飯食べるの、大好き。まるで、昔と同じみたいだったから……。だけどきっと、それだけじゃダメなんだって思った。ホントにあたしが救われるには――黒はねがちゃんと最後まであたしを救ってくれるには、きっとそれだけじゃダメなんだと思う」
テンはひとり、うん、と頷く。ミトにはそれがテンの考え事のまとめのように思えた。
「あたしにも、大切な人がいたんだ。だけど、傷つけて、失ってしまった。とても大切だったのに。その時のことは、もう、取り戻せない。だけど、今でもその子があたしのことで悔しい思いをしてるなら、謝りたいんだ」
テンの瞳には決心のような強さがある。ミトは受け止めて、テンの強さに敵わなくて、唇を噛んだ。忘れないため――そう言って、過去にすがって今をめちゃくちゃにしている自分。そんな自分じゃ、前を向いたテンに、釣り合わない。
「……先輩、お願いがある」
うって変わって、小さな声で、テンは言った。聞こう、そう思った。テンの輝くような前向きに、自分も力添えしたい。素直にそう感じた。だからミトはテンの次の言葉を待った。
「あたし、弓野クオに会いたい」
放課後。ケイタはテンの様子を、会長に報告するため生徒会室に来ていた。
テンを救いたいと願うのは、ケイタ自身の願いでもあったけれど、生徒会の仕事でもあった。ケイタは会長の勅令を受けて、テンを救う任務に就いている。だからテンの様子を、定期的に会長に報告しなくてはならない。
ケイタがテンの話を会長にしていると、生徒会室の扉がノックされ、失礼しますという声と共に開いた。現れたのは、洋弓部のオレンジ頭の男子生徒だった。
「あら、 三ツ矢ユイ君じゃない。ケイタ君、ちょっと待っててね」
ケイタは会長に示されたはじっこの椅子で待つことにした。
「これ、みんな目を通したので、返しに来ました」
オレンジ頭の生徒は、会長に紙の束を差し出している。きっと、この前あった洋弓部のイベントのアンケートか何かなのだろう。
「ご苦労さま。新入部員が来るといいわね」
「そうですね」
男子生徒はぶっきらぼうに答える。彼にとっては新入部員などどうでもいいのかも知れない。ケイタは観客を省みず、黙々と矢を射ていた彼の後ろ姿を思い出した。
失礼しました、と挨拶して、彼は生徒会室を出ていった。ケイタはまた生徒会長の正面に移動しながら、ぽつと言った。
「そういえばテンさん、あの人のことずっと見ていました。的も矢も見ないで、ずっと」
「……どういうことかしら……?」
生徒会長が視線を鋭くする。しばし思案して、会長はノートパソコンに向かって作業しているセイジに、視線を送った。セイジは視線だけで、会長の意を汲んで、なにやら新しい作業に取りかかっている。
「いいわ、ケイタ君。また何かテンちゃんの様子で変わったことがあったら教えてね」
「はい」
ケイタはセイジが何を調べているのか気になったが、会長が言わないのだ。気にしても仕方ないと断じて、生徒会室を出ることにした。
扉を開けると目の前にさっきの男子生徒がいた。彼はわっと小さく悲鳴をあげると、逃げるように廊下を駆けていった。ハチマキみたいな包帯が、シッポのようになびいて、遠くなる。
「どうしたの?」
会長が後ろから問うてくる。
「あ、いえ……さっきの人が……」
あははと、ため息のように会長が笑う。
「これは――聞かれちゃったかもね」
廊下を走る。生徒会室の周りは人気がなく、咎める者がないのは幸いだった。
扉の向こうでテンの名を聞いて、どうしても足が動かなくなった。盗み聞きなんて――それも天下の生徒会相手に――、気が引けたけれど、それでも聞きたいと思った。テンが、どうしたって――?
そんな風にしていたら、扉が開いて間抜けにも見つかってしまった。さっきまで全然動かなかった足は、今度は脱兎のごとき素早さを見せた。自分でもわけが分からなくって、三ツ矢ユイは駆けていった。
――次に私の目の前に現れてみろ、こんなもんじゃ済まない。
血を吐きながら、見上げて、この目に映した彼女。逆光の所為で、表情がよく見えない。だけど分かる、テンの瞳は虚ろで、自分はそれに言いしれぬ恐れを抱いた。痛い、痛い……なんでこんなことになったのか。ただ、触れたかっただけなのに。恋しくて、愛しくて、抱きしめたいと思った。テンだって、嫌だとは言わなかったじゃないか――それどころか、言ったじゃないか、好きだって……一緒にいる時間が大好きだって……。
保健室で目覚めた時、傍らにいてくれたのは、テンじゃなかった。いつも自分とテンのために手料理を作ってくれていた――兄と慕っていた、人。約束してくれた。テンと、仲直りするまで、彼もまたテンには会わないと。俺はお前の味方だと、そう言った。
だけど、仲直りする日なんて、ずっと、ずっと、来なかった。
洋弓場に戻り、アンケートは無事に返してきたと部長に報告する。その後は部活に合流すればいいのだが、どうにもそんな気分にならない。今やっても、きっと矢は的を射ない……。気分が悪いので帰ります、と告げると、部長は詮索もせず簡単に帰らせてくれた。部長は自分の飼い方をよく知っている……そう思う。そうでなければ、部活なんて続かない。
とぼとぼと、噴水広場を歩く。正門と校舎の間にあるこの広場は広く、朝の始業チャイムが鳴る頃は、遅刻しそうな生徒が猛ダッシュする。このラストスパートの辛さはユイもよく知っていた。広場がなくて、校門からすぐ校舎ならいいのに――そう思う生徒は少なくないはずだ。
毎日洋弓場で下校時間まで粘るユイは、この時間の日の位置に慣れない。ブツブツとした気分に拍車がかかる。なくなればいい広場、まだ高い太陽、今日は気分が悪い……。
顔を上げた。そして見てはならないものを見たと、反射的に身体が凍った。淡い桃色の波打ち、そして小さな白い――。喉が詰まったようになって、ユイは苦しくなった。
駆けていく、駆けていくテン。それは後ろ姿だった。ピンク色のツインテールが踊っている。中等部の昇降口から、正門へ一直線に。大丈夫、洋弓場の小道からやってきたユイに、彼女は気付いていない。
もしも、もしもテンの視界の中に、自分が入ったなら……「次はこんなもんじゃ済まない」。恐くて何も考えられなかった。学園内でテンを見つけたら、いつもすぐに離れたし、それが無理なら隠れた。テンは気付いているのかいないのか、ユイに近づくことはなかった。
息を吸う。大丈夫だ。もう少しここで、立ち止まっていれば、テンは行ってしまうだろう。テンが完全に立ち去った後、自分は正門を出て帰ればいい。大丈夫、大丈夫だ――。
そして見る。テンは前方を行く男子生徒の肩を叩いた。男子生徒が驚いて振り向く。あっ――と、ユイはまた息が出来なくなった。それは先ほど、生徒会室にいた少年。黒い髪に、まだ寒くもないのに灰青のマフラーをつけている。少年が微笑む、優しく。テンと一緒に、肩を並べて正門を出ていく。
(待てよ、テン)
喉の奥で、声が張り付いている。音にならない言葉が、ぐらぐらと頭を揺らす。
(お前は寮生だろう……なんで、寮はそっちじゃない……どうして、そいつと、一緒に行くんだ?)
――テンちゃんの様子で変わったことがあったら教えてね。
ドア越しに聞いた、生徒会長のセリフ。思い出す、会長の底意の知れない不気味な笑みを。
(テンは――テンは、監視されてる、生徒会に。停学をくらうような問題児だからか? 分からない。だけど、だけどテン、そいつは、今隣にいるヤツは――生徒会の犬で……お前のことを、生徒会長に言いつけてて……)
ユイはその場に膝をついた。胸に何かこみ上げてくる。
(なんで、どうして、俺はダメで、その男はいいんだ……なんで)
ケーキを前にしたテンは、ウキウキと嬉しそうで、見ているこっちまでなんだか胸がぽかぽかとした。
学園の敷地からほど近い、ケーキ屋。イートインのための机が数個用意してあり、そのうちのひとつに、ケイタとテンは向かい合って座っていた。
放課後、二人でこの店に来ることは何度かあった。店員もテンの顔を覚えているらしく、今日も特別大きな一切れを選んでお皿にのせてくれた。
「いただきます!」
元気よく声をあげて、テンはショートケーキにフォークを突き刺した。ほおばって、至福の表情を見せる。
ケイタも自分の前にあるアップルパイに手をつける。テンと一緒の時は、食べられるのは半分くらいだ。ケイタが半分食べ終わる頃、テンは自分の分を食べ終わっていて、ケイタの残り半分を物欲しそうな顔で眺めるのだ。
ケイタはテンに自分のケーキを譲るのが好きだった。ケーキを食べるテンはとびきり幸せそうで、かわいくて、そんなテンを眺めるのがケイタはたまらなく嬉しかった。テンのそんな表情を見られるようになるまで、ケイタは相当な時間をテンとともに過ごさなくてはならなかったから。
(僕はテンさんを救えただろうか――)
のけておいたイチゴにかぶりつくテン。テンと一緒に食事をするようになった最初の頃、テンの表情は今よりずっと虚ろだった。外界を拒むような何も受け付けないテンの瞳を、今でも思い出せる。
その頃と比べれば、テンは明るくなった。神楽坂が「元気になった」と評したのも、分かる。だけど。
(それだけで、いいんだろうか)
ケイタは軽く頭を振った。今は、これが精一杯だ。テンが望むなら、ケイタはもっと色々なことが出来るだろう。話を聞くことも出来るし、テンが誰かと決着をつけたいと思うなら、それに立ち会うことだって出来るだろう。もし寂しいのなら、そばにいられる。
けれどそれは、テンが望んで初めて出来ることなのだ。だから、そうだ、ケイタは。
(今は待つだけ。テンさんの望みを、待つだけ)
テンの皿に残るショートケーキが、残り少なくなっているのを見て、ケイタは慌てた。アップルパイは好物なのだ、テンに譲るとしてももう少しは食べておきたい。ケイタはフォークを握り直すと、自分の皿に向かった。
ケーキ屋からの帰り道。
日が傾いている。夕日と言うにはまだ早いが、少しだけオレンジがかった光が、テンの背中を照らしている。
「明日ね」
テンが言う。
「明日、水色先輩に頼んだんだ」
一体何を頼んだのだろうと思いながら、ケイタはテンの言葉を待った。
「謝ろうと思って」
「……」
「会わせて欲しいって、頼んだんだ」
誰にだろう……、ケイタには分からない。こういう時のテンから何か聞き出そうとするのは、なんだか違う気がした。テンが言いたいなら、言うだろう。だから自分はただテンの言葉を聞けばいい。
「自分が何になるか、自分で決めていいって、黒はねが教えてくれたから」
薄暗い体育館で、テンの手を取った。覚えている。テンは空っぽじゃない。だから――
「だから私は、自分を決められるよ、明日」
テンが振り向く。ケイタはテンが泣き出しそうだと感じた。でも違うのだ、テンは微笑んでいた。
第4話 その2へつづく