第2話 ふたりの灯火 その2
防具を着けてない人を竹刀で打ってはいけません。
次の日のお昼に、約束通りミオがやってきた。お昼の日差しの中にいると、本当に彼女の周りだけ光が強いのではないかと錯覚するくらい、彼女は輝いて見えた。それは以前、カフェテリアで見た彼女の「兄」よりも、模擬喫茶での彼女自身よりも、いっそうキラキラとしていた。これが恋の輝きなんだろうかとケイタは思った。
「こんにちは! ケイタさん、テンちゃん」
芝生の上に座っていたケイタの横に、ミオが腰を下ろす。
「《水色先輩》」
テンが言う。ミオはきょとんとした。先輩と呼ばれるべき人物は、この場では上級生のミオだけだ。水色という言葉も、ミオの髪の色を示していると思える。しかしテンが突然言うので、それがなんなのかミオには分からなかったようだ。
「ミオ先輩、テンさんは妙なあだ名をつける癖があるんです。しかも一回決まったら変更不可です」
「そうなんですか? まあ」
「あ、あの、悪く思わないであげて下さい」
「とんでもないです! 光栄だわ、テンちゃん」
ミオが微笑むと、テンは、ん、と小さく返事をした。テンの表情は読み取りにくいのだが、背中の白い羽根はパタパタと元気よく動いていた。テンはミオのことを案外気に入っているのかも知れない。
「水色先輩も、黒はねのお弁当食べるのか?」
「《黒はね》?」
ミオはまた、聞き慣れない単語にきょとんとする。
「僕のことです」
「えっ……じゃあ、ケイタさんは自分でお弁当を作るんですか?」
「ええ……毎日です。テンさんの分も作ってるんです」
「熱心なんですね、ケイタさん。テンちゃんったらうらやましいわ」
ミオはくすくすとテンに笑いかけた。テンはミオを見上げて、言う。
「黒はねのお弁当はだんだん美味しくなってきたよ、水色先輩」
だんだん、という言葉にケイタは苦笑した。確かにケイタは料理はそれほど得意ではない。初めてテンに食べさせた弁当は、自分用のやっつけだったし……。
テンはケイタのやたらと大きいお弁当箱を開いて、三人の真ん中においた。テンがこんな風にするのは本当に珍しいとケイタは思った。いつもは自分一人でがっつくのだが。これが女の子同士の待遇と、男子への待遇の違いなんだろうか……。
「ありがとう、テンちゃん。私も自分でお弁当作ってきたから、私のも一緒に食べましょう」
ミオは小さな可愛らしいお弁当箱を取り出した。ふたを開けると、中も色とりどりで可愛らしい。
「なぁ、いいのか? これ食べてもいいのか?」
テンが箸をくわえてミオの弁当を狙っている。
「どうぞ」
ミオがニッコリ笑って弁当を差し出した。
数分の後には、ミオのニッコリ笑いは、ほんのり困った笑いに変わっていた。
何日か、三人の昼食が続いた。ミオはずっとニコニコと穏やかで、やっぱりキラキラ輝いていた。いつもケイタの隣に座って、ああでもないこうでもないと色々な話を聞かせてくれた。
ミオはよく、双子の兄・ミトの話をした。小さい頃から一緒に遊んで、とても仲良しだったと。中等部に上がるまでは手を繋いで登下校したのだとか。初等部の六年生だった頃、下校中に交通事故にあって、その時もミトがミオを庇って助けてくれたのだという。
テンは他の話題の時はまだしも聞いているそぶりを見せたが、ミトの話となると、相槌を全部ケイタに任せっきりにした。ケイタは双子の兄妹愛があまりに出来すぎていて、感心するのに疲れてしまった。それでもミオはミトの話をした。
「約束したんです」
「約束?」
「はい。昔、兄と一緒に海辺に行った時、灯台の灯りを見たんです」
――ねぇ、ミト。灯火が何故あるか知っている? そこに灯火をともした人がいることを知らせるため。灯火を見つけてくれた人が、灯火をともした人と出会うため。そして友達になるため。
――じゃあ、ねぇ、ミオ。僕たちも灯火をともそう? 僕らがここで二人でずっといることを、誰かに知らせるため。そして友達になってもらうために。
忘れないために。僕らが二人だということを忘れないために……。
「それが、約束?」
「そうです」
ミオはまたニッコリと笑った。
「私たちは、ずっと一緒です。ミトはいつもミオを護ってくれます。どんなときも――どんなに離れても」
ミオの遠い視線が、淡い。ケイタは何も言えなかった。
「そう、この髪も――灯火のひとつなんです」
ミオは長い髪を指で梳いてみせた。ずっと切らないまま、二人とも同じだけ伸ばしているのだという。
ミトの話をするミオは本当に嬉しそうに笑うのだ。そしてケイタは、ミオが微笑むたび、彼女の傷が深くなるのを見ていた。
放課後、旧体育館、舞台裏。
ここの小窓からは、ケイタの好きな夕日が見える。けれど今は、放置されほこりの積もった丸椅子に腰掛けて、見えるのは薄暗くカビ臭い舞台袖だけだった。
いつも側にいる人を、忘れないように気をつける必要などあるのだろうか……。忘れたくない人というのは、意識してとどめておかなくては忘れてしまう人だ。時や距離が遠く離れてしまった人――遠い友達、死んだ家族――もう二度と、会えない人。それらを忘れないために、しるしを持つのならば、分かる。
けれど、彼女がいつも側にいると言う、彼女の兄を忘れないために、どうして灯火が必要なのか……。
ケイタはブレザーの内ポケットから勅令状を取り出した。小さく折りたたまれたそれを、丁寧に広げる。その紙には「万里谷ミト(ミオ)を救うこと」と書いてある。ケイタはふむと息を吐いた。
勅令状をもらった時は、その文面にさして疑問は持たなかった。会長が口答で告げた命令との違いも特に気にならなかった。
万里谷ミトと万里谷ミオを二人とも救え、という意味だと思ったのだ。傷があるのはミトも同じなのだから、出来ることならミトも救いたい――ミトがそれを望むなら。そう思っていた。
(だけど……これ、併記じゃなくてカッコ書きなんだ……)
もし二人の人間を救うことを書類に書くならば、「万里谷ミト及び万里谷ミオ」とでも書けばいいのである。「ミト」にカッコのついた「(ミオ)」が加わるのは……。
(…………)
ぐるぐると、頭の中で黒い渦が巻いている。よく似た――ほとんど同じ、傷さえも同じ――双子の兄妹。仲良しの兄妹――二人の約束、約束と偶然……、交通事故……片方が片方を庇って……、灯火……二度と会えない人を忘れないための……。
(…………ミオ先輩とミト先輩が、一緒にいるところは、一度も見ていない)
ケイタは長く息を吐いた。
自分は、賢いとかするどいとか、そういうタイプの人間じゃないことは知っていた。言い換えれば、それが分かるくらいには賢いと言うことだ。だから自分の考えがとんだ見当違いである可能性は、残しておく。
それに自分のするべきことは、彼女らを救うこと。そしてそのためには、彼女たちがケイタにそれを望まなければならない。だから、知ることも、思い至ることも、それは望まれてそうなればいい。
ミオは、言ったのだ。誰か「二人」に気付いた人と、友達になってもらうために、灯火はあるのだと。ならば自分はその誰かになろう。「二人」と友達になろう……。
ケイタは立ち上がり、舞台裏から外へ続く扉の小さな小窓を覗いた。今日も夕日が見える。水没した旧市街。水面には夕日の道が見えた。
家路に長く伸びる影……お父さん、お母さん。遠く離れてしまった人……もう二度と会えない――忘れたくない、相手。
頬に感じた水滴を乱雑に手の甲でぬぐう。なんとなく頭が痛かった。
いつものように三人での昼食。
「水色先輩、お昼はダメだけど、放課後なら、黒はねは暇だよ」
テンがそんなことを言った。
ケイタはテンがどういうつもりで言ったのか分からなくて、ポカンとしてしまった。確かに放課後は暇だが……。
「まあ……じゃあ……えっと……」
ミオは突然もじもじして、頬を染めている。ケイタはだんだん状況が分かってきた。
つまりミオはケイタと二人っきりになりたいのだ。けれどテンがいる手前、あまり思い切ったことはしないでいたらしい。そもそもこの昼食にミオが顔を出したのも、ケイタと親しくなるのと同時に、テンがどう出るのか見極めるためだったのかも知れない。テンのいないところでケイタと親しくなれば、テンに恨まれる可能性があり、それを避けるためにもあえてテンと同席した……。
ケイタは今更ながら女の子同士の仲むつまじい交流が、複雑な思惑の上にあったのだと思って胃が痛くなる気がした。
さて、テンの了承も得たのだから、今度はミオがケイタを誘う段だ。突然のことで、ミオはまだどこへどう誘うか思い至らないらしい。もじもじと指を遊ばせるばかりだ。
「じゃ、じゃあ、ケイタさん……明日の放課後、もしお暇なら、わ、わたっ……」
ミオは焦って声がうわずっている。一度深呼吸してから、持ち直して、言った。
「……私と、デートしてくれませんか?」
ばちっと視線を合わせてくる。頬は赤くて、目は少し潤んでいる。
ケイタはミオの乙女っぷりに面食らって、すぐに声を出せなかった。
「……えっと、ええ、構いません」
やっと言って、後から微笑んでみせた。
「よかったぁ……断られたらどうしようかと……」
ミオは胸をなで下ろしている。テンはよかったな、などと言ってミオの背中をポンポンと叩いていた。
これで明日は二人きりだ。恋人ごっこも盛り上がって、ミオは傷の痛みを紛らわすことが出来る……だろうか。
とにかく彼女が望むのだ。ケイタは無論付き合う。そうでなくてはならない。
(だって僕は救世主だから)
更衣室へ続く廊下を歩きながら、彼女は明日のことを考えていた。明日は忙しくなる。待ち合わせの時間をちゃんと考えて決めなくてはならない。それに、行き先も。海浜公園に、確か観覧車があった。そのへんが無難でいいだろう。
相手は中等生の男の子だ。高等生の彼女から見たら全然子ども。だけど確かに可愛らしいところはある。生意気な風ではないし、言葉遣いも丁寧だ。ミノリが思い入れているだけのことはあると思った。
それにしても本人は自覚してないようだが、彼は人気者だ。ミノリに……それにあのテンという子も、彼の側を離れないではないか。
(……それを言えば私も、か)
彼女は目的の部屋にたどり着き、カバンからキーを出すと解錠して中へ入った。
更衣室……そう呼んでいるが、ここはもうほとんど彼女の私室だった。ロッカーが数台に、シャワールームもある。簡素な机と椅子は、学園の近くの家具屋で安売りしていたものだ。この更衣室の鍵を持っているのは彼女だけで、当然ここを使うのも彼女だけだった。
学園には、特権を持つ生徒が何人かいたが、彼女もその一人で、この部屋こそが学園の認めた特権だった。どういう基準でそれが決められるのかは、よく分からない。けれど彼女が中等生になった年、学園は彼女に更衣室のキーを贈ったのだ。
更衣室に入り、中から鍵を閉めると、彼女はふうと息を吐いた。カバンは机の上に放って、ブレザーは脱いで乱暴に椅子にかける。ブラウスのボタンを外し、背中に手を回してブラのホックも外した。どうにもこのブラというのは慣れない。胸が締め付けられるようだし、肩が凝る。ここ最近、立て続けに女子の制服を着て、疲れてしまった。
彼女は椅子に腰掛けて、カバンを枕に机の上に伏した。目を閉じて見えたのは、夕闇の灯台だった。やまない潮騒、繋いだ手は幼くて……。護るから、必ず護るから。言ったのだ。約束だった。命に代えても護ると――そして事実、護ったのだ。ミトはミオを護ったのだ――。
灯火をともそう、ふたりが「二人」であることを忘れないために。そして、「二人」を見つけてくれた誰かと友達になってもらうために……。
ミトとミオはずっと一緒。ミトはずっと、ミオを護り続ける。ミトはミオを護る、ずっと、例え――例え、どんなに離れても。死がふたりを分けたとしても――。
数分の後、彼女は気合いを入れて立ち上がると、ロッカーを開き、ワイシャツを取り出し、着替えを始めた。
放課後の昇降口。
自身の下駄箱へと向かうケイタは、ちょうどその前に、一人の男子生徒がいるのを見つけた。ミトだ。下駄箱に竹刀を立てかけ、自分も下駄箱に寄りかかって腕を組んでいる。
(……待ち伏せ、か。デートの約束のすぐ後にこれは……)
ケイタはカバンのヒモを握る手に力を込めた。
ミトはやってきたケイタに気付き、顔をこちらに向ける。
「こんにちは、北見ケイタ君」
そのまなざしが、初めてカフェテリアで出会った時と全く違うことに、ケイタは戦慄した。見る者の内臓を冷やす、針のような視線。
「ずいぶんと、妹が仲良くさせてもらっているようですね。僕からもお礼を言います」
ミトの声は、落ち着きの中に、あの柔らかさではなく、尖りが見え隠れしていた。
「……いえ」
ケイタは無意識に自分の首のあたりに手を伸ばした。ふわとした手触りを得て、少しだけ気持ちが落ち着く。それはいつか父親が買い与えたマフラーだった。ふわふわとした手触りはどんな時もケイタを慰める。だからケイタはいつもこのマフラーをつけていた。
「少し聞いてくれるかな」
問でありながら、ミトの有無を言わさぬ様に、ケイタは息を呑んだ。
「ケイタ君、僕はね……妹には幸せになって欲しいんです。とても大切な妹ですから」
ミトはケイタの様を見て、冷たい視線のまま、言葉を続ける。
「僕は彼女を護るためならなんだってしてきました。彼女が傷つかないようにずっと、側にいて護ってきました。だけど僕は彼女の『兄』であって、生涯を共にする伴侶じゃない。兄妹はいつか離れる時が来る。僕は彼女を一生護れる訳ではない。だから僕は、妹の将来のために僕が出来ることをしようと思うんです。それはね、ケイタ君、今まで僕が護ってきたように、妹を護ることが出来る人に彼女を託すということ――」
ミトは組んだ腕をほどき、竹刀を手に取ると、剣先をケイタに差し向けて言った。
「決闘です。あなたが妹に相応しいか、この僕が見極めましょう。受けてくれますね、北見ケイタ君?」
鋭い瞳、そして薄く殺気立つような微笑み。
ケイタはマフラーをギュッと握り、それらを全て受け止めた。
「分かりました。受けて立ちます」
震える喉からなんとか声を絞り出す。
「では、明日の放課後、旧体育館で待っています」
ミトが立ち去り、その姿が完全に見えなくなるまで、ケイタは歩き出すことも出来なかった。
夕方頃、ケイタの自宅。
久々に入ってみた地下物置は、ものすごいほこりだった。歩けば歩くほど、むせかえるようにほこりが舞い、ケイタは口と鼻を手で覆いながら進んだ。行けども行けども目当てのものは見つからず、とりあえずマスクだけでもつけてからにしようと、いったん外へ出た。
ほこりまみれのケイタを迎えてくれたのは、週に何度かやってくるお手伝いの青年だった。どうやらケイタが地下に行っている間に家に上がったらしい。
「お留守かと思ったら……すごいほこりですね、ケイタ君」
「城戸さん……」
旧知の相手を瞳に収めて、ケイタは思わず涙をこぼしそうになった。それくらい怖くて心細かったのだと、今更分かる。
「大丈夫ですか?」
城戸はまなざしも声も、温かい。城戸はいつだってそうだった。両親と離れてひとりでこの家に住むケイタにとっては、城戸だけが家族のように心を許せる相手だった。
「はい……大丈夫です」
思わず優しい城戸の胸に飛び込みたくなるのを堪えていると、彼はケイタの背中をそっと撫でてくれた。
「お茶でも煎れましょう。ほこりも払って。探し物なら僕がしますから、ね?」
城戸の煎れてくれたお茶は、甘い香りがして、いつの間にか冷え切っていた身体にしみた。ケイタは城戸に事情を話して、城戸はそれを不思議そうに聞いていた。
「それで、決闘するのに竹刀を探していたんですか?」
「ええ、そうです……あの倉庫にありますか?」
「あると思いますよ。伯父さんは使いもしないのに色んな道具を持っていますからねぇ。竹刀なら確か二・三本あったと思います。木刀もあったかな」
ケイタは安堵する。城戸が言うなら確かだ。城戸は実際に暮らしているケイタよりも、この家の中のことをよく知っていた。
「でもケイタ君……大丈夫なんでしょうか、決闘なんて」
城戸はケイタを見て不安そうな顔をする。確かにケイタは同年代の子と比べれば、背も低いし体格も悪かった。色は白く、少し長すぎる髪のせいで顔は細く見える。運動は得意ではないし、剣道は授業でもまだやっていない。それが突然、決闘なんて言うのだから、心配されるのは当たり前だ。それでも。
「……多分、大丈夫だと、思います」
ケイタは、ミトの冷気にすっかりあてられていた自分を捨てて、思った。
これは――ごっこ遊びなのだ。騎士ごっこ……とでも言えばいいのか。そうなのだ。この決闘は、真に実力を試される決闘ではない。騎士ごっこのお姫様であるミオが、ケイタという新しい騎士と、ミトという今までの騎士……どちらを選ぶかなのだ。
(どちらが勝つかは僕でもミト先輩でもなく――ミオ先輩が決める)
ミオは、探しているのだ、新しいナイトを。だからケイタに近づいたのだ。ミオは言った。灯火は、そこに灯火をともした人がいることを知らせるためにあるのだと。灯火をともした「二人」は、誰かに出会って、そして、友達になってもらうために、灯火を焚いているのだと。
やれることはやった。今まで真摯にミオの話に耳を傾け、「二人」の秘密に疑問を抱いてもそれを表に出さずにきたのだ。
だから明日は、ただ立っていればそれでいい。ミオが望むならケイタは勝つだろう。望まないなら――。
(なんだっていい。茶番だって構わない。それで彼女が救われるなら、僕はどんな揉みくちゃになったって、平気なんだ)
次の日の昼、ミオはケイタにデートの行き先と待ち合わせ時間を告げた。指定された時間は、授業が終わってから二時間以上も後だった。つまり決闘が先で、その後に――勝つことが出来れば――デート、ということになる。計画的だ。そう思ったけれど、ケイタはそのことは何も言わず、分かりましたとだけ返した。
その日最後の授業が終わって、ケイタは教室の後ろに立てかけおいた竹刀を手に取った。カバンを持っていくべきかと思案していると、ひょこりとテンが側へやってきた。
「黒はね、この後、水色先輩と」
テンは、決闘のことかデートのことか、その先を言わなかった。
「えぇ、はい……そうです」
ケイタは少し緊張していて、視線をあちこちに迷わせてしまい、テンをはっきり見ることが出来なかった。
「大丈夫だよ……きっと、黒はねなら」
テンはそれだけ告げると、パタパタと自分の机に戻っていき、カバンを取ってそのまま帰ってしまった。
残されたケイタは、薄笑いを浮かべてしまう。テンは、何を考えているのか、どこまでを察しているのか、いつも分からない。しかし、どこまでかは分からないけれど、確かにテンはケイタの状況を知っていて、励ましてくれたのだ。
大丈夫、黒はねなら。――黒はねなら。
(テンさん、僕はまだあなたをほとんど救えてない……それでも、僕を認めてくれるんですね)
不甲斐なくて唇を噛む。だけど嬉しかった。
放課後。旧体育館。
ミトは体育館のちょうど真ん中あたりで、竹刀を持って立っていた。
ケイタは入り口に立って、自分の竹刀を袋から出した。羽織っていたブレザーをその辺に放る。竹刀を持って、ミトの側へと歩いていく。
「よく来ましたね、ケイタ君。昨日はあんなに怯えていたのに」
ミトの微笑みは雹のように冷たくて鋭い。
「僕は、逃げも隠れもしません」
ケイタは竹刀の柄をぐっと握りこんだ。昨日、城戸が少しだけ持ち方を教えてくれたのだ。ミトを見上げて、心を強くする。
「勝負です、先輩。あなたに勝ってミオさんとデートに行きます」
「いいでしょう……それでは、始めましょうか」
ミトの打ち込みは素早くて、ケイタはほとんど目で捉えることは出来なかった。顔の前に竹刀を掲げて、頭を守るだけで精一杯だった。何度も竹刀に打ち付けられて、柄を握っているのも辛い。その上ミトの竹刀がケイタの肩や頬をかする。泣きそうになりながら、ケイタは少しずつ後退した。
「あなたの力はその程度ですか? どうしたんです!」
ミトが言葉を発するが、ケイタは挑発に奮起する余裕すらなかった。ケイタに出来たのは、諦めないことだけで、竹刀だけは決して手放すまいと、腕に力を込める。
「これじゃあまるで、僕がいじめているみたいじゃないですかッ」
ミトはいったん後ろへ飛び、今度は加速をつけて打ち込んできた。その一撃を食らったならば、耐えられないだろうと背筋が寒くなる。ケイタは初めて横へ身をひねり、ミトの一撃をかわした。いや、かわしたというより、無様にバランスを崩しただけだった。そのまま肩から床に倒れる。
床に打ち付けられた痛みに、短く声が漏れた。竹刀を握るのに必死で、受け身がとれなかったのだ。竹刀を少し放して、立ち上がろうとする。
ケイタが顔を上げると、ミトがこちらへ獲物を突きつけて、静かな視線を向けていた。
「ケイタ君、あなたには失望しました……」
今、ミトが竹刀を一振りすれば、ケイタの額を割ることも出来るだろう。ケイタは動くことも出来ず、ミトを見上げる。
(……負け? 僕の負け?)
頭の中を思念が駆け抜けていく。
(いいの? それでいいの、先輩……?)
自分は、気付いた、「二人」の灯火に。自分は、自分こそが、なれる、「二人」の友達に。ふたりが「二人」であることを、自分は、認める――。
ミトの瞳の中に、ミオを探して、ケイタは見上げた。望んでくれ、どうか。憐れんでくれなくてもいい。だけどどうか望んで。彼女が望んでくれさえすれば、自分は、きっと……。
さっき、ミトは、なんと言った? なんと……?
――あなたには失望しました。
失望、そう言った、確かにそう言った。ミトの冷たい瞳、透けて見えたのは、ミオの悲しみだった。
ならばやはり、自分は、望まれていたのだ――!
「――ッ!」
その次に自分の身体がどういう風に動いたのかよく分からなかった。ケイタの竹刀がミトの指を打って、ミトは竹刀を取り落とし、片膝をついた。ふわりとミトの髪が舞って、次の瞬間にはケイタはミトの肩に深く竹刀を沈めていた。
うるさいと感じた叫び声は、ケイタ自身のものだった。ケイタは肩で息をし、先ほどとは逆に、ミトを見下ろしていた。
「お見事……僕の負けです」
ミトが呟くように言った。ケイタは握っていた竹刀を落とし、それが床を叩く音が体育館に響いた。
「まあ、万里谷さん……またあなたなの? 生徒会の許可がない私闘は校則で禁止されてるんだから……ケンカなんてバカなことはやめなさい。もう男の子と混じって遊ぶ歳でもないんだし……」
「ケンカじゃないですよ、決闘です。生徒会の許可だってちゃんとあります。見ますか? 許可証」
「もう、生意気言って。先生は毎度毎度あなたが起こしたケンカの怪我を診るのは嫌です。あーあ、肩が外れちゃってるじゃない……それにこんな色になっちゃって、夏じゃないからいいけどねえ」
「先生、私この後約束があるので出来るだけ早くお願いします。あ、ちょっと、痛ッ! 先生それ痛ッ」
「我慢なさい! これで良くなるんだから」
教室に置いておいたカバンをとって、待ち合わせの場所へ向かう。昇降口への階段を下りていくと、踊り場に会長がいた。
「や、救世主さん、首尾はどうかしら」
会長の飄々とした様子に、ケイタは呆れて、けれどそんないつも通りの雰囲気に安堵を覚えた。まだ先ほどの緊張が残っていたのだ。
「首尾ですか……上々ですよ」
不敵に笑ってみせようとしたのだが、なんだか力が抜けてふぬけた笑いになってしまう。
「それはよかったわ」
会長はくるりとケイタに背を向けて、階段の下を覗き込んだ。
「種明かし、する? ミトとは中等生の時からずっと親友だから、なんでもよく知っているわよ」
言って、チラリとケイタを見上げる。ケイタは優しくため息をついた。
「いいえ、結構です。万里谷先輩が望むなら、その内話してくれるでしょうし」
確かにケイタには分からないことが多い。でもだからこそ出来ることもある。だから、知るのならば、それは望まれた時だ。
「僕これからデートなんですよ。海浜公園の観覧車に乗ろう、って」
ケイタは自慢するように言う。
「あぁら、妬けるわね」
ケイタの得意げな様子が気に入ったのか、会長はくすくすと笑った。そしてそのまま、昇降口へ降りていくケイタを見送ってくれた。
待ち合わせ場所の正門前の噴水には、もう既にミオが来ていた。
「ケイタさーん! こっちでーす」
右手を大きく挙げて手を振るミオ。その指はひとまとめに包帯で巻かれている。左肩も包帯を巻いてあるのか、服が反対側より盛り上がって見えた。そんな痛々しい姿に、ケイタは悪いことをしたと後悔したが、ミオのあまりに清々しい笑顔が背徳感を薄れさせた。
「ごめんなさい、先輩。お待たせしてしまって」
「いいえ、大丈夫です。私も遅刻しそうで走ってきたんですよ」
ミオはニコニコと笑っている。
「さあ、行きましょう、ケイタさん。……手を、繋いでもいいですか」
ミオが包帯の巻かれた手を差し出すので、ケイタはそっと自分の手を載せた。彼女の傷が――元々の傷も――早くよくなるようにと願いながら、優しく手を握る。
二人が歩き出すと、やがて夕日が道に影を伸ばした。
Our Light
第3話へつづく